変化

   *


 家々が立ち並ぶ細道を出てから大通りを右に曲がり、しばらく歩くと、家に向かっているときに見えていた宿泊施設へと続く道路が見えてくる。そこへ入り、突き当たりにある釜の淵公園を目指す。

 そんな私の前を、赤い首輪とリードで拘束されたお兄ちゃんが歩いている。はっはっはっ。断続的な呼吸音が、鋭い犬歯がのぞく彼の口から漏れる。そこからは生肉じみた色と見た目をした舌も垂れ下がっていて、歩みに合わせてぴろぴろと揺れていた。


 あの後結局、私はお母さんの放つ瘴気のようなものに負け、仕方なくお兄ちゃんに首輪などを取りつけた。なんとなく予想はついていたが、彼はいっさいの抵抗をしなかった。やっていることはぜんぜん違うのに、どことなくあのときのことが思い出されるような心地がして無性にチョコレートが食べたくなり、唇の端を前歯で噛むのをやめられなかった。


 やがて見えてきた簡素な石段を下りると、たくさんの木々が私たちを取り囲んだ。公園の中には私たち以外に誰もおらず、質量を持った沈黙が、青臭く湿ったにおいのする空気を支配していた。マムシが出ます、と書かれた立て看板に怯えながらも公園の中を突っ切ると、たくさんの不揃いな小石が雑然と転がっている河原に出た。休日はバーベキューや川遊びをする人々で溢れているが、当然今は誰もいない。対岸には駐車場と、今は時季外れで閉鎖されているが、小さな屋外プールが見える。そこを超えて坂をのぼっていった先には、先ほど私が下ってきた大学いも屋などがある道路があるはずだ。川を挟み、ぐるりと半円状に回ってきたような感じになる。

 お兄ちゃんは公園側に近い地面にできた小さな茂みで、片方の後ろ足をあげていた。いくら姿は犬とはいえ、きっと妹に用を足しているところを見られたくはないだろう。そう考え、私はぐるりと体を回転させ、川面のほうに視線を向ける。このまま雨が降り続けば、普段は透き通った緑色をしているこの川も、コーヒー牛乳みたいに濁ってしまうだろう。


 しばらくして、垂れたリードが河原の石をこする音がした。私の足元に向かってお兄ちゃんがのそのそと歩いてくる。それを横目で一瞥すると、私は川の中ほどにある、おにぎりのような形をした大きな岩を指差した。


「懐かしいねお兄ちゃん。あの岩見て。あそこに向かってよく、お酒の瓶を投げ込んだよね」


 私のお父さんは青梅から数駅電車を乗り継いだところにある酒造会社に勤めていた。私とお兄ちゃんがまだ幼いころにお母さんに連れられて、お父さんが案内役を務めていた、その会社の酒蔵見学に行ったことがある。私たちのほうをちらちら見ながら、緊張のせいかうわずった声で説明をしているお父さんと、こちらを見て気まずそうな顔をして何事かひそひそと話していた同僚の人たちの姿が、強く印象に残っている。

 そのときは彼らが決まって口にしていた単語の意味がよくわからなかったが、時が経って小学生になった私は、その『ストーカー』という単語を辞書の中で見つけた。その後につながっていた『無理やり』『外堀を埋める』『警察沙汰』という言葉の意味も、そのころ知った。


 そんなお父さんは、自分が酒好きということもあり、よくそこで作っているお酒を、自腹を切って買ってくることがあった。そして晩ご飯の時間になると、料理を食べながらそれをお母さんと一緒に飲んでいた。そこまでは別によかったのだが、彼らはアルコールが体に回ると、酒臭いこぶしを私たちに叩きつけてくるので厄介だった。

 なんで俺がこんな目に。わたしだってどうしてどうして、なんでこんな。気持ち悪いにおいと怒声をまき散らしながら、彼らは台風よろしく暴れまわり、私とお兄ちゃんだけでなく、皿の上に載った色とりどりの料理やお酒が入った瓶そのものを傷つけ、破壊していった。私たちはそれが嫌で嫌でしょうがなかった。これを止めなければ『憎悪』よりも危険なことになるとさえ思っていた。


 その結果、当時小学生だった私たちが考え出したのは、お酒を瓶ごと近くの川に投げ捨ててしまうという方法だった。ごみ捨て場に持っていく、ということも考えはしたが、そこに未開封の瓶が置かれているのを見られたらまずい、というお兄ちゃんの発案でそれは却下された。さすがに全部捨てるとばれてしまうので、いくつかは中身をほとんど捨ててから残りを水で薄めたものを用意しておき、それ以降お父さんが買い足してきたものはすべて川に放り込むことにした。

 期間限定で登場する銘柄以外はパッケージが共通であることと、薄めたお酒でも判断力を削がれてしまうほどにお父さんたちが下戸だったこともあり、最後まで作戦が露呈することはなく、酔いどれ二人による私たちの被害はかなり少なくなった。さすがに、その限定銘柄を買われたときはお手上げだったが。


「私ね、あの瓶が割れていくさまが大好きだったの。中身が岩にぶちまけられて、割れたガラスと一緒になって川の中に落ちていくっていうあれ。私は泳げなかったからよく知らないけど、きっと川底には、ガラス片が宝石みたいにたくさん散らばってたんだよね。きれいだっただろうなあ」

 水色の不透明な瓶に入った冷酒。深い森の色に染まった色をした吟醸酒の瓶。可愛らしい梅の実のイラストが瓶に描かれていた梅酒。たくさんのお酒の瓶を、なにかを損なわれないようにするために、私たちは岩に向かって投げつけた。夏が近づき暑くなってくると、その岩の根元の深くなっている淀みのところを、お兄ちゃんと隼人くんは一緒に泳いでいた。きっと二人には、暗い配色をした川底に咲いた、鮮やかな色彩のガラス片たちが見えていたのだろう。どんな感じだった、と聞いても二人は「男同士の秘密だ」などと理由をつけて教えてくれなかったので、私は彼らが絡み合ってはしゃいでいるのを河原に座って眺めながら、その素晴らしい光景を想像するしかなかった。

 そういえば、私が家を出ていった後はどうしていたのだろう。高校の卒業式の日の夜でさえも、お父さんは祝杯だ、などとほざいて日本酒を買ってきていた。私がいなくなったからといって、ぱったりとやめた、ということも考えにくい。


 しかし、その考えは的中してしまっていた。

 散歩を終えて帰宅し、お母さんの指示で仏間にお兄ちゃんを閉じ込め直してからダイニングに向かうと、お父さんが麦茶を飲みながら、背の低い食器棚の上に置かれたテレビで野球中継を見ていた。そんな彼はおずおずと中に入ってきた私を見つけると、かすかに微笑む。

「久しぶりだな梨穂子。二年ぶり、だっけか」

「う、うん。まあそれぐらい。多分」

「見ないうちに、少し大人っぽくなったんじゃないか」

「ははは。そうかな」

 ぎこちない会話がテーブルの上をぬるりと滑った。お母さんが台所から運んでくる料理が、それによって生じた隙間を埋めるように置かれていく。銀だらの酒粕漬けと、なめこの味噌汁の香りが鼻をくすぐる。心の中に、今更のように懐かしさと気持ち悪さが駆け巡る。ああ、私はあんなに逃げたかった実家へ、また戻ってきてしまったのだ。


 お茶碗に盛られたご飯が置かれると、お母さんはその足で席についた。そしてお父さんと一緒に「いただきます」と言って手を合わせ、食事を始めてしまった。私がそれに困惑していると、お母さんが銀だらの皮を箸で器用にはがしながら怪訝な顔をした。

「どうしたの梨穂子」

「いや、その、お父さんの給料日、たしかつい最近だったよね。お酒、買ってこなかったのかなと思って。いや、ないならないで別にそれがどうとかってことじゃないんだけど」

 いつもなら、ご飯を食卓に置くとお母さんはその足でダイニングを出て、玄関にあるみかんの大きな段ボールから、すでに真新しい瓶が割られていることに気づかないまま、ある程度使い回されたお酒の瓶を取り出してくるはずなのだ。そして食器棚から酒造会社のロゴ入りのお猪口を二つ取り出し、お酒を注いで乾杯をする。もちろんしない日もあったが、給料日直後でそれなりに懐が潤っているときに、お酒を飲まないなんてことがありえるだろうか。

 はがされた銀だらの皮が皿の端によけられるのを眺めていると、その隣でほうれん草のおひたしを口に運んでいたお父さんが口を開いた。


「あ、そうか梨穂子は知らないのか。お父さんたちな、お前が家を出ていってから二週間ぐらいしたときに、禁酒したんだよ」

「そうなの。飲酒は体によくないって聞いたし。それに、あんた中島さんって知ってるわよね。ほら酒好きで有名だったあのおじいさん。あの人『酒は百薬の長だ』とかどうとかってずっと言っていたじゃない。そうしたら、梨穂子が東京に出てから二週間後、わたしたちが禁酒を始めた日と同じ日に亡くなったのよ。たしか心不全で」

「そのとき、ああこれは天啓だ、って思ったんだよ。これを機に酒を断たなければ、俺たちも同じ運命をたどることになるって」


 それはつまり、健康のため、ってことなの。自分でも驚くほどかすれた声が、喉が絞り出される。


「そうだ」

「そうよ」

 そうなんだ。私はああ笑えてないなと思いながらも無理やり笑顔を作り、銀だらとご飯を一緒に口に運んだ。それを飲み込むと次は味噌汁に手をつけ、お椀を持ちあげて勢いよくすする。なめこと豆腐が口の中に侵入してくるが、噛まずに一気に飲み下す。机に置いたお椀の中は、上澄みと味噌がぐるぐると回り、濁った池のようになった。

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