対面

「うん、そう。久しぶり、隼人くん。今帰るところなの?」


 懐かしい顔との再会に、久しぶりの帰郷で縮こまっていた心が少しだけ柔軟さを取り戻していく。彼は私の家の五軒隣に住んでいる子だ。親同士はまったく仲が良くなかった(私の親が全面的に悪い)が、子供同士はとても仲が良かったので、一緒に遊ぶことが多かった。私よりも五歳下で、どちらかというとお兄ちゃんのほうによく懐いていた記憶がある。

「そうっす。今日は部活休みなんで。ていうかそんなことより、梨穂子さん、東京にいるんじゃ。今日、普通に平日っすよね」

 自転車から降り、それを手で押して歩きながら、隼人くんはそんなことを聞いてきた。駅前で見た汚らしくて人工的な茶髪ではなく、塩素によって長い時間をかけて色の抜けた髪の毛と、自転車の前かごに積まれた『水泳部』と刺繍されているエナメルバッグとを私は交互に見比べる。


 そういえば、私がまだ家にいるとき、日曜日になるとときどきお兄ちゃんは彼と東青梅駅のほうの室内プールに出かけていた。お兄ちゃんはスイミングスクールや部活には属していなかったものの、昔から泳ぎが得意だった。大学に入ってからはついに水泳部に入り、本格的に練習を始めていたから、一緒に練習していたのかもしれない。

「え、あー、ええっとね。帰ってきたくなって、帰ってきたというか、ねえ」

「でも、梨穂子さん青梅には絶対残らないって言ってたじゃないすか。変なの……あっ」

 お兄ちゃんの件を伝えるか伝えまいか悩んで適当な返事をすると、隼人くんは気まずそうな顔をして口をつぐんだ。彼は気にせずに接してくれていたが、我が家が『変』であることは近所では有名な話だった。もしかしたら彼の家に、なにか情報が伝わっているのかもしれない。佐竹家がまたなにか変なことをほざいている、というようなことが。


「もしかして、なにか聞かされてるの」

 隼人くんは一瞬ためらった素振りを見せた後、小さくうなずいた。そして、唇を震わせながら語り始める。

「四日前くらいにうちの親が言ってたんっす。梨穂子さんのお母さんが、スーパーで大量にドッグフードやペットシーツを買い込んでるところを見たって。さらに『啓太郎が犬になったから必要になって。ああそうだあんたの家に昔犬いたわよね。余ってたらそういうの譲ってくれると助かるのだけど』みたいなこともうちの親に言ってきたらしくて。そりゃ、最初に聞いたときはアホみたいな話だなあと思ったっすよ俺も。でも、真偽を確かめるために啓太郎先輩を尋ねても、ぜんぜん会わせてもらえなくて。おまけに携帯も繋がらないし。梨穂子さん、突然こっちに戻ってきたのって、まさか」

「うん、そうなの。昨日、お母さんからお兄ちゃんが犬になったの、って連絡があって。それ以上は教えてもらえなかったから、私もよく知らないんだけど。だから確かめにきたのよ」

 彼の泣きそうな顔を眺めながらそう口にすると、彼は自転車を押す手を止めた。道は広い大通りから、いつの間にかくねくねと曲がりくねった細道に変わっていた。背後を振り返ると、二年ぶりに見る実家がそこにそびえ立っていた。


「あ、もう家に着いちゃったっすね」

「隼人くん、もしあれならお兄ちゃん連れてこようか? 少しここで待っててもらえば」

「い、いや、いいっす。おれは帰ります。犬になったとかならないとかそういう前、つまり引きこもり出してから、啓太郎先輩あまりおれとは連絡を取らなくなっちゃってて。もしかしたら、おれがなにか気に障るようなことをしちゃったのかもしれないですし。あそうだ、もし啓太郎先輩に会えたら、またプール一緒に行きましょう、って言っておいてくださいっす。それじゃあ」

 そのまま自らの家のほうに歩いていく彼の縮こまった後ろ姿を見送ってから、私は家の門をくぐって玄関へと向かった。すりガラスのはまった扉は、鍵がかけられていてびくともしない。鞄の内ポケットに入れていた鍵を探りながら、私はつい先ほど、隼人くんが浮かべていた寂しげで湿った顔を思い出し、いたたまれない気持ちになる。


 見つかった鍵を乱暴に鞄から引き抜くと、私はそれを鍵穴に差し込み、扉を開錠して家の中に入った。スニーカーを脱いだ足で踏んだ床板は死んだように冷たい。ただいま、と呼び掛けてみるが、家のどこからも反応はない。とりあえず二階にある自分の部屋にトランクと紙袋を置き、私は家の扉という扉を片っ端から開け始めた。リビング。台所。トイレ。お兄ちゃんの部屋。お母さんとお父さんの部屋。そのどこにも、お兄ちゃんはいない。となると、可能性がある部屋はあと一つしかなかった。

 心なしか重くなった足取りで階段を下り、廊下を右に曲がると、見慣れた襖と大きな木の棒が姿をあらわす。私の予想通り、その棒はしっかりと襖の可動域の部分にはめ込まれ、つっかえ棒の役割をはたしていた。それをゆっくりと外し、昔『憎悪』がおこなわれていた、その忌まわしき部屋の扉を私は開ける。


 そしてそこに、お兄ちゃんはいた。


 彼はいきなり部屋に入ってきた私に対し、声をあげたり大げさな反応をしたりはしなかった。つぶらな瞳で、人間よりも格段に低い位置から私のことを見つめているだけだった。茶色い毛並みを持つ、柴犬の姿で。

「ねえ、お兄ちゃんなの」

 『憎悪』の舞台として使われていたここには、黒くて立派な仏壇が鎮座していて、そこには母方の祖父母が祀られている。本来、ここは神聖な仏間であるはずなのだ。そんな場違いもいいところの部屋に閉じ込められていた彼は、私の問いかけに答えず、なおも曇りのない瞳をこちらに向けていた。くるんとした尻尾がぱさぱさと畳を叩く。その仕草に、かすかないらだちを覚える。

「なんとか言ってよ」

 部屋の中を歩き、私はお兄ちゃんに近づいた。数年ぶりに入ったこの部屋には、様々な痕跡があちこちに残されている。よく見ないとわからないほど薄い文字で、お母さんへの呪いが書きつづられた壁。私が吐いた嘔吐物の跡。出してください、と襖を叩いて懇願し続けたことによりそこにできた、こぶし大の穴。それらはすべて、その当時の私によるものだった。ここに閉じ込められている、お兄ちゃんのものではない。犬の爪跡や歯型のようなものを探してみるが、それらしきものは見当たらない。彼は外に出ようと苦心しているわけではないらしかった。お兄ちゃんの近くに座り、おそるおそる頭をなでてみる。密に生えた柔らかい毛の感触がてのひらに伝わった。普通の犬ならば嬉しそうにしたり嫌がったり、なんらかの反応を示すはずだが、彼は先ほどと変わらない様子のままでこちらを見つめていた。


 そこで突然、玄関の扉が開いた音がした。廊下の床板がわずかに軋む音もそれに続く。開けっ放しの襖のほうを振り返ると、スーパーの袋を両手に握ったお母さんがあらわれた。能面のようなのっぺりとした顔をしている。どうやらパート帰りらしく、襟付きの半袖シャツと、スーパー指定の黒いスラックスに身を包んでいた。

「帰ってたの。久しぶりね」

「う、うん。久しぶり。えっと、た、ただいま。少し、痩せた?」

「そうなの。最近体重が減ってきて」

「はははそうなんだ。ところでお母さん。これは」

「それが啓太郎よ。逃げられたら困るからここに入れといてあるのだけど、わたしもお父さんもどうしていいかわからなくて。とりあえず犬と同じように世話してあげているのよ。本当は啓太郎の好きな舌平目のムニエルを作ってあげたいのだけど、犬に人間と同じ食べものをあげるのは危険ってどこかで聞いたから」

 電話口におけるあの言葉の洪水はなんだったのかと言いたくなるほど、目の前にいるお母さんの声は乾燥していて覇気がなかった。二年前よりげっそりとしたその姿も相まって、私の頭の中に『ゾンビ』という言葉が思い浮かぶ。頬のこけたその顔をまじまじと見ていると、お母さんは突然思いついたかのように手を叩いた。弱々しい音が鳴る。


「そうだ梨穂子、ご飯ができるまで、啓太郎を散歩に連れていってくれないかしら。ぺットシーツも買ってきてあげたのに、この子ぜんぜん家の中ではトイレをしてくれないのよ。まさか人間用のトイレに座らせるわけにいかないし。わたしもお父さんもそれぞれ忙しいし、なかなか散歩に頻繁に行かせられなくて」

「べ、別にいいけど」

「本当? それじゃあお願いするわね。首輪とリードはちゃぶ台の下に置いてあるから」

「ね、ねえ。あのさ」

 私はちゃぶ台の下をのぞき、そこに無造作に置かれていた首輪とリードを取り出す。そして、再びお母さんのほうに向き直った。なに梨穂子、とお母さんは無表情のまま問いかけてくる。その雰囲気に少しだけ気圧されながら、私は疑問を口にする。一瞬だけ、皿の上でどろどろになったチョコレートが脳裏をよぎった。

「お兄ちゃん、犬になっちゃっただけなんでしょ。ひもでつないで歩かせるなんて、どうなのかな。お兄ちゃんがいいって言うならいいんだけど。そういえばお兄ちゃん、喋ったりはできるの」

 お兄ちゃんは声変わりをあまりしなかったので、女である私よりもお母さんに似た高い声をしていた。私の好きな椎名林檎も大森靖子も、原曲のキーのまま口ずさむことができた。犬の喉で、同じことができるかは怪しいところだが。

 膝元で畳にお腹をつけていた彼に、私は目を向ける。お兄ちゃんの瞳が私を映す前に、お母さんが冷たい笑い声をあげた。


「ふふふ、なにしているの梨穂子。犬に話しかけたりなんかして。犬が喋るわけないじゃない」

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