チョコレートと帰郷

 もう一度電話をしたほうがいいのだろうか。そう考えつつも、私はガトーショコラの入った箱を膝の上に置き、それを開封した。漂ってくる冷気とチョコレートの香りを感じながら、私はその中に手を突っ込んでガトーショコラを取り出す。上に光沢を持った半生のチョコレートが塗られており、その下にスポンジとクリームが地層のように積み上げられている。それをじっくりと鑑賞することもないまま、私はフォークやお皿を用意せずにそのままかじりついた。

 途端に、口の中で幸せが爆発する。甘いだけではない、得も言われぬ濃厚な味が脳天を突き抜けていく。品性のかけらもない、それこそ犬のような食べかただろうなと考えつつも、私はクリームを口の端にべったりとつけながら、汚らしくガトーショコラをむさぼるのをやめることができなかった。


 はっと気がつくと、私は指についたスポンジケーキのかすやチョコレートの残りまでもを、一心不乱に舐めとっていた。こんなんじゃ、こんなんじゃまだ足りない。私は机上のティッシュ箱からティッシュを何枚か乱暴に引き抜くとそれでおざなりに手を拭き、別に購入していたチョコレートの箱を開ける。

 かわいらしく箱に収められたチョコレートを、まだ汚さの残る手で次々と口に入れ噛み潰していく。先ほどのガトーショコラと似た味をバックに、ラズベリーの甘酸っぱい風味、オレンジの爽やかさとかすかな苦みが共存した味わいなどが、口の中に入れかわり立ちかわり登場しては消えていった。だがそれも長くは続かず、最後に残ったパイン風味のヒトデ型チョコを噛み砕くと、それはゆっくりと霧散していった。私はがっくりと肩を落とす。もう、終わってしまった。


 いつもなら市販の安いチョコレートを毎日補充し、切らさないようにしている。しかし昨日はそれらをすべて食べ尽くしてしまったうえ、明日は高級チョコレートを買うんだからと補充を怠ってしまっていた。いくらまだ食べ足りないと思っても、今のこの部屋には一つたりともチョコレートは存在していなかった。

 徒歩三分のところにあるコンビニに買いに行く、という考えが一瞬頭をよぎる。今後の金銭事情を鑑みて、それを頭の中で素早くくしゃくしゃにする。チョコレートの味が唾液で流されていくたび、どんどん頭が冷静になっていく。お母さんじゃあるまいし、チョコレートで人生を台無しにするわけにはいかない。それはただのバカだ。


 ああそうだ、お母さんの電話はどうなったんだ。慌てて携帯を開いてみると、不在着信が三件と、メールが一件きていた。すべてお母さんによるものだった。

『電話に出ないので、メールをしておきます。啓太郎が、犬になってしまいました。とりあえず、一度こっちに帰ってきませんか? 今後のことを話し合いたいです』

 今後のこと、ねえ。

 私はチョコレートの空箱をごみ箱に放り込むと、しばらくの間考え込み、こう返信した。

『わかりました。明日、いったんそちらに戻ります』

 ほどなくして、送信が完了したことを示すプッシュ通知が画面上部に現れる。明日は平日で普通に授業もあったが、目的もやりたいこともない文系大学所属の三年生である私にとって、授業を適当にさぼるということは、いっさい罪悪感を生まない行為だった。


 それに、私にはたしかめなくてはならないことがある。


 通知アイコンの白い輪郭を目に焼きつけながら、私はチョコレートクリームがまばらに残った指をぐりぐりと唇に押しつけ、小さく笑みを浮かべた。




   2


 次の日の昼、私はトランクと大きな紙袋を運びながら電車に乗り、新宿へと向かった。黒いプラスチック製のトランクの中には衣服やら使い慣れたシャンプーやら、生活用品が詰め込まれている。そこまで重いわけではなかったが、もともとのサイズが大きいために取り回しがきかず、人を避ける技術が問われる新宿駅構内ではとても邪魔になった。同じぐらいの大きさのトランクを、慣れた様子で軽々と引きながら悠然と歩く背広の男が私の隣を通り過ぎる。いつになったら、私はああなれるのだろうか。

 ホームに降り立ち、運よく滑り込んできた青梅線直通の列車に乗車し、端のほうの席を選んで座る。高層ビルがどんどん横にスライドしていくと同時に、建物が見る間に潰されて高さを失っていく。無機質な色合いのビルやマンションが数を減らし、その代わり、背の低い家屋や木々の緑色のふくらみがその隙間に次々と生えてくる。そのさまをぼんやりと眺めながら、私は親指の爪の間にできたささくれを剥く。


 電車の速度が落ち、車内アナウンスが青梅駅に着いたことを告げるころには緑色のふくらみは山となり、駅に覆いかぶさるほどに大きく成長していた。ため息と共に立ちあがり、完全に停車した電車から車外に出ようとドアの前に立つ。しかし、ドアはまったく開く様子を見せない。困惑していると、ああそうだこの区間はボタンを押さないとドアが開かないのだった、と思い出す。右手側に取りつけられているボタンを押すと、それは間抜けな音を立て、あっさりと開く。その隙間からせり出してきた草のにおいと湿気が私を包み込んだ。新宿を出たころから降り出し始めた雨は、この辺りに来ても結局やむことはなかった。

 昭和の映画ポスターのレプリカが両側の壁に貼られている連絡通路を抜け、簡素な改札をくぐり抜ける。強烈な雨によりくすんだ色をした建物たちは、さらに輪郭を削り取られていた。近隣にある高校の下校時刻とちょうど被ってしまったらしく、ロータリーには高校生が溢れている。まだらな茶髪、短すぎるスカート、流行りが過ぎたブランドのロゴつきバッグ、濃すぎる赤色の口紅。絶妙に都会感を履き違えている彼らは、自分たちが世界の中心であるかのように汗っぽいオーラを放っていた。それを横目で見ながら、私はバス停で次のバスがやってくる時刻を確認する。ちょうど四分前に、私の家のほうへ向かうものが発車した後だった。小さく舌打ちをし、足早にロータリーを抜ける。大きな水溜まりを踏み抜いてしまい、靴が少しだけ濡れてしまった。

 駅舎と高校生たちが後方に遠ざかっていくと、町は本来の姿を取り戻し、時が止まったかのような沈黙が辺りに降りてきた。休日ならば人が県外などからもそれなりにやってきてにぎやかになるのだが、平日の夕方、しかも雨が降っているとなると、駅前の大通りですらもゴーストタウンに変わる。目線の先の金物屋から、らくだ色のカーディガンを羽織った痩せぎすのおばあさんが道の様子を確かめに出てきたが、すぐに頭を引っ込めてしまう。


 そのまま商店街を歩き、大通りを道なりに左に曲がる。路面はゆるく下り坂になっており、足元では雨水が小さな小川を形成していた。しばらく歩くと左手側は柵に隔てられ、その下が崖のように変化した地帯に出る。その下に乱立する民家の壁や屋根の隙間から、向こうにぽっかりと口を開けている多摩川や、緑の化け物に抱かれた釜の淵公園、上にそびえる白い壁の宿泊施設などをきれぎれに見ることができた。

 雨で白くけぶるその景色は、『戻ってきてしまった』という焦燥感を際限なく呼び起こしてくる。バスに乗れずに歩くはめになってしまったことも相まって、私は大学いも屋の目の前の歩道で足を止めてしまいそうになった。が、一拍だけ置いてからすぐに歩みを再開した。雨足は強くなる一方で、どこかで雨宿りしていたら日が暮れてしまいそうだった。

 田舎の夜は怖い。この辺りの道は家やマンションが多いし、道幅も広いのでまだましだろうが、私の家の近辺は山道を切り開いてコンクリートをとりあえず流し込んでおいた、とでも言いたげな場所なのだ。夜になると、土と草の香りが曖昧な形をとって、私の手足に体をこすりつけてくる。昔からそれが気持ち悪くて嫌いだった。


 道にできた水溜まりをトランクで引き潰しながら進み、「まんねんばし」というプレートが入口に取りつけられた大きな橋を渡る。眼下では、雨のせいか少しだけ透明度を失っている水がごうごうと音を立てて流れていた。比較的流れのゆるやかな岸辺には、二羽のサギが針金のような足を使って立っている。魚を狙っているようだ。

 私の横を、男の人が乗った自転車が猛スピードで通り過ぎていく。傘差し運転にイヤホン。警察に見つかったら即レッドカードを食らうであろうその彼は、橋を出て数メートル進んだ先で突然急ブレーキを踏んだ。車体が完全に止まると、イヤホンを外しながら、こちらを振り返った。顔の細部や表情は距離が遠くてよく伺えなかったが、私の顔を見定めるようにじろじろと見つめていることだけはわかった。困惑しながらその場に立ち尽くしていると、彼は再びペダルを漕ぎ、こちらに戻ってきた。ジャージを着ている彼の顔が明瞭になっていく。それにつれ、私の顔は自然とほころんでいった。


「え、梨穂子さん? 梨穂子さんっすよね」

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