都会、そして唐突な電話

   *


 退屈な講義が終わると、私は一目散に大学を後にした。それなりに豪華なキャンパスの門をくぐると、アスファルトと腐ったごみに彩られた池袋の街が出迎えてくる。高校卒業までを過ごしていた山間部の町である青梅と、同じ東京にあるとはとても思えない。

 大学進学を機に池袋で一人暮らしを始めてから、もう二年と二か月が経つ。実家には一度も帰っていなかった。お母さん、お父さん、そしてお兄ちゃん。彼らの顔が頭の中に浮かんでは消えていく。私は肩にかけた鞄の持ち手を、右手で強く握る。特に思うところはなかった。


 人混みと汚染された大気をかき分けながら進み、マルイの地下階から池袋駅の地下通路に侵入する。外よりもたくさんの人がそこを行きかっている。まるで地下通路という血管を流れる血液のようだ。

 そこも外と同じ要領で進んでいくと、シュークリーム店やパン屋、旅行代理店などが立ち並んでいる、少しだけ開けた場所に出る。興奮で足取りがどんどん軽くなっていくのを感じながらそこを通り抜け、丁寧に拭かれていて曇り一つない自動ドアをくぐって、私は東武百貨店に足を踏み入れる。ドレスを着たようにふんわりとした曲線を描くケーキ。砂糖と黄金色のバターを身にまとったラスク。きらきらと宝石のように輝くフルーツタルト。芸術作品のようなお菓子たちが、ショーウインドウのようなガラスケースの中にずらりと並んでいる。それを見ているだけで、私の体の芯に甘い痺れが駆け巡る。


 チョコレートは人間の食べものではないというあの妙な思想を作りあげ、私とお兄ちゃんにもそれを強要していたのは両親だったが、その中でも、それを病的なほど徹底していたのはお母さんのほうであった。

 昔、彼女はチョコレートが大好物だったらしいのだが、高卒で働き始めてからストレスを溜め込んでいったことと、お金に多少余裕ができてしまったことが原因で、高級なチョコレートを大量に買い漁り始めてしまった。その結果、それを食べ過ぎたせいで激太りしてしたのだ。

 高校在学時から交際し、時期を見て互いの両親に挨拶しにいこう、とまでなっていた当時の彼氏とは、それがきっかけで破局してしまった。そして数年後、三軒隣に住んでいたお父さんと数か月の交際の後に結婚し、お兄ちゃんと私が生まれた。しかしその後もときおり彼女は、お父さんの目を盗んで台所の戸棚にしまってある昔の彼氏の写真を見てため息をついていた。その光景を、私は何度か見たことがある。憂いを帯びた背中だった。

 きっとお母さんは、チョコレートによって一部がずたずたに破壊されてしまった自分の人生を、ひどく後悔していたのだと思う。だから襖を閉め切ったあの部屋で、私たちにそれを『憎悪』するように求めたのだ。愛する子供たちが、自分と同じ目にあってしまわないように。チョコレートに足元を掬われてしまわないように。なんと素晴らしい、無償の愛だろう。糞くらえとしか考えられない。


 私は洋菓子店が集まったコーナーを三周して商品を吟味し、最終的にガトーショコラと、初夏の限定品ですよと説明された、ヒトデ型のチョコとパステルカラーのチョコレートがかわいらしい箱に収められているものを購入した。大学に進学するため東京に出てきてからというもの、毎月バイト代が振り込まれると、普段は手が出ない高級チョコレートやお菓子を買うのが習慣になっていた。お母さんたちの監視の目がなくなった今、私はこれまで我慢してきたぶん、反動のようにチョコレートにお金をつぎ込み続けている。友達の家でこっそり食べてきたり、お小遣いで買って食べたりした安いチョコのにおいと食感を、家にたどりつく前に緑茶を大量に飲むことで消す必要はもうない。私にとってそれは、夢にまで思い描いていたことだった。

 嬉しさのあまり大きくなった歩幅で、私は来た道を戻った。地下通路を出て裏道を歩き、小さな公園とその前にあるマレーシア料理屋の前を通り過ぎる。そのまま直進し、薄暗がりにひっそりとそびえる三階建てのアパートの階段をのぼり、二階の角部屋の扉に鍵を差し込む。

 扉を開けてその中に体を滑り込ませると、履いていたコンバースのスニーカーを脱いで部屋の中に入り、ひとまずベッドにガトーショコラたちが入った袋と鞄を置いた。携帯を鞄の外ポケットから取り出し、画面を点灯させる。


 その瞬間、画面に表示された不在着信があったことを示す通知に、私の目は釘付けになる。『実家』という文字列が、そこに躍っていたからだ。

 家を出てからというもの、私は電話やメールなどの連絡を完全に絶っていた。「大学は楽しいよ」とか「あけましておめでとうございます」とか、そういった類の連絡もいっさいしていない。向こうからもしてくることはなかった。それなのに約二年が経過した今、こうして電話をかけてくるなんて。

 携帯と接しているてのひらがじんわりと熱を帯びていく。まさか、家族のうちの誰か、もしくは親戚が死んだのだろうか。もしくは、実家が放火被害にあったのだろうか。そんなことを考えながら部屋の真ん中で棒立ちになっていると、再び実家から着信がきた。電話に応答するかしないかを問う画面が表示される。震える指で、私は応答することを示す緑色のボタンに触れ、おそるおそる携帯を耳に当てた。こちらがなにかを言う前に、抑揚のない言葉がスピーカーから流れてきた。


 お兄ちゃんが、犬になっちゃったの。


 は? 久しぶりの通話だということも忘れ、私は気がつくとそう口にしていた。冗談? 本気? 疑問が頭の中をぐるぐると回る。補足の情報が欲しいのに、電話口の人物は沈黙したままだった。声から察するに、相手はお母さんだろう。

「ひ、久しぶり。どうしたの急に。お兄ちゃんが犬になったって、どういう」

 緊張のあまり、声がうわずってしまう。彼女はなにも言おうとしない。お兄ちゃんが、犬になっちゃったの。脳内で反芻したお母さんの声は、二年前よりどことなくしゃがれている気がする。


 私は心を落ち着けようとベッドに腰かけた。マットレスがたわんでぎゅむっという音が鳴り、それに携帯のスピーカーから聞こえるかすかな息遣いが混ざり合った。近くに転がっていた猫のキャラクターのぬいぐるみを抱き寄せ、携帯を両のてのひらで握りしめて耳をすませる。

 次の瞬間、鼓膜を破らんばかりの勢いでお母さんがまくしたて始めた。

「そのままの意味よお兄ちゃんが犬になっちゃったのよ。そそそそうだ説明が必要よね。あんた高校の卒業式の翌日から家を出て東京行ったきりこっちに帰ってきてないんだし。お兄ちゃんは飯能のほうの大学に通っていたでしょう。あそこを去年卒業してからせんべい工場に就職したのよ。でも半年で辞めちゃって。それからはつまり、に、ニート、になっていたのだけど。ずっと家にいたのよアルバイトくらいしなさいって言ったのわたしは言ったのにお兄ちゃん働いてよーって、ね。言ったの。ふふふ。それでも全然部屋から出てきてくれなくって。で、この間よ。わたし近所のスーパーの総菜売場でパートしてるじゃない。それが終わって買いものをして、それで帰ってきたら知らない犬がリビングでくつろいでいたの。お兄ちゃんがいつもしているヘッドホンを首にかけた状態で。信じられる梨穂子。いやそりゃわたしだって信じなかったわよ最初は、でもその犬ったらお兄ちゃんの部屋着を着てたの。もちろん人間サイズだからだぼだぼだったけど。それで確信したのよああこの子は啓太郎なんだ、お兄ちゃんが犬に変身しちゃったんだって。でね梨穂子、頼みがあるんだけどねわたしさ」

 がたがたという雑音が突然そこに割り込んだかと思うと、通話はそこでぷっつりと途絶えてしまう。耳から遠ざけていた携帯をおそるおそる耳に近づけてみると、すでに通話は終わっていた。

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