ドッグフード

大滝のぐれ

ある夏の閉じた部屋で



   1


 チョコレートは人間の食べものではありません。

 チョコレートは人間の食べものではありません。

 チョコレートは人間の食べものではありません。


 窓も襖も閉め切られ、その上夏だというのに冷房も消された部屋の中で、私とお兄ちゃんは丸いちゃぶ台の上に置かれた板チョコレートを前にして、ひたすらノートにその言葉を書きつづっていた。銀紙から露出した茶色の塊が湿気と熱気に炙られ、とろけるような甘い香りを放つ。私は生唾を飲み込みながら、それを必死に無視しようと努めた。でもその甘美な香りはその考えを嘲笑うかのように強さを増し、一生懸命『憎悪』を果たそうとする私を苦しめる。隣で同じく『憎悪』に取り組んでいるお兄ちゃんは、もみあげにいくつも浮かぶ汗の筋をときどき手の甲で拭いながら、ひたすらチョコレートへの否定をノートに書いていた。その手はよどみなくすらすら動いており、文字も学校で書写のときに配られるお手本のようにきれいだった。部屋に立ち込める香りに、惑わされている様子はない。


 ねえ。私は鉛筆を紙の上に走らせつつ、その横顔に問いかける。

「お兄ちゃん、怒ってる? 私のせいでこんなことになって」

 お兄ちゃんは答えなかった。おまけにこちらを見ようともせず、視線はノートの上の文字に釘づけになったままだった。汗のしずくがまたもみあげを滑る。彼はそれを拭わなかった。

 すると突然、襖とその下の木の板とが擦れる音がした。廊下のひんやりとした空気が部屋になだれ込む。汗ばんだ顔が久々の冷気に喜ぶのとは対照的に、私の心は冷凍庫に放り込まれたようになってしまった。廊下の空気と一緒に、お母さんが部屋に入ってきたからだ。

「調子はどう」

 一本のしわもない白いブラウスを着こんだ彼女は、私とお兄ちゃんのノートを交互に見比べながらそう口にした。背中に寒気がむかでのように這い回る。その瞬間、私のノートがお母さんに取り上げられてしまう。消しかすが、柔らかくなったチョコレートの上にぱらぱらと落ちる。

「梨穂子、なにこれ。全然進んでいないじゃない」

「ごめんなさい」

「わかっているのあんた。これは罰なのよ。いつも言っているでしょう。チョコレートは人間の食べものではないの。毒なのよ。あんたはそれを食べてしまったのそれって自殺と同じでしょいけないことでしょ。親がだめってあんなに口を酸っぱくして言ったことをあなたはわたしの気持ちも知らないで簡単に踏みにじったのよ。ねえ梨穂子わたしの言ってることわかるわよね、なんでこんなことをするのかもわかるわよね」

「わかります」

 うつむきながらか細い声でつぶやき、なんとはなしに視線を右にずらしてみると、いつの間にかお母さんは私の真横にかがんでいた。木のうろのように真っ暗な瞳が、こちらをねっとりとねめつけている。右手にはちゃぶ台の上にある板チョコとは別の板チョコが握られていた。お母さんはそれの銀紙を乱暴にはがしながら、自分の顔を私の耳元に近づけてくる。

 にゅちょっ、というかすかな音が耳の穴に注がれた。続いて、なにかが濡れたところでぐちょぐちょとかき混ぜられているかのような音が続く。お母さんが柔らかくなったチョコレートを噛み砕いているんだ、と私は気づく。唾液と混ざり合ったそれは、お母さんの口の開閉に合わせ、甘くて濃厚なにおいと生々しくて粘っこい生きもののにおいを波のように交互に放ってくる。私はその強烈な臭気が通り過ぎていくのをひたすら願った。


 やがて、糸引くような不快な音が少しずつ輪郭をなくしていくと、こくん、とお母さんが喉を鳴らした。

「わたしはね、梨穂子に毒を体に入れてほしくないの。だからこうしてこの甘くて臭くてすぐ溶けて気持ちの悪い物体はよくないものだ、って教えてあげてるの。ねえわかってわかってよ梨穂子」

 懇願するような高い声と共に、今までよりずっと濃いチョコレートのにおいが私の顔の周りをすっぽりと包み込む。胃液の中で徐々に形をなくしていく茶色の塊。そこから立ちのぼる瘴気。それが食道、喉を通り抜けるうちに粘性をまとっていき、お母さんの口臭になる。そう考えると、体の奥から一気に嘔吐感が駆けあがってきた。喉でとどめる間もなく、私は畳に思い切り嘔吐した。同じクラスの会田さんの家のトイプードルと同じ、薄い茶色をしている。それは私がついさっき友達の家でおやつとして口に入れたものの正体を如実に表していた。

「えらいえらいわっ梨穂子。そうよ消化する前に吐いてしまえば大丈夫なのよ、吸収される前にげーってやっちゃえば。ここまでくればあともう一息ね。チョコレートをいつもやっているように、徹底的に憎みなさい。そうすれば、一度毒された体も完全に清められるわ。もちろんわたしも後で吐くわよこんなもの。梨穂子のためを思って、チョコレートの毒素を肩代わりしたに過ぎないもの」

 思い切り畳にゲロをぶちまけたのに、お母さんは嫌な顔一つしなかった。待ってましたと言わんばかりに軽い足取りで廊下に出ると、新聞紙を手に部屋の中に戻ってくる。

「ほら、もっと吐き出しなさい。それが全部じゃないのでしょう? 全部吐き出して、『憎悪』を終わらすまでここから出さないわよ。自分がしたこと、しっかりと噛みしめなさい。あんたの身勝手な行動は、啓太郎にも迷惑をかけているのよ」

 まったく。あとで早苗ちゃんちに電話しないとね。お母さんはトイプードル色の吐瀉物を新聞紙で拭き取りながらそう言った。先ほどまで一緒に遊んでいた友達の早苗ちゃんの顔と、それを微笑みながら見つめていた彼女のお母さんの顔が思い浮かぶ。私には、どうすることもできない。無力感が、諦めと共にゆっくりと体を包んでいく。

 早苗ちゃんはこれからも、私と遊んでくれるだろうか。ただでさえこの変な思想のせいで、友達からは腫れもののように扱われているのに。彼女はそれをまるっきり無視して、私と対等の位置に立って遊んでくれる数少ない友達なのに。彼女も他の子のように、曖昧な笑みと妙な気遣いを着込み始めてしまったら。私は、どうすればいいのだろう。


 そう考えていると、隣で衣擦れの音がした。畳から視線を離すと、お兄ちゃんがノートと鉛筆を手に立ちあがっていた。ゲロとチョコレートの甘臭いにおいをいっさい意に介していないような素振りを見せながら、彼はお母さんにノートを手渡す。新聞紙を離したお母さんの手によってノートがめくられていく。チョコレートは人間の食べものではありません。お母さんが決めたお題目が、紙の上にびっしりと這いずり回っている。ノートのちょうど半分のところで、その文字列はぴったりと消えていた。それは、今日私たちがお母さんに課せられた『憎悪』の量と一緒だった。

「啓太郎、えらいわ。あんたはなにも悪くないのにごめんなさい。でもね、チョコレートを食べた梨穂子の息が啓太郎にかかったんだと思うとあなたも同じように毒されちゃったんじゃないかってわたし心配で。それにしても、ありがとうね啓太郎。あんたがこの子の愚かな行動を教えてくれなかったら、家の中が汚されるところだったわ」

 お母さんはお兄ちゃんの汗だらけの頭を撫で、部屋の外に出るように促した。彼は表情を動かさないまま、私のほうを見た。そこに一瞬、なにかしら意志のようなものが宿る。しかし、それはすぐ襖によって断絶されてしまった。部屋の中には、私とお母さん、そして柔らかく匂い立つチョコレートだけが残される。

「さて、と。まだ梨穂子はなにも終わってないのよ。『憎悪』の前に、まずは毒を全部体の外に出さないとね。ほら早く。吐きなさい。ほら。まさかあの程度で終わりじゃないでしょう。早く。聞こえているの」

 お母さんの怒声が、私の頭の中でぐわんぐわんと反響する。早苗ちゃんの笑顔。お兄ちゃんの瞳。それらを思い出しながら、私は静かに畳に爪を立てる。かたくなに動かない私に痺れを切らしたらしく、お母さんは「終わるまで絶対にここから出さないから」という言葉と共にいらだちを孕んだ大きな足音を残し、部屋を出ていった。がこん、という音が襖のすぐ裏で鳴る。鍵がわりのつっかえ棒をはめ直したようだ。


 ややあって「あ、いつもお世話になっております、わたくし、佐竹梨穂子の母親の、はい、はい」というお母さんのよそ行きの声が壁越しに聞こえてきた。リビングにある固定電話から、早苗ちゃんの家に電話をかけているらしい。その近くにある白いソファーには、きっとお兄ちゃんが座っているはずだ。氷の浮いた麦茶を、すました顔で飲みながら。

 その光景を思い浮かべ、私はノートに再び鉛筆を突き立てる。机上のチョコレートは暑さで溶け、泥の塊のようになっていた。


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