あなたを見て、一瞬で恋に落ちたの。

 いやだ、いやだ、と駄々をこねてもやってくる新学期。まだ夏の暑さが残っていて、無性に喉が渇く。べたべたと張り付く汗も、じりじりと肌を焼く強い日差しも、まだ夏の気配を残している。

 学校へ向かう足取りは重く、一歩一歩進むごとに憂鬱さが積み重なっていくようだ。

 夜乃さんに出会って、半月は経過していた。

 唐突の告白から数週間経過している。ずるずると逃げ続けて、気づけばもう夏休みが終わり、少しばかり煩わしい学生生活が待っていた。クリーニングされた制服に身を包み、じっとり張り付く汗に辟易しながら、学校の門をくぐる。休み前と変わらない光景がそこには広がっていた。

 門をくぐっても、足の重さが変わるわけではない。やはり重い足を引きずって、教室へと向かう。

「あ」

 一瞬で音がなくなるようだ。


 ――――海で見た彼女がそこにいる。



 さらさらと流れていた黒髪は、窮屈そうにきつく結ばれていた。何を考えているのかわからない顔は、海で出逢ったときと一緒だ。

 ぼんやりと現実感のなさに、私は自分の頬をつねる。いたい。これは紛れもなく現実、と気づいた瞬間。私は夜乃さんの手をとって、走り出した。

 数週間前の、数時間前の自分の現状を覆すような行動力だった。勇気なんてないはずだった、ただ逃げ続けようとしていたはずだったのに。目の前にいる夜乃さんから逃げることなんてできそうになかったのだ。

 遠くで友人の叫ぶ声が聞こえる。それでも私はその手を放したりしなかった。



 ◇◇◇



 人が少ない階段の踊り場に夜乃さんと二人きりだった。息の切れる音だけが響いている。この時間だけはあまりに現実感がない。それでもこれは現実で、私は後悔を正さなければならなかった。一度吐いた言葉は戻らないし、撤回することもないけれど、それは確かに私に与えられたチャンスであると。

 息をなんとか整えて、何を言うのかは決まっているけれど、口を開く。手は情けなく震えている。

「夜乃さん」

「おはよう。」

 拍子抜けするほど普通に挨拶をされてしまった。夜乃さんからしたら、私が告白したのも、いま手を握っているのも、あまり意味をなしていなかったのかも知れない。がくりとうなだれそうになる首をあげて、もう一度夜乃さんの名前を呼ぶ。

「あの、海で言ったこと覚えてる?」

「覚えてるよ」

「……あのとき、言い逃げしてごめんなさい。でも、夜乃さんが好きなのはあのときもいまも変わらないから!」

「うん」

「あなたを見て、一瞬で恋に落ちたの。夜乃さん、私、あなたが好きなの。………だから、その、答えを聞かせて欲しい」

 ぎゅっと夜乃さんの手を握る。だんだんと下がっていく自分の頭のせいで、夜乃さんの顔を見ることができない。ぎゅっと目をつむる。

 その瞬間、グッと頬を持ち上げられて。びっくりして目を見開けば、そこにはきらきらと輝く瞳をした夜乃さんの顔がそこにはあった。思ったよりも近くに顔が来ていて、バクバクと心臓が高鳴る。眼鏡のレンズ越しにはっきりとそこに夜乃さんがいる。あの夜よりも鮮明に、はっきりと夜乃さんを見ることができた。いやに真面目な顔をして、こちらを真摯に見つめているのだ。

 目をそらしたくても、そらせない。

 夜乃さんは目線を外さずに、まっすぐに私だけを見て、口を開く―――。


「私も、柚木のこと―――好きよ」


 にっこりと笑う彼女はとても可憐だった。

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月明かりの下で 武田修一 @syu00123

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