第3話 雨の日のサンチ マンタリスム
その日は、朝から雨が降っていました。
梅雨に入ったのだから、当たり前だと、ガラス窓の向こうに降る雨の様子をぼんやりと見ていたのです。
この日の雨は、まさに「煙雨」と言うにふさわさしい降りようでした。
まさに、雨はけぶるように天から地上に降りてきているのです。
ともすると、雨は降っているのではない、どこかに降った雨が風で流されて、たどり着いたのだと思える、そんな雨であったのです。
そういえば、柳田國男が書いていました。
「京都の時雨の雨は、なるほど宵暁ばかりに、物の三分か四分ほどの間、何度となく繰り返してさっと通り過ぎる。
東国の平野ならば霰か雹かと思ふやうな、大きな音を立てゝ降る」って。
そうなると、今日のように静かに降る雨は、野暮な東国に降る雨ではなく、京の都に降るような雨に違いないって、そんなことを思って、雨の日の憂うつさを慰めていたのです。
黒澤明の映画に降る雨は、どれもこれも、雨はどしゃ降りだとそんなことを思いました。
『七人の侍』のあの野武士との戦闘場面など、どしゃ降りの雨の中でなされました。
あれが、晴れの日の、星空の下での戦闘であれば、随分と印象は異なっていたと思うのです。
雨の降る中、膝まで泥水に浸かり、必死の形相で戦う、あのシーン。
それは何も役者ばかりではなかったはずです。
雨を作る裏方、それを撮影をするカメラマン、皆が、あのホースで吐き出された雨にびしょ濡れになり、あの場面を撮ったはずなのです。
それが思いやられて感動をするのです。
ジャカルタに出かけた折に、スコールなるものに出会いました。
私は、市内の中心部に向けて、車で移動中でした。
三車線の道路ではあるのですが、そこに車が割り込んできて、さらに、バイクも加わり、五車線にも六車線にもなってしまうほどの渋滞の中に、私はいました。
おいおい、こんなんで大丈夫なのかと交通のありようを心配しながら、そうこうするうちに、それまで、かんかん照りであった空が、一転、曇り出します。
程なく、天がひっくり返ったかのように、雨が落ちてきたのです。
どしゃ降りの雨です。
しかし、バイクに乗った人も、歩道を歩く人もさほどに驚きはしていません。
程なく、あっという間に、雨は上がり、また、あのかんかん照りの太陽が出てきたのです。
きっと、あっという間に、濡れた衣服は乾き、洗濯したてのようになるはずです。
芥川龍之介が書いています。
「雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。
夕闇は次第に空を低くして、
見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、
重たくうす暗い雲を支えている。」
南の国のスコールと異なって、日本の雨は、そこに暮らす人に何らかの感傷を与えるのです。
日本の雨は、長く降る分、雨量もじわじわと増えて、川を氾濫させます。
今年も、日本のどこかで、川を氾濫させ、山を崩す雨が、きっと降るはずです。
日本の雨は、今日のように、しとしとと降り続けて、その湿気が、家の中にも押し寄せて、ジメジメとあたりをさせて、さらには、食べ物にカビをすえるのです。どこか死さえせもそこに含んで好きになれません。
前者を梅雨出水といい、後者を卯の花腐(クタ)しなどと、俳句の世界では詠んだりします。
「家一つ沈むばかりや梅雨の沼」とは、田村木国の句です。
「卯の花腐し君出棺の刻と思ふ」とは、 石田波郷の句です。
どれも陰鬱です。
そういえば、芥川の『羅生門』にも、
「下人は、
何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして―
云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、
とりとめもない考えをたどりながら、
さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである」
とありました。
雨は、日本人の感性に何らかの影響を与えるものだと、私は、芥川の文章を読んで確信するのです。
芥川は言います。
ー今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した、と。
はて、この日の煙雨、窓から眺める私のサンチ マンタリスムはいかなるものなのか、一向に見当もつかずに、私は、じっと、けぶる雨を「ながめ」るばかりなのです。
雨の日のサンチマンタリスム 中川 弘 @nkgwhiro
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