第4話 この際、お行儀はいいか

 先に和室に着いたわたしは、とりあえず荷物をお母さんの出してくれた座卓に置く。

 盆暮れ正月は親戚の人が集まりやすく、そういう時は居間に入りきれない人は和室に来る。例えば、わたしや蓮ちゃんみたいに年の近いいとこ同士で集まったり。

 もうすぐお盆休みになればこの部屋にまた座卓が復活するわけだけど、それまでは座卓は押し入れにしまいっぱなしなわけだ。わざわざそれを出してもらうなんて何を考えてるんだろう? 実はこの部屋が相当好きとか?

 蓮ちゃんかと思ったら、そっと入ってきたのはおばあちゃんだった。

「おばあちゃん、どうしたの?」

「千夏ちゃんにお菓子をやろうと思ってね。蓮ちゃんも来るのかい?」

「勉強を教えてもらうんだよ」

「そうかい、そうかい。仲がいいんだねぇ。……でもね、千夏ちゃん、蓮ちゃんはダメだよ」

 え?  と思った。

 おばあちゃんは何を知っているんだろう。

 わたしの想いは、もしそういうものがあるんだとしても、誰にも話したことのないものだった。なんだかおばあちゃんが恐ろしかった。何かを知っているんだと思った。

「感心、逃げないでよく来たな」

 蓮ちゃんが障子を開ける頃、おばあちゃんはもういなかった。バラのお菓子だけが手の中に残っていた。

「外は暑いだけだもーん、逃げないよ」

「教科書、読んできた?」

「え? 朝早かったのに読む時間なかったよ」

 仕方ねぇなぁ、と言いながら、わざわざ回り込んで座卓の対面に腰を下ろす。教科書を開くように言われて、苦手な二次関数のグラフが出ているページをめくる。

「どこ、苦手なの」

「え? この形自体がもう曲がってて許せないけど、特にこの直線と合体したやつが」

「交点の座標か」

「あ、あとこの直線の式」

 なんにもわかってないじゃないかよ、と言いながら顔を合わせようとしない。思えばご飯の席も隣同士なわたしたちは朝から顔を合わせていない気がした。蓮ちゃんは器用に逆向きで教科書を読んでいた。

「……別に、無理して教えてくれなくても大丈夫だよ? 回答集もあるし、友だちに教えてもらえばいいし」

「無理なんかしてないよ」

「そっか……」

で、何番、と聞かれて答える。

「わからないページに付箋貼れよ」

と言われてピンクの付箋を貼っていくと、問題集はピンクの付箋に囲まれてしまった。

「マジかよ。俺、帰れないじゃん」

「え?」

 目が合った。彼の言葉は明らかに困っていたのに、わたしは期待に満ちた声で聞いてしまったからだ。失敗した。うれしそうな声を出すなんてどうかしている。

 ……蓮ちゃんだってこの歳になってもうちに「預かってもらう」理由なんてないわけだし、早く帰って彼女に会いたいだろう……。

「とにかくやる」

 目が合ったのはほんの一瞬で、プツンと途切れた糸のように視線は途切れてしまった。わたしのどうにもならない持て余した思いも……思いも?

 うわー、持て余しても困る。相手は彼女もいるし、なんてったって相手は蓮ちゃんだし。うわー、うわー、うわー。

「千夏」

「はい」

「聞いてる? ここ、やってみて。説明したよ」

 いや、できるわけないって。聞いてなかったし。そもそも蓮ちゃんに教えてもらうのは緊張して無理なのでは……。

「ごめんなさい、上手く頭に入らなくて」

「説明が悪かった?」

「ううん、わたしが悪い」

 とりあえずシャーペンを持ってグラフをノートに描く。関数の基本は、グラフを描くところから始まると聞いた。x軸とy軸、原点をまずは描いて、y=……。

 座卓も教科書も越えて蓮ちゃんの手が頬に伸びてくる。泣いているわけじゃないのに、泣いている時みたいに頬を撫でられる。ピタリと、固まってしまったかのように体が動けなくなる。

「小さい時は泣き虫だったから、よくこうしたよな」

「うん?」

「今は……千夏だって子供じゃないんだから、こんなことしたらいけないんだってわかってるんだけどさ」

 ぼーっと、たぶん口を開いていたと思う。なんだかいい話を聞いていた気がしたのに、まったくのアホ面だった。映画の撮影なら即カットだろう。

「子供の時と違うな。この座卓、踏み越えられないくらいもっと広いはずだったのに……。手を伸ばせば簡単に千夏に手が届く。これじゃわざわざ遠いところに陣取った意味がないよ」

「何してるの?」

「抱きしめちゃおうと思ってるの」

「彼女は?」

「……いないよ、悪かったな」

「だって昨日、ただの従姉妹だって電話で」

 ぷっ、と彼は吹き出した。それは耳の間近で聞こえた。ものすごく近くに、彼の声が聞こえたということだ。

「聞いてたの? それさぁ、友だち。見栄張りきれなかった」

「でもさぁ、いとこ同士だし」

「だから三親等外だからいいんだよ」

「言ってたの、おばあちゃん。いとこ同士は血が濃くなるからダメだって」

 ああ、そうだ。思い出した。

 わたしと蓮ちゃんは幼稚園生だったけれどしっかり小さな婚約者同士になって、周りのみんなはそれを微笑ましく包んでくれた。何しろ4、5歳の話だし、みんな本気にはしてなかったんだろう。

 そんな時、まだボケていなかったおばあちゃんが言ったんだ。

「いとこ同士はダメだよ。血が濃すぎるからね」

と。わたしにはなんだかその話がものすごく怖かった。恐ろしい話だと思った。おばあちゃんの眉を潜めた険しい顔が怖かった。

 蓮ちゃんとわたしが仲良くしすぎたら、きっと悪いことが起こるんだ――。

 そうだ、だから蓮ちゃんのことをあんまり考えるのはいけないんだと。

「おばあちゃん、今はやさしいけど、ボケる前は怒ると怖かったからなぁ。おばちゃんもずいぶん苦労してるんじゃないかって、うちの母さんも言ってたよ」

「そっか、嫁姑だもんね……」

 遠くで、弟と妹が大きな声を上げて追いかけっこをしている。お母さんは時々、いい加減にしなさい、と言いながら掃除機をかけている。わたしたちの時間ときは止まっていた。

「ねぇ、この姿勢、辛いんだけど」

「え? 何したらいい? 手が痺れちゃったとか?」

「何って……。何か言ってくれるとか、何かさせてくれるとか」

「何かじゃわかんないよ。バカだもん」

 もうこの際お行儀はいいか、とぼやく声が聞こえて、座卓の上に膝をついた蓮ちゃんがわたしの頬にキスをした。

「それだけ鈍感だったら他に男もできないだろう」

「失礼だな。蓮ちゃんには彼女ができるかもしれないってこと?」

「バーカ。今も昔もお前だけで十分。じゃなきゃこんな田舎まで年に二回も来るかよ。これからはもっとずっと会いに来るよ。……今度はうちにもおいで。電車で30分だよ。ここみたいに広い家じゃないけどさ、生クリームの乗ったコーヒーくらいは奢れるよ」

「100円で釣られる女にはならないことにしたの」

「俺にならいいんだよ。もう釣ったんだよ」

 よく考えたら、わたしも蓮ちゃんも、どちらも「好きだ」なんて言わなかった。でもそれで通じちゃうのは長い付き合いだからなのかもしれない。

 青紫の朝顔の花が、眩しそうに午前中の太陽を見つめていた。



(了)

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夏思いが咲く 月波結 @musubi-me

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