第3話 例え彼女がいても
蓮ちゃんのお母さんの洋子さんはシングルマザーだ。
蓮ちゃんが3つになった時に、蓮ちゃんのお父さんと離婚した。わたしは小さかったのでその時の事情はわからないし、その後も誰もその話題に触れようとしなかった。
シングルマザーになった洋子さんは当然、蓮ちゃんを預けて働かなければならなくなった。
うちの近くに越してきて、洋子さんの姉にあたるわたしのお母さんを頼る案もあったんだけど、お母さんもお嫁さんだったのでそれは没になった。
代わりに、できることだけでも、ということで年に二回、夏と冬に蓮ちゃんはうちの子になった。そうだ、うちの子だ。
わたしと蓮ちゃんは歳の近い兄妹のようなものだ。
一年中、うちにいるわけじゃないのに存在感は大きくてすぐそこにいる気がしたし、LINEを知っていたって必要最小限しかやり取りしたことは無い。何故なら家族だから。毎日、やり取りしてる兄妹は気持ち悪い。
あの日から、蓮ちゃんはうちの子になった。そう、うちの子……。
「ああ、うん、かわいい女の子? いるよ」
蓮ちゃんの部屋の前を通ると、声がした。電話をしているようだった。……かわいい女の子って?
「うん、今日も一緒に出かけたよ。暑くてまいったって」
そんな時間に出かけたがるお前が悪い。聞くとはなしに扉の前で足が止まってしまう。
「うん、お茶くらいしたよ。奢ったよ、年下だしさぁ。生クリーム乗せてやったら喜んで。……なんだよ、軽い冗談だよ、ほんとに。ただの従姉妹なんだから。1つ違いなんだよ」
バン、と一歩を踏み鳴らしてやろうかと思ったのは頭だけで、足は音が立たないようにそろりそろりと歩いた。バン、とやれなかった頭は不完全燃焼だったらしく、ぐるぐると同じところを回っていた。
ああ、そう、従姉妹だもん。
間違いなく、呆れるほどに従姉妹だもん。否定のしようもないもん。
……そんな理由で切り捨てなくたっていいじゃない。その電話の向こうの誰かと、同じ土俵に立つことさえ叶わない。
部屋が隣どうしなので、話の内容まではわからなくても何かを楽しそうに話している様子は伝わってきた。どうせ、わたしが「お嫁さんになりたい」って泣いた話でもしてるんだろう。いい感じにオーソドックスな話題だ。
電話は切れたようで、蓮ちゃんの部屋の扉が開く音の後に軽いノックが聞こえた。
「千夏」
10時を過ぎていた。お父さんはそんな時間に起きていることを好まない。それを知ってる蓮ちゃんは、小さい声でわたしに呼びかけた。ベッドの上で抱えていた抱き枕のイルカを置いて、ドアを開けた。
「どうしたの、こんな時間に」
「悪い、シャー芯、買い忘れちゃって」
なんだ、と思ってペンケースの中を探る。わたしもちょうど数学の宿題をやってほったらかしていたところだったので、すぐに取り出した。
「また買いに行かないと」
「今度は一人で行けるから大丈夫だよ。自転車借りていけばすぐだろう? 千夏、日焼け痛くない?」
うなじが見えるところまで髪をかき上げられてドキドキする。そんなつもりじゃなかったのに、色んな意味で意識してしまう。
「今度は帽子被っていくよ」
「そうしろよ。何か冷やすものもらってくる?」
「いいよ、大丈夫」
やっぱりすごい焼けたよな、と素手で触って体温を計っている。そっちの方がのぼせそうだから勘弁してほしいと思う。その手を、離してほしい。うなじなんて、人に触られたことない。
「お、数学の副教材、うちのと一緒じゃん」
「だから難しいんだぁ」
「教えてほしい?」
二人の間の距離が近すぎて、少し切なくなる。ただの従姉妹だからこその特権。恋人以下の女の子の中ではわたしがいちばん大切にしてもらえる権利があるはず。
「……二次関数」
「お前さ、去年、受験の時も関数できなくて泣いてたじゃん。それから学ぶところはなかったわけ?」
「苦手なものは苦手ってこと?」
蓮ちゃんは少し困った顔をした。持ち上げたままだったわたしの首のところの髪の毛はまだそのままで、うなじに、触れたか触れないかわからないキスをした。わからない。違うかもしれない。彼の吐息を、ふっと感じた気がした。
よく乾かしたわたしの髪は、さらさらと流れるように落ちて行った。
「好きになったもん勝ちだってこと。おやすみ、明日の昼間、教えてやるよ」
自然にわたしの手はうなじに行った。本当にそれが唇だったという確証はなかった。
おやすみ、と言うと、蓮ちゃんはそそくさと部屋に戻って行った。
――ただの従姉妹だと言ったくせに。
本気でそう思っているのなら不意打ちは狡い。彼女に対しても失礼だし。
でも、男の子なら夜、二人きりで部屋にいたりなんかしたらそういうものなんだろうか? 雰囲気に弱いんだろうか? わたしは男じゃないからわからない。そうなのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
どちらにしても。
男の子にあんなことをされるのは初めてだった。
夜は案の定、よく眠れるはずがなくて、蓮ちゃんの寝返りの度に聞こえる音にびくっとしながら起きていた。
うとうとしてきたところにバーンという音がしてラップ音かと思ったけれど、なんてことない、蓮ちゃんが寝返りした時に壁を蹴った音だった。……寝相が悪すぎる。
「おはよう……」
「おはよう、千夏。いつもより早いじゃない」
「うん、よく眠れなくて面倒くさいから起きちゃった」
なぁに、それ、と言ってお味噌汁を作りながらお母さんは笑った。わたしはお母さんに頼まれて玉子焼きを作る。くるくる巻いていく玉子焼きは、作業工程が楽しい。努力が報われる。
「おはよう、おばちゃん。あれ、千夏、料理できんの?」
「一言余計。蓮ちゃんのは端っこでいいよね?」
お母さんがけたけた笑った。まだお盆休みに入らないお父さんはむっつりした顔で、「千夏、玉子焼き」と一言いった。はい、と返事をして持って行ったけれど何となくバツが悪くてそれからは話が弾まなかった。
「おばちゃん、この後、和室の座卓、出していい?」
食事も終盤にさしかかった頃、蓮ちゃんが突然、話を切り出した。
「いいけど、何したの?」
「千夏の宿題見るから」
居間は広すぎるし、和室はちょうどいいかと思って、と蓮ちゃんは言った。
「千夏の部屋は?」
「千夏の部屋は、ほら、女の子の部屋だからさ」
「ああ、そうね、女の子の」
お母さんはまた楽しそうに笑った。わたしの知らないところで、わたしをネタにして勝手に盛り上がればいいのに、とそう思った。
冷房つけとこうか、とお母さんは席を立った。
「別に、わたしはどこでもいいよ」
「良くないんだよ」
「ここでもいいよ」
「ここはチビたちが遊びに来るだろう?」
どうしてかまったくわからなかったけれど、蓮ちゃんの機嫌は悪くなってしまって口をきけなくなる。蓮ちゃんは怒るとしゃべらない。
「ごちそうさま」
「千夏」
もう怒るのはやめたのかな、と思った。いつまでも怒られたまま、二人きりでご飯を食べているのも気が引ける。
「玉子焼き、美味しかった」
それだけ、と小さく付け足された。彼の横顔が少し照れているような気がして、そんなことがうれしくなる。玉子焼きが美味しく焼けるように、夏休みの前半、朝ご飯の支度を手伝わせてもらって良かったなと思う。その努力を自分で褒めたい気になった。
「宿題と教科書持って、和室だぞ」
「わかってる」
自分は本当に単純で、ちょっと褒められただけで、ご飯炊きもお味噌汁ももっと上手にできるようになりたいと、邪なことを考える。数学は苦手でも、蓮ちゃんを喜ばせてあげることは絶対もっとあるはずだ。
……彼女がいても。
わたしたちは家族だから、きっと蓮ちゃんにいい思いをさせてあげられる。蓮ちゃんがお嫁さんをもらう頃にはわたしだって彼氏の一人や二人、できているだろうし、何もそんなに大きく考えることなんてないんだ。
幼い時の約束は「結婚」だったかもしれないけど、実際に結婚する歳になるまでまだ10年程度あるだろう。
その10年の間で気持ちが変わることはきっとあるはず。たぶん、あるはず。
その間の10年も、蓮ちゃんはうちに来るだろうか……?
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