第2話 三親等外

 帰りはうちまでの近道の農道をただ真っ直ぐ歩いていて、地元のはずのわたしの方がぐったりしてきた。夏草が、風にそよともなびかない。そんな風は吹かないからだ。いつもは自転車で走っている道だと思うと、余計に長く感じた。

「千夏、お前、これ飲めよ」

 さっき蓮ちゃんが買ったスポーツドリンクをバッグから出して、差し出してくれる。見事に結露して、それがかえって冷たそうに見えた。

「えー、いいよ。蓮ちゃん、さっき口つけたでしょう」

「お前さ、親戚以上家族未満で育ってるんだから死ぬよりいいだろう?」

 まぁ、確かに否定はしないけど……。間接キス、という言葉があることをこの男はたぶん、知らないんだろう。

 ペットボトルを受け取って、一気に飲み込む。体中が潤って、指先まで水分が満ちる。

「はー、生き返った!」

「……飲みすぎだろう? 残り、三分の一切ってるし。俺が死にかけたらどうすんの?」

「うちまであと少しだよ」

「あっ!」

「何よ!」

 突然の大声にびっくりする。何か買い忘れたんだろうか? それとも、大事な用でも忘れたんだろうか?

「お前さー、うなじ、真っ赤だぞ」

 他人事なのに、あーあ、とため息混じりの声を聞く。

「ああ、普段は下ろしてるからね」

「痛そう。日傘とか持ってないの?」

「そんなのさす人、今日見た? 大体の人は車だしさ、他の人も帽子とかじゃない? 都会みたいにお洒落じゃないの」

「日焼け止め塗ればいいのに。見てる方が痛いわ」

 確かに制服の時は長袖をまくって着てるので、半袖のシャツの袖のラインも真っ赤になってそうだと思った。夏になれば日焼けなんて当たり前のことだし、顔が焼けなければ別にいいかな程度に思っていたので、なんと言うか、心配されてうれしかった。

 これまで幾度となく一緒に夏を過ごしてきた蓮ちゃんが、そんな風に女の子の扱いをしてくれることを気恥ずかしく感じた。


「ただいま」

「おばちゃん、麦茶ちょうだい!死んじゃうよ」

「あんたたち、いちばん暑い時間に出かけるんだもん、そりゃ暑いでしょうよ」

「田舎は涼しいって嘘だー」

 グラスの周りは濡らしたように結露して、中の氷はすぐに溶けて角がなくなった。でも、この冷たい麦茶より、さっきのぬるくなったスポーツドリンクの方が冷たい気がするのは何故なんだろう? それを不思議に思いながらグラスを傾けていると、隣で蓮ちゃんはすでにお代わりしていた。まだ残っていたスポーツドリンクのことなんて、忘れてしまったかのように。

「シャワー浴びちゃう? あんたたち、汗かいたんじゃないの?」

「おばちゃん、俺、浴びる。千夏も浴びるって。千夏が先な」

「勝手に決めないでよ」

「俺が昼寝するまでに出てこいよ」

 昼寝するまでってなんなんだよ、と思いつつ、部屋に着替えを取りに行く。窓を5センチ開けていった室内の温度は全然冷えてなくて、お風呂上がりのことも考えて冷房を入れておく。

 はーっと大きくため息をついてベッドに沈むように座り込む。なんだかすごい疲れた。たかがノートを買いに行っただけなのに。歩いて行ったからかもしれない。どっと大きな荷物を下ろしたように気が抜ける。

 根っこが生えてしまいそうなので、よっこいしょと腰を上げてお風呂場に向かう。

「お前、遅っ。譲ってやったんだから早く入ってこいよ」

「今入るとこでしょう? お風呂場の入口で仁王立ちしないでよ」

「……日焼けしてるんだから、ぬるま湯で浴びろよ」

「余計なお世話」

 こういうところはまるでお兄ちゃんだった。もしもわたしにお兄ちゃんがいたら、というのは今まで考えたことはない。それは蓮ちゃんというお兄ちゃんのようなものがいるからなのかもしれない。

 着替えを抱えて、じっと蓮ちゃんの顔を見る。15年以上も見慣れた顔……。どことなく、わたしと似ている。

「なんだよ」

「別に。そこにいると脱ぎ始めちゃうよ」

「バカだな、俺はその方がうれしいに……」

 バタン、と扉を閉めて内鍵をかける。なんだよ、冗談だよ、とぼやく声が聞こえる。どこまでが本気なのかわからない男だ。妹同様の従姉妹の裸を見ようなんてどうかしている。

 シャワーを浴びていると静かな浴室のせいでいろんなことを反芻してしまう。男の子と、初めて二人きりで一緒にお茶をしたりとか。そういう場合、生クリームは必須だろうとか、遠慮して「いらないよ」と言うべきだったのか。

 あれを男の子と呼ぶんだとしたらだけど……。

 トントン、とドアを叩く音がする。はーい、と返事をする。

「お前、長いけど倒れてないよな? 熱中症じゃないよな?」

「女の風呂は長いのが普通」

 お風呂場の前でずっと張りついてたんだとしたら、さっきの話はちっともロマンチックじゃなくなる。一気にメーターが、「お兄ちゃん」の方に傾いていく。

 髪についたシャンプーの泡を、一息にシャワーの勢いで流す。細かい泡の流れが気持ちいい。ふぅ、とため息が出る。汗が流される。

「お待たせー」

「おっせー。待ちすぎて、何だか入んなくてもいいかなーって気になっちゃったよ」

 冷房の効いた和室の畳の上で大の字になりながら、団扇をあおいでいる。いつかの誰かさんのようだ。確かにだらしない。……張りついていたわけではなかったようだ。メーターがまた、フラットな状態に戻る。

「あとでゆっくり湯船に入れば?」

「臭くてもいいならな」

「早く入ってこい」

と足蹴にする。まったくもう、冗談も甚だしい。男子臭に満ちてるなんて、耐えられそうにない。

 仕方ないなぁ、とのんびり蓮ちゃんは立ち上がると、何を思ったのか無防備なわたしをぎゅっとした。

「ぎゃっ」

「これでお前も汗まみれだ」

「あんたはこれからシャワー浴びるからいいけどわたしはもう入った後なの!」

 なにやってんのー、とキッチンからのんきな声がする。なんでもないよ、と笑いながら蓮ちゃんは愉快そうに笑って浴室に消えていった。


「あんたたち、年頃なのに仲良いわよね」

「そんなことないよ、こんなのと」

「千夏とは結婚の約束してるんで」

 鯵の小骨を避けながら、蓮ちゃんが当たり前のように発言した。

「ああ、そうよねぇ。蓮ちゃん、よく覚えてるわねぇ」

「そりゃ、覚えてますよ。お嫁さんだもん」

「ちょっと、何、なんの話?」

「千夏、俺のお嫁さんになるって泣いたじゃん」

「泣かない」

「いや、泣いた」

 蓮ちゃんの目が笑ってなくて、わたしも笑えない。お母さんだけが食卓の向こうで笑いをこらえていて、お父さんが一言「飯」と言って、お母さんにおかわりを求めた。

「小さい時にそういうことがあったんだよ。覚えてなかったんだ? ずっと覚えてるのかと思って優しくしてやってたのに」

 お嫁さーん、と次女の千紘ちひろが声を上げる。

「お、覚えてない。大体、いとこ同士ってどうなのよ、一親等、二親等、……」

「大丈夫、三親等内に入らないから」

 おばちゃん、俺もおかわり、と蓮ちゃんは茶碗をお母さんに渡した。

「本当にそうなるといいのにねぇって洋子とも話してたんだけど、そんなに上手くは行かないわよねぇ。そもそも、お父さんは千夏をお嫁に出す気はないし」

 そんなこと言ってないだろう、とお父さんがボソボソッとしゃべった。わたしの知らないところで大きな話が進んでいた。

 蓮ちゃんと結婚するなんて、考えたこともなかった。第一、誰かに昔、いとこ同士はダメだって言われたような気がした。確かに社会科で習った法律では蓮ちゃんは三親等に属さないから結婚できるわけだけども……。

「千夏、お箸止まってる。とりあえず物思いに耽るのは後にして、ご飯食べちゃいなさい」

 はぁい、とお茶碗に向き直る。隣に座るこの、血の繋がった従兄弟が、子供の口約束とは言え、わたしの婚約者だったなんて考えられない……。

 冷奴がお箸で掬えなくて、三度お皿に崩れる。それを隣でうれしそうに笑っている。

 ……さっき、わたしを抱きしめたくせに。そう思うとそんな約束もあった気がしたし、ただの悪ふざけでしかないような気にもなった。

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