夏思いが咲く
月波結
第1話 いつから変わっちゃったんだろう?
夏休みと言えば、朝顔、ラジオ体操、いつまでも終わらない宿題、何をやったらいいかわからない自由研究。
簾の下がった居間に吊るされた風鈴を見ながら、その音色に揺られていた。
「
蓮ちゃんの声がすると、まだ幼い小学生の弟と妹がパタパタと玄関に走って行った。蓮ちゃんは従兄弟だ。高校1年のわたしから見れば所詮、同じ高校生。たった1つ年上の従兄弟はそれほど珍しくなかった。
「あらぁ、蓮ちゃん、また背が伸びたんじゃないの?」
「いや、そんなに会う度伸びてたら2メートル超えてますよ」
談笑している。
こんな田舎に夏と冬、毎年来るなんて気が知れない。都会の方が面白いこと、いっぱいあるだろうに。
ここにはまずスタバがない。スタバに行くのは、ちょっと遊んでる感じの、ある意味勇気のある子だ。「今日さ、スタバ行かない?」なんて普通のことみたいに喋ってるけど、電車で4駅もある。
サイゼリヤだって学校から徒歩30分かかるし、駅前にはマックもなくて次の電車までの暇つぶしもできない。
ここは、そんなところだ。
わたしの制服だって紺ブレに紺のプリーツスカート、赤のネクタイ。蓮ちゃんのところは服装自由だと聞いた。
つまり、すでに世界が違うってことだ。
いつからか、すべてが違ってしまった。
それはいつだろう? いくつの時からだろう? 何かきっかけがあったんだろうか?
畳に寝転んで扇風機に煽られる。
「いた」
「うわっ! 驚かさないでよ。何かと思うじゃん」
蓮ちゃんはわたしの間近に腰を下ろすと、こっちを見てにやにや笑った。
「いくら小さい時から知ってるからって、これはまずくない? 俺が来るって知ってたでしょう?」
「来るも何も特別な事じゃないじゃない」
「だからってさ、クーラーの効いた部屋でショートパンツで寝転がってさ、団扇パタパタして」
「ねぇ?」
「ん?」
蓮ちゃんの瞳の中をじっと覗き込む。当然のごとくそこにはわたしが入っていた。言おうとしたことを頭の中で何回も反芻する。
でもその言葉は綺麗にまとまらなくてすぐに散らばってしまう。イメージが散逸する。
「う、団扇の柄って綺麗なの多いよね」
「そうだね」
蓮ちゃんはやさしく微笑んだ。小さい頃、わたしの手を引いていた時と変わらない目をしていた。
本当に言いたかったのは、日差しの下で団扇をゆらゆら動かしている時の微妙な気持ちだった。光が現れたり、遮られたり。風鈴の音まで聴こえてきて、まるで海の底みたいだねって。……そんなバカみたいなこと、言えるはずない。
「着替えてこいよ」
「なんでよ」
「目の毒」
「女子高生の短パン姿なんて見慣れてるでしょう?」
「……それとこれとは別」
わたしの太腿に「触っちゃうぞ~」といやらしい手を伸ばして、やだやだ、と手足をバタバタさせるとするりとその手が捕まってしまう。ほら、と手を引かれて仕方なくよいしょ、と腰を上げる。
「私服高だと短いの履いてる子だっているでしょう?」
「たまにいるけど、基本的にはそういうの禁止だからね」
「そういうのって?」
「過度な露出」
過度!? 太腿を見下ろす……。過度な露出、という言葉に恥ずかしくなる。そんな風に思われていたなんて思ってもみなかった。
過度な露出は、確かに良さそうではない。学校にはプールがない。なので露になった太腿は真っ白だった。
「……男の子って触ってみたいと思うもの?」
「さあ、どうかな? 好きな子なら絶対に触りたいと思うけど。やわらかそうだし」
二階に逃げ出す。
蓮ちゃんは男の子だ。わたしにいちばん近いところにいる男の子だ。
慌てて部屋に入る。何を着ていいのかわからない。パジャマの下、というのはあんまりラフすぎるし……デニムパンツにTシャツというのが無難か? いやいやそこまでしなくても家用のワンピースにスパッツなら許されそうだ。
ぺた、ぺた、と階段をカエルのように裸足で下りる。階下に着くと、おばあちゃんの久しぶりに元気のいい声がする。
「だからねぇ、蓮ちゃんが来ると、おばあちゃんもうれしいんだよ。いい子だねぇ、毎年忘れずに来てちょうだい。これ、お小遣い。いいから取っておきなさい」
おばあちゃんは最近、痴呆気味だ。お小遣いだっていつも500円玉1枚で、別にそれが悪いってわけじゃないけどちょっと切なくなる。小さい頃からお母さんに怒られても後ろに隠してくれたおばあちゃんが小さくなってしまった。
「おばあちゃん、ありがとう。俺、二週間いるからね」
「そうかい、そうかい、ゆっくりしておいき」
居間の隣にあるおばあちゃんの部屋をそうっと通り抜けようとする。ひっ、と手を掴まれる。何事、と驚く。
「ありがとう、そうするよ」
「あら、
「う、うん。後でもらいに来るよ」
後で、はない。忘れてしまうからだ。忘れてしまった脳の情報はどこに流れていくんだろう……。
「千夏、一人でどこ、逃げるつもり?」
いや、ここ、居間とおばあちゃんの部屋の間の壁だし……。こんなとこで壁ドンとか、考えられんっつーか……。想定外、ってところで負けてる。
「どこって居間だよ。蓮ちゃんも行くつもりだったでしょう?」
「俺がおばあちゃんと話してたのにスルーはないでしょう?」
「そ、そう? 邪魔は悪いかなと思って」
「あのさ、後で買い物、付き合ってよ」
「え……買い物?」
蓮ちゃんと一緒に歩くわたしを想像する。こんなに近くに今もいるのに、想像がつかない。
蓮ちゃんの吐息がかかりそうだ。うっかり頭を動かせない。
「わかった。買い物は付き合うから今はこれで許して」
蓮ちゃん、スイカ切ったわよぉ、とキッチンからお母さんの声がする。はぁい、と行儀のいい返事が耳元すぐで聞こえる。蓮ちゃんの綺麗な首筋が見える。……あの首筋はもう誰かのものなのかなぁ? 蓮ちゃんの腕が下がって、わたしは妙に肩が凝った。
「あら、二人でお出かけ。珍しくない?」
「……宿題やるのにノートもレポート用紙も忘れたんだって。帰ってからやればいいのに……」
「こら、千夏。せっかく来てくれてるのにお客さんにその態度はないでしょう? そうだ、よかったら蓮ちゃん、千夏の宿題見てやってね。この子ったら数学の成績悲惨でねぇ」
「お母さん! ……いってきまーす」
せっかく着替えたものをまた着替えて、くたっとした濃緑色のシャツに細かい千鳥のクロップドパンツを履く。地味に見えるかもしれないけど、足元のサンダルは実は新品で、ヒールの部分が脇から見ると螺鈿細工のようになっている。まぁ、普通、気が付かないだろうけども。
文具店は駅前のちょっとした複合施設に入っていて、書店に併設している。小さな町の小さな商業施設だから誰かに会うかもしれないけど、まぁ「従兄弟」だし、そう言ってしまえば問題ないだろう。
「今は何処の書店も規模縮小だな」
「そっちでもそうなの?」
「時代はネット社会だしな」
「……紙の本の方が良くない?」
「千夏はそう思うの?」
「手触りが」
なるほど、と彼は言ってまるで自分の町のお店のようにすいすいと売り場に行ってしまった。わたしは一人、書店に残されて、仕方が無いので今月のランキングの書籍を見ていた。あ、と思った読みたかった本は売り切れていた。
「あの3位の本?」
「ああ、ちょっと気になってただけ」
「映画になってるでしょう?」
「そうだね」
映画館は5つ目の駅にあった。
「千夏、平積みにあるよ」
あ、ほんとだ、と屈むと、
「サンダル、新品だな。踵がお洒落で大人っぽい」
と言われて赤くなってしまい、屈んだ姿勢から立ち上がれなくなる。
「本は後にして、映画、見に行かない? 安西ミカ、好きなんだよな」
と主演女優の名前を出した。なるほど、そういうわけか。うっかり勘違いしてしまうところだった。平積みの本を前に、立ち上がる。
「うちのクラスにも、安西ミカが好きだって叫んでる男子いるよ。授業中にうたた寝してたら、安西ミカが目の前に出てきてすごくリアルだったって大喜びでさー」
「わかる、わかる。目の前に安西ミカいたら緊張するよな。とりあえずサインより握手だな」
「……それ、本気で言ってんの?」
何も言わずに彼は笑った。男の子のような顔をして。それは肯定なのか否定なのかわからなかった。
「冷たいものでも飲んでいこうぜ」
町で唯一のカフェでアイスカフェモカ2つ、1つは生クリーム乗せで頼んでくれる。持ってて、とお金を払う間、蓮ちゃんの買い物を持つ。中にはキャンパスのノート1組5冊と、レポート用紙2冊がずっしり、入っていた。進学校は大変なんだな、と思う。
「悪い、重かった?」
「ううん。ノート、ぎっしりだね」
「数学と英語、範囲広すぎなんだよな。やってらんない。千夏も同じ高校に来ればよかったのに。うち、学区範囲だろう?」
「頭が範囲じゃないの」
「数学か」
「そうだね、数学ができれば同じくらいかもね」
でもわたしは知っている。蓮ちゃんがめちゃくちゃ国語に弱いことを。わたしは国語はいちばん得意なので、このまま行けば、文系の大学に進むだろう。最も、蓮ちゃんくらい満遍なくできて努力家なら国立志望なのかもしれないけど。
「生クリーム、やっぱり好きなの?」
「山盛り食べたいわけじゃないけど、特別感ある」
「へぇ、じゃあ彼氏とデートの時に奢ってもらったらうれしい?」
思わぬ発言に顔をじっと見る。何を言ってるんだ、この男は。いやいや、一般論だろう。変にドキドキして目が合わせられない。
「まぁねぇ。ないよりあった方がずっとうれしいかも」
「お前、安い女だな。+100円で買えるわけか」
「買うって!」
「例えばの話だよ」
「何よそれ……」
冗談だよ、と言ってわたしのポニーテールに結った頭をポンポンと軽く叩いた。
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