扉のむこう

プル・メープル

この扉の向こう側は…

「私、扉って不思議なものだと思うの」

蒼乃そのと彼の先輩の詩乃しのの2人しか居ない『異科学研究部』の部室で、詩乃が突然、そんなことを呟いた。

「急にどうかしました?」

「いや、そこにある扉を眺めてて思ったのよ。扉って不思議なものだと思わない?」

詩乃は部室にある唯一の出入口である扉を指さして、眠そうな顔で言う。

「そうですか?僕はそうは思わないですけど……」

蒼乃はじっと扉を睨んで見るが、いくら目を細めても、目を開いても、扉は扉だ。

何の変哲もない、不思議なんてこれっぽっちもないただの扉だ。

「考えてみてよ。扉ってあるだけで空間を分ける働きがあるんだよ?それって不思議じゃない?」

言われてみれば確かにそうだ。

でも、毎日当たり前に接しているものだからこそ、大きくは頷けないところもある。

不思議だというふうに感じることの方が普通ではないと思ってしまう。

「扉の向こうとこちら側は扉を挟んだだけで、場所も空気も全く同じ。それでも人はそれを外と内って呼ぶのよ」

「でも確かに扉の外、扉の内っていうのは決まっているものなんだよ。それを考えたってどうこうなるものじゃないですよね?」

考えるのがあまり得意でない蒼乃は、こんな小難しい話は早く終わらせたかった。

でもその反面、こういうふうになった詩乃は、自分でも止められないという諦めの気持ちが強かった。

「考えること自体は、どうにかする事の手段じゃないの。考え抜くことがやっと初めの一歩になるのよ」

「なにか深いことを言ってるみたいですけど……」

これはもう付き合うしかないらしい。

完全に諦めた蒼乃は小さくため息をついて、詩乃の目を見る。

相変わらず眠そうな目をしている。

でも、その瞳はぶれることも無く、変わらず扉を捉えている。

「扉は空間を分けると言ったけれど、きっとそれは人間の脳が構築した概念なのよね」

「概念?」

「そう、概念。例えばね……」

詩乃は立ち上がると、扉の近くまで歩いていき、ドアノブを指差す。

「ここにドアノブがあるのは見える?」

「もちろん見えますよ」

「じゃあ、このドアノブをひねるとどうなるかしら」

「それはもちろん、扉が開くんじゃないですか?」

「じゃあ、開いた扉の向こうには何があると思う?」

「何って……確か消化器があったはずですけど」

「そうね、確かめてみましょうか」

詩乃がそう言って扉を開くと、そこには驚いた顔をした莉乃りのが立っていた。

彼女も他2人と同様に『異科学研究部』のメンバーだ。

「びっくりしたよぉ〜。前に立ったらちょうど扉が開いたんだもん!」

「ね?彼女がいることは分からなかったでしょ?」

莉乃を無視して得意気な顔で蒼乃を見る詩乃。

「確かに分からなかったけど……それがどうかしましたか?」

「私が言いたいことを簡単に言うと、扉の向こうの存在は分からないということよ」

無視された莉乃はしゅんと肩すぼめてとぼとぼと部屋の隅に座った。

詩乃は本棚から一冊の本を取り出して蒼乃に渡す。

「シュレディンガーの猫?」

本のタイトルにはそう書かれている。

蒼乃には聞き覚えがない。

「そう、シュレディンガーの猫。オーストラリアの物理学者、エルヴィン・シュレディンガーが発表した量子力学の実験よ」

詩乃が説明した実験の内容は大体こんな感じだった。


『蓋のある密閉状態の箱を用意し、この中に1匹の猫を入れる。箱の中には他に、少量の放射性物質とガイガーカウンター、それに反応する青酸ガスの発生装置がある。放射性物質は1時間の内に原子崩壊する可能性が50%であり、もしも崩壊した場合は青酸ガスが発生して猫は死ぬ。逆に原子崩壊しなければ毒ガスは発生せず、猫が死ぬことはない。1時間後、果たして箱の中の猫は生きているか死んでいるか。』


「この実験でシュレディンガーが言いたいこと、分かる?」

「結果は見るまでわからないってことかな?」

「That's Right」

「発音がやけにいいですね……」

苦笑いをする蒼乃。

そんなことはお構い無しに詩乃は話を続ける。

もう完全に自分の世界に入ってしまっている。

「猫が死んでいるのか、それとも生きているのか。その可能性はどちらも50%で、その事実を誰かが確かめるまでは猫は半分生きているし、半分死んでいるの」

「つまり、事実を確かめるためには他者の確認が必要ってことですね」

「そのとおり。正確には他者の『意識的な』確認が必要なのよ」

無意識的な確認では意味が無いもの、と続ける。

詩乃は満足そうに語ると、また扉の近くに行く。

「この普通の扉は、そんなシュレディンガーの猫の概念を発生させるものであって、同時にその答えを知るための扉にもなるってことよ」

「僕にはよく分かりませんね」

蒼乃はシュレディンガーの猫の本を机に置いてため息をつく。

「じゃあもっとわかりやすい概念の話をしてあげる」

そう言って詩乃は蒼乃の手を掴んで部室を飛び出した。

「いってらっしゃーい」

小さく呟かれた莉乃の声は、誰にも聞こえなかった。


到着したのは校庭。

「これを見て」

「なんです?これは」

なぜか校庭の真ん中にドアが置いてある。

「人は扉を見ると開いてみたくなるもの。それは何故かわかる?」

「わかりません」

「それはね、扉の向こうとこちら側は違うという感覚を普通としているから」

「でもこの扉に意味は無いんじゃないですか?」

校庭に立っているひとつの扉。

それの向こう側もこちら側も、どちらもただの校庭だ。

「意味ならある、見ていて」

詩乃にそう言われて、しばらく扉を眺めていた。

「ほら来たよ」

「ん?誰がですか?」

蒼乃は、ぼーっとしていた所を詩乃に呼ばれてはっと気づく。

見てみると、扉の近くに数名の男子生徒がいた。

「なんだ、このドア」

「変なところに置いてあるんだな」

「開けてみようぜ!」

そう言って1人の男子生徒が扉を開けた。

もちろん、向こう側もただの校庭。

「普通のドアかぁ」

「面白みがねぇなぁ」

「帰ろうぜ」

そう言って男子生徒たちは帰って行った。

「ね?わかった?」

「何がですか?」

「扉っていうのは、そこにあるだけで開きたくなるものなの」

「そうですか?僕はそうは思わないですけど」

「それは蒼乃くんが、私があの扉を設置した事を知っているから。普通は扉を開けば別の場所という感覚があるから、その向こう側を確かめてみたくなるもの」

「そういうものなんですかね」

「ええ、だから扉は不思議なものなの」

「まあ、よく考えてみればそうかもしれないですね。まあ、僕は考えるの嫌いなんで、そんなことは気にしないですけど」

「そう、それじゃあ、私の話を聞いてくれてありがとう」

「いいえ、一応部活なんで」

深めに頭を下げた詩乃をみて苦笑いを浮かべる蒼乃。

「それじゃあ帰ろっか」

「はい……って、あの扉どうするんですか?」

「実験のためにしばらく置いておくわ」

「そうですか……じゃあ帰りましょうか」

ほんのり赤色に染まり始めた太陽に背を向けて、詩乃と蒼乃は帰路に着いた。


その日の夜、詩乃と蒼乃の電話にて。

「先輩、何か忘れてる気がするんですけど……」

「気の所為だと思うけど?」

「そうですかね?」

蒼乃はその気がかりを、気のせいだと思って忘れることにした。


その頃、部室では。

「先輩と蒼乃くん……まだ帰ってこない……ふぇぇん……」

外から警備員に鍵をかけられてしまい、真っ暗な部室の隅で震えている生徒が一人。

「扉はあるのに外に出られない……これも先輩が言ってた量子力学の話なのかな……」

いいえ、物理学のお話です。

そうして彼女は、翌日の朝まで教室に監禁状態だったと言う。


~完~

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