よき終末を、ナイトウォーカー

百舌鳥

それは最後の夜のこと

「俺、世界を滅ぼすのはゾンビだって信じてたんですよ」



 孤独の形に切り分けられた人間達を待っていた、最後の夜だった。

 かつて病院であった建物の一角、サイドテーブルの上で揺れる蝋燭だけが室内を照らしている。背を預けた扉の向こうから聞こえる声に、思わず頬を緩ませた。つい漏れてしまった声は、身を守るものとしてはあまりにも頼りなく薄い扉の向こうにも届いてしまったらしい。なんで笑うんですか、と拗ねたようなジェレミーの声。


「ああ、すまない。かつての世界に溢れていた映画やコミックを思い出してね」


 ゾンビの溢れた世界で二丁拳銃を手に戦う女戦士の映画があった。研究所の同僚達とラウンジでピザをつまみながら観ていた記憶がある。口いっぱいに広がる炭水化物と油分、喉を灼くコーラの炭酸。かつて確かにこの世界にあった、今となっては望むべくもない平穏。現在の状況とは似ても似つかない光景が脳裏によぎる。じわりと視界が滲んだ。涙の理由はきっと、彼の発言の微笑ましさによるものだけではないだろう。過去を懐かしむ余裕など、同僚達全員の遺体を埋葬した時点で枯れていたと思っていた。が、人の心とはそう単純にはできていないらしい。


「似たようなもんじゃないですか。ゾンビもあいつらも、結局はウイルス感染者でしょう」


 若者らしい拗ねたような声色。扉の反対側に座り込むジェレミーは二十歳はたちに届くか届かないかのはずだ。だとすれば、崩壊する以前の世界を知っていた最後の世代といえるのか。


「人狼症候群をウイルスによるものとするかは議論の余地があるけれどね。それに、感染者というならばそれこそ私達全員だ。発症しているか、発症型は何かという違いだけ。といっても、研究の継続が不可能になった今では些事に過ぎないな」


 扉の反対側、板を打ち付けた窓の方を見やる。壁掛けのアナログ時計はとうの昔に動きを止めている。部屋に閉じこもってからそう時間が経っていないことを考えると、日付が変わる少し前といった頃合いだろうか。窓を覆う気休め程度の障壁を取り払ったとしても、送電が止まって久しいこの都市では夜闇に覆われて何も見えはしない。かつてアメリカ有数の都市として栄えていた街並みの、変わり果てた姿が視界に入らないことを幸運と考えるべきか。視線を壁にずらすと、壁面に取り付けられた洗面台と鏡。残る空間には大量の新聞記事が貼り付けてあった。研究所から自分が持ち出した資料だ。人類を襲い、たった五年で世界を半ば滅ぼすに至った災禍の記録。未知の病原体による人体の急激な変質・行動変化――通称、人狼症候群の世界規模感染爆発パンデミック

 物思いに沈みかけたのを悟ってか、再び扉の向こうからジェレミーに声をかけられる。


「先生、何を考えてるんですか?」

「……少し。これまでのことを、ね」


 始まりは、大型の隕石だった。墜落の可能性をNASAによって警告され、米軍や中国軍、ロシア軍による破壊作戦が検討されるも政治的な睨み合いによって決行されることはないまま、大気圏を抜けた小惑星はインド洋に降った。

 東南アジアやオセアニアを襲った津波による死者が概算で30万人。その後の政治的混乱で発生した内戦絡みの難民が推定75万人。落下予測地点の海域で、武力行使を許されずに睨み合ったまま。津波のあおりを受けて沈没した各国籍の哀れな軍艦が十数隻、軍事関係の損失のみで数兆ドル。


 ――たったそれだけの被害で済めば、どんなにかよかっただろう。結局、人類には何もできなかった。


「先生は、人狼症候群を扱っていた研究所にいたんですよね」

「そうだ。ふふ、我ながらあんな混乱をよく生き延びたものだと思うよ」


 自分がこの廃病院で生き延びてきた理由はふたつ。その片方、なけなしの人望こと『先生』の敬称。そこそこ名の通った大学で医学博士号を取得し、国立の研究機関に就職した。隕石の墜落は、着任とほぼ同時だったはずだ。夢描き、潰えたキャリアを思うと再び唇から乾いた笑いが漏れる。『人狼』から逃れてきた人間相手に、かつての理想とは似ても似つかぬ真似をして。そして、今日まで処刑されることなく生き残ってきた。


「なあ、知っているかい? 人狼症候群と隕石の因果関係は立証されていない」


 口にしたのは、半ば戯れから。扉越しに背中に軽い衝撃が響き、ジェレミーの困惑した声がする。


「え、だって、隕石しか有り得ないって」


「冗談だよ。隕石が海中に沈んでしまったから検証はできず、症候群の蔓延やウイルス発生が隕石墜落直後だったという状況証拠しか存在しないというだけさ。もし本当に隕石が原因なら、その欠片だけでも調査できればと研究所の何人が願っていたことか」


 なんだ、と安堵したような声と溜め息が響く。


「研究所ではワクチン開発を?」


 短い質問に肯定で返す。次いで、いくつか付け足すように言葉を紡いだ。


「正確には、発症者全般の病態解析。『人狼』型だけじゃない。『占い師』や『霊媒』に『狩人』。症例は極めて少ないが、新種の変異型も報告を受けていた」


 敢えて、避けていた単語を口に出す。彼らを思い出すことは、自分にとっても、ジェレミーにとっても、傷口に爪を立てて抉るに等しい行為だ。

 人狼。隕石以後に突如として発生した症候群の代名詞にもなった、最も悪名高い発症型。



 研究所での記憶を思い出す。防弾ガラスに隔てられた一室、床に倒れてもだえ苦しむ発症者。次第に呻き声が低い唸りになると同時に、発症者の身体に変化が起こる。頭部の骨格の変形。全身の筋肉、特にハムストリングスの肥大。そして何より目を引くのは、全身に生えた黒褐色の獣毛。十分近く続いた変化が終わり、立ち上がった発症者の姿は、もはや人間と呼べるものではなかった。

 黄色く濁った眼が、ぎろりとガラス越しの自分たちを睨む。次の瞬間、防弾ガラスが大きく軋んだ。目にも留まらぬ速さで跳躍した発症者――人狼がガラスを殴りつけたのだと気づいたときには既に二撃目、三撃目が振り下ろされている。打撃音とは別の硬質な音が響き、透明な壁にヒビが入るとほぼ同時。監護室のダクトから白い霧が噴射され、高濃度の麻酔ガスを吸った人狼がゆるゆると倒れ込んだ。



 発症型第一号『人狼』型。特徴は、急激な肉体の変形と筋力の増加。そして、人間への攻撃性の異常なまでの亢進。変貌した姿を欧州の古い伝承になぞらえたこの症状が、世界の各地で多発したことが崩壊のきっかけとなった。


 崩壊に拍車をかけたのは、『人狼』発症の時間帯は夜間に限定されるという発表だ。昼間は襲撃の心配はない。そう周知する目的で公表されたその情報がもたらしたのは、昼間に笑い合った隣人が、恋人が、家族が、夜に人狼として自分の命を狙うべく襲いかかってくるのではないかという恐怖。文明は崩壊し、社会は分断された。そして、生き残った人々が身を寄せ合ったコロニーでさえ。無慈悲に、突発的に、無差別に。『人狼』は発症する。

 人狼の付近に留まれば殺されるとは分かっていても、コロニーを一歩出れば崩壊した世界では水も食料も怪しい状況だ。人狼どころか、武装した非発症者にまで殺されかねない。恐怖は疑念を呼び、そしてあろうことか――昼の間に、怪しい人物を多数決で選んだ末に処刑するという、魔女狩りめいた風習まで生まれ落ちた。


 混迷をきたす世界へ更に出現したのは、新たなる変異型だった。人間が人間のままに、手に入れることが可能になった力。


 発症型第二号『占い師』型。発症者は筋力や行動パターンこそ変化しないものの、夜間にとある感覚が鋭敏になるという特徴を得た。五感のいずれにも当てはまらないその感覚が察知するのは――指定した人物は、人狼か否か。 


 発症型第三号『霊媒師』型。『占い師』の亜種変化とされており、筋力や行動が変化することなしに夜間の感覚が鋭敏化するという症状は一致している。異なるのは、感知するもの。霊媒師が見抜くのは――その日の昼間に生存者の多数決によって指名され、処刑された死者が人狼か否か。


 発症型第四号『狩人』型。欧州では『騎士』とも称されるこの発症型は、『占い師』や『霊媒師』と異なり感覚の鋭敏化は起こらない。『人狼』の亜種変化とされるこの型の症状は、精神の変調・攻撃性の亢進を伴わない筋力の増加。それこそ、自分が狙われていない状態であれば――獣の姿に変貌した人狼を撃退できるほどの。


 夜間は為す術もなく息を潜めて震えていた人類にとって、新たな変異型は救いとなるはずだった。

 生存者の集団内で人狼による殺人が起これば、真っ先に探されるのがこの三種の変異型を発症した人物だ。役職持ちと称される彼らは、確かに人類の大きな戦力となった。夜の間に占い師は誰か一人が人狼か否かを察知し、霊媒師は日中に処刑された人物が人狼か否かを感知し、狩人は命を賭して誰か一人を守り抜く。朝が訪れれば、三者からの情報を元に疑わしい人物を絞り込む。人狼が早期に発見され、処刑されれば死者は遙かに少なく済む。

 そう。結局のこと、暴走した大衆心理により疑わしい人物が処刑されていくのは変わらなかった。


 それは自分たちが迷い込んだ、この廃病院でも同じだった。最低限の住環境は勿論、浄水槽や食料に医薬品の備蓄。共同生活はなかなかに上手くいっていたはずだ。ある日、仲間の一人が噛み痕のある死体となって発見されるまでは。

 最初は老若男女合わせて二十人以上いたはずだった。人狼の存在が発覚し、疑念を抱かれた者が吊し上げられるようになってから十数日。現在の生存者は自分を含めてわずか三人だ。もしも、まだ人狼が生き残っていれば。今夜、人狼の襲撃があれば。廃病院に集った人間は全滅する。最後まで全員を欺き、喰い殺した人狼を除いて。

 

 自分が生き残っている理由は、運を除けばここで果たしてきた役割だ。知識を役立てて怪我人や病人の処置にあたっていたこと。そして――処刑を決定された人物に、薬品庫に残った毒薬を注射して殺してきたこと。決して己の意思ではない。技術があるものが手を下すべき、との無言の圧力があった。それに、どちらにせよ自分が毒薬を手に取らなければ。集団による原始的な暴力によって、彼らはもっと無残に殺されていただろう。深く深く溜め息を吐く。いくら手を汚しても、いくら人類にとってより良き選択をしたつもりであろうとも、結局はこの有様だ。


 扉一枚を隔てて、長い沈黙が落ちていた。


「ジェレミー」


 背後に呼びかける。返答こそなかったが、彼の身じろぎする感覚があった。


「昔話をしてもいいかい。私が勤めていた研究所の同僚や上司達の話だ」

「……どうぞ。それが終わったら。僕にも、家族の話をさせてください」


 控えめな返答を得る。礼を呟いて、ぽつぽつと語り始めた。エナジードリンクに砂糖を入れて呑んでいたほどの甘党であったジャンのこと。愛妻家であり、よくホームパーティーに招待してくれたエリックのこと。花の咲くような笑顔で、男性陣からの人気が高かったエレナのこと。いけ好かなかった上司のことでさえ、思い出を口にしていると美化されてくるのを感じる。長い時間をかけて、思い出せる限りの人間を語りきった。


「研究所の人は、やはり」

「……私を含めたごく少数を除いて。皆、死んだよ。『人狼』発症者は、ジェイムズとヘレン、エレナだった。……そして、アレックスが裏切った」

「狂人、ですか」

「その呼び名は好きではないな。異なるものを狂気との呼び名に押し込めて分断してしまうのは悪い兆候だ」


 無理もない、と思う。疑心暗鬼に囚われ、互いに処刑しあうこの世界に絶望するのはいたって当然の反応だ。

 想像する。仮に、人狼の濡れ衣を着せられて愛しい者を殺されたとするならば。人を憎み、世界を憎み、能力を騙り、全てを裏切ってでも生存者を全滅させようとするだろう。非発症者でありながら、自らの命すら囮として人狼に利する行動をとる、『狂人』もしくは『裏切り者』と称される人間達は確かに存在しているのだ。

 そうした人間の存在は議論を翻弄し、気づけば人狼とそれ以外の人間の数は逆転している。そうなれば、脆弱な人間は喰い殺されるのみだ。


 現に、研究所にも、この廃病院に集った人間達の中にも、裏切り者は存在していた。

 ヒスパニック系の陽気な男だった。場を和ませる軽いジョークと、廃病院に流れ着くまでの間に妻子を亡くしたことを、同じような明るい口調であっけらかんと語る人物。人なつっこい笑顔で占い師を詐称し、本当の『占い師』型発症者を人狼だと糾弾しながら非発症者を処刑に追いやった。自身の処刑が決定し、致死の劇薬を注射されるその時まで笑みを絶やさなかった彼を。駆り立てたのは何だったのだろう。

 彼の存在によって生存者は大きく数を減らし――今夜が、最後の晩となる。自分も、ジェレミーも痛々しいほどそれを分かっているからこそ、全てを精算するかのように昔話など語り始めているのだ。

 ゆっくりと立ち上がる。壁際の洗面台に自分の姿が映り込んだ。痩せこけ、憔悴した白人男性。その有様を見て安堵してしまった。状態はどうであれ、自分はまだ自分でいられている。


「先生、先生」


 ジェレミーの呼び声に遅れて気づく。


「ああ、すまない。君の番だったね」

「ええ。――僕の故郷は、南部の賑やかな街でした」


 ジェレミーの語り口は訥々としていた。両親に、兄に、かわいい妹のこと。幸せが息づいているのが感じられるような、家族の肖像がそこにあった。

 だからこそより残酷に、思い出は途切れる。


「僕を除いて、皆死にました。人狼に襲われて」


 半ば嗚咽交じりの、震える声だった。互いにかける言葉などない。自分やジェレミーだけではない。生存者の残りの一人である、線の細い女性も。廃病院に集い、処刑され、あるいは人狼に襲われて死んでいった人々も。懸命に皆で生き延びようと足掻いていた占い師も、霊媒師も、狩人も。きっと、あの裏切り者も。皆がそれぞれに痛ましい傷を抱えている。


「これで、最後だ」


 そう。最後。数時間前に、四人による多数決の結果として一人の男を処刑した。ジェレミーに羽交い締めにされながらもがく男に、この手で劇薬を注射した。これで、生存者は私を含めて三人。あの男が人狼であればそれでよし。人狼ではないなら、生き残った人間全員の死をもって全てが終わるだけ。


「ねえ、先生。最後に二つだけ、質問してもいいですか?」


 ジェレミーの静かな声がした。先ほどの告白とは真逆の、凪いだ声色。


「ああ。これが最後の会話になるかもしれないんだ。二つと言わず、好きなだけ聞くといい」

「そうですね。……すみません。多分、聞きたいこともっともっとあるんすけど。俺、頭悪いんで、用意してきた二つ以外に質問がうまく思い浮かばないんです」


 ジェレミーの情けない返事に苦笑する。人間なんてそういうものだよ、と返した。

 ――それに。ジェレミーが極度の緊張状態に置かれていることは姿を見るまでもなく分かっている。息づかいのテンポ。身じろぎの音がする頻度。ドアの隙間から微かに見える、せわしなく腕を組み替える影。とうに夜は更けている。自分と同じく病室の一つに閉じこもっていたはずのジェレミーが部屋の前へ訪ねてきたのは、日没後しばらくしてのことだ。夜は人間ならざるものの領分。生き残っているかもしれない人狼が、いつ牙を剥いてもおかしくない。まだ軍隊が機能していた頃の文明社会ならともかく、崩壊したこの世界で真正面から人狼に立ち向かえる者は皆無だ。『狩人』もしくは『騎士』でさえ、直接狙われてしまえば歯が立たない。


(閉じこもっていようがいまいが、同じことだって気づいたんです。だから、せめて最後の晩くらいは人間の側で過ごしたい)


 自室の前を訪れたときの彼の言葉だ。あのときは妙に据わった声色だったが、やはり緊張していたのか。

 いくつか、深呼吸の音。そしてシェレミーの言葉が響く。


「先生はどんな気持ちで、無実の宣告を下していたんですか。自分がその手で殺した相手について。教えてください、『霊媒』」

「……悲しい、と言えばいいのかな。辛かった、も違うかもしれない。君は怒るだろうけれども。仕方がないという、諦めの気持ちが一番近いように思える」


 しばしの沈黙があった。舌の先に鉄錆の味。鏡を見やれば、食い締めていた唇から一筋の血が垂れる。自分がここで果たしてきた役割。処刑と『霊媒』の役職。昼に毒薬を注射した人物の正体を、翌朝に告げる。『人狼』と判定を下したのは一人だけ。残りの人物は、今更思い出すまでもない。


「俺も。ええ、そうですね。俺も、仕方のないことだって思います。だって、だってみんな悪くないじゃないですか。みんな生きようとしただけで、悪いのは全部全部クソったれの隕石と『人狼症候群』じゃないですか」


 何かをひとつひとつ確かめるように。やがて、ジェレミーの声は嗚咽交じりになっていった。


「こうなってしまった世界の有様ありさまを受け入れるかどうかはまた別の話だけれどね。それと。もうひとつ、質問があったんじゃないかい」

「はい。これで本当に、最後の質問です」


 彼は気づいているのだろうな、と。予感はあった。自分が生き残ってこられたのは幸運に支えられた綱渡りの結果だ。どこかでミスを犯して露見していたと考えた方が自然だろう。


「どうして、人類を裏切ったんですか」


「……さあね。強いて言うならば、そういう運命だったから。あの日隕石が降ったからと、そう答えるしかないな」


 自分は『霊媒』ではない。本物の『霊媒』発症者はそもそも廃病院にいなかった。もしくは、自分が『霊媒』を騙る前に人狼に喰い殺されたか、処刑された。いずれにせよ、今ジェレミーは自分の嘘を見抜いている。彼がそれに気づけていたということは、つまり。


「一応聞いておこうか。どこからだい?」

「先生が、処刑されたリュークが人狼だと告げたときから」

「ああ――彼が人狼だと考えたのだが、違っていたか」

「僕の同類は、マーサとグウェンです。先生が、マーサを人間だって言ってくれたのは――本当に感謝しています」

「マーサに庇われた自分が処刑されずに済んだから、ね」


 ええ、と扉越しにジェレミーは首肯する。先ほどから彼の息が荒い。時間がない。そう苦しげな声が漏れ聞こえた。


「あの、僕ら以外のもう一人。生き残りの女性がいたじゃないですか」

「ああ」

「殺してきました。先生のところへ来る前に」

「……そうかい」


 廃病院の生存者のうち、これで人狼とそれ以外が同数。勝敗など、とっくに決していた。


「すみません。僕、一つだけ言っていないことがあったんです」

「聞くよ。大切なことなんだろう? 早く言ったほうがいい。私が君の話を聞けるうちにね」

「……先生。僕の両親を、兄を、妹を。殺したのは」


 僕なんですよ。


 一人の青年の、魂を握りつぶすような告白だった。


「発症したって自覚はなかった。いつも通りの日常の中で眠りについて、目覚めたら父が血まみれで死んでいた」


「家を捨てて逃げる途中で、兄が殺された。その時点で、うっすら気づいていた。認めてしまうのが怖くて、母と妹と一緒に逃亡を続けた」


「獣に成り果てようとする僕を止めようとした母を殺した。次の晩、逃げ出した妹の匂いを辿ってあの子も殺した!」


「何度も死のうとした! でも、自殺では死ねなかった! せめて流れ着いたここではバレないようにしようって、毎晩病院の外で人を襲っていたのに、新しく発症したグウェンが病院の中で人を噛んだせいで! 気づけば下手に名乗り出たら、他の人狼まで巻き添えになる状況になっていた!」


 血を吐くような叫びに混じって、扉の向こうから軋む音がする。肉が膨れ、骨が組み変わる人狼への変貌。思わず後ずさってすぐに、背が壁にぶつかった。人狼から身を守るために窓に打ち付けた板は、今となっては逆に退路を塞いでいる。


「せんせい」


 獣の唸り声の合間に、人の声が混じる。


「僕だって、誰も、殺したくなんてなかった」


 扉が轟音を立てて吹き飛ぶ。蹴破られ、こちらに飛んできた塊を間一髪で躱した。扉だった金属板が壁に激突し、壁掛け時計を粉砕する。扉があった場所に佇んでいたのは、二本脚で床を踏みしめてこちらを睨む異形の獣――人狼。扉の向こうで、今まで必死に変貌をこらえていたのだろう。

 そう。勝敗など、とっくに決している。


「ジェレミー」


 彼の名を呼びかける。届いたかどうかは怪しい。ぎらぎらと光る人狼の瞳には、理性の光など既にない。

 構わずに続ける。


「誰も殺したくなかったと言ったね」


 殺意を滾らせた人狼が、黒い風となって突っ込んでくる。

 

「私も、だよ」


 大熊ほどもある獣を、真正面から受け止めた。二本の腕で押さえつけられ、驚いたようにもがく人狼を床に叩きつける。轟音と、苦悶のうなり。首筋が露わになる。もう加減などできなかった。分厚い毛皮など意に介さない。変貌した己の上顎から生える二本の牙を、容赦なく喉元に突き立てた。生暖かい血が迸るのを感じる。我を忘れて、深紅の飛沫に溺れる。

 どれくらいそうしていただろうか。気づけば人狼は動かなくなっていた。身を離すと、ゆっくりとその姿が変わっていく。輪郭が変化し、毛皮が消滅する。その先に倒れていたのは、一人の黒人の青年だった。

 廃病院を舞台とした人狼と人間の争い。その結末は――両者の、敗北。

 立ち尽くしたまま、視線を動かして壁の鏡を見やる。壁一面に貼り付けられた新聞と、その上に飛び散った血飛沫。血に塗れた顔色の悪い白人男性など、鏡のどこにも映らない。


 研究所が崩壊する直前になって報告の入った、新種の発症型。通称『吸血鬼』。人狼ではなく、さりとて人間でもなく。人狼と人間の争いが終わった瞬間に発症し、すべてを奪いゆく者。


 あの日、研究所にて。互いにかばい合っていたヘレナが『人狼』だと霊媒が判定を下したことで、同じく人狼だと判明したジェイムズを生き残り皆で処刑した直後だった。これで疑心暗鬼の日々が終わったと、憔悴しながらも喜んでいた仲間達を。『吸血鬼』を発症した自分は皆殺しにした。


 血だまりの広がる床に屈みこむ。見開かれたジェレミーの茶色い瞼を、そっと閉ざしてやった。最初の犠牲者が出てからずっと腹の内を焦がしていた衝動が、ようやく消えた。生き残りは吸血鬼たる自分だけで十分。病魔によって変わり果てた本能がそう囁く。

 ふらふらと廊下に出る。向かうべき方向などない。おぼつかない足取りで当てもなく進む廊下の、割れた窓から空が見えた。まだ夜は深く、されど東の方角がかすかに白んでいるのが見える。


(俺、世界を滅ぼすのはゾンビだって信じてたんですよ)


 ジェレミーの声が脳裏に蘇る。


(ああ、違うよ。ゾンビでも、ましてや人狼でもない)


 研究所でもこの廃病院でも、人狼は互いに協力する姿勢を見せていた。研究者時代も、人狼同士の共食いの報告を聞いたことはない。たとえ保身のためであったとしても、人狼には仲間意識というものがあるのだ。

 人狼も人間も、見境なく惨殺して。死体の山の上にたった独りで立ちつくす自分とは、なんという違いだろうか。


(世界を滅ぼすのは、吸血鬼だ)


 朝が来る。この身体に日光を受けても、おとぎ話の吸血鬼のように灰となることはないのは知っている。まだ、死ねない。

 ふと、長い黒髪を持つアジア系の女性のことを思い出した。この廃病院で発症した本物の『占い師』。一度は『狩人』に庇われつつも、狩人が殺された次の夜に人狼に喰われて死んだ人物。人狼でも人間でもない自分が、彼女に占われていたとしたら。どちらでもないが故に、身体を真っ二つに引き裂かれて死ぬのだろうか。想像するだけで本能が危機感を訴える。同時に、背筋に走ったのは甘美な震え。あるいは、それが――吸血鬼に残された、最後の救いなのかもしれない。ここでは、もう求むべくもない裁き。


 明けつつある夜から逃げるように。醜い姿を照らされまいとするかのように。静まりかえった廃病院の廊下に、どこまでも孤独な足音が響いていた。

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よき終末を、ナイトウォーカー 百舌鳥 @Usurai0000

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