第2章 光の反歌

第11話 再会と死別

 二十二歳になろうとしていたマニは、今や〈やし園〉の医者として村の外にまでその名が知れ渡り、近隣に暮らす人々がマニを訪ね治療を求めるようになっていた。〈父〉はそれを嫌がったが――特に女性が村へ足を踏み入れるのを強く拒んでいたが、そういう時はマニが外へ出て診察をした。


 この外出はとても有意義なものだった。

 というのも、外出先で彼は最先端の医学書に触れることができたのだ。特に隣国ローマにとって医学とは〝すぐに役に立つ有意義な知識〟であり、ギリシア時代に培われたものをさらに洗練させていた。書物はそのほとんどがギリシア語かラテン語だったが、それが読めるのは他ならぬエウラリアのおかげだ。


〈父〉が〈やし園〉に揃えた呪術に近い医学の書では風邪一つも治すことは叶わないだろう。


〝もし犬に噛まれた人がいたなら、即座にその者を着の身着のまま水に沈め、至高の大いなる神に信をおいてその加護を祈り求めなさい〟


――こんなものが医学であるはずがなかった。



 そんな医者としての日々が終わりを迎えるきっかけは、ある日のパーティクの狼狽ろうばいだった。


「マニ! 今すぐマルディヌという村へ向かってくれないか!」


 いつもなにかと大騒ぎしがちなパーティクなので、マニはあまり彼にペースを乱されないよう、落ち着いたまま返事をする。


「……どうしたの?」


「治してほしい人がいるんだ! 病人だ! マルディヌにいるんだが……!」


「どんな症状?」


「血を吐いているらしい」


「赤い血? それとも黒?」


 そう聞きながらマニは杖を持ち、片足を引きづりながらも慣れた手つきで荷造りをはじめる。


「赤い血だったと思う。すごく鮮やかな赤い血だ。ずっとすごい量を吐き続けてる」


「急いだほうがいいかもね」


 吐血は症状が読めない。場合によっては駆けつけてもすでに手遅れということもありえるだろう。


 今にも駆け出したそうなパーティクだったが、足の悪いマニはゆっくり歩くことしかできない。マルディヌまではまる一日かかるだろう。加えて治療となれば数泊はすることになるだろうが、パーティクはすでに〈父〉にその許可を得ているという。


 二人は朝一番に〈やし園〉を出て、その日の夕刻、マルディヌに到着した。村とはいっても、城壁に囲まれた、人も建物も多い立派な街だ。


「ああ! マリアム!!」


 ある一軒の屋敷の前で、ついにパーティクはマニを置いて走り出した。屋敷の前には控えめな庭園が広がっていて、その中央に玄関までの通路が引かれている。なぜだろう――どこか懐かしい風景だ。


 夢の中……あるいは記憶と呼べるより前に走り回ったような感触のある、朧気おぼろげな様々の面影。マニは驚きと共に直感した。


(おれは昔、この場に居たことがある……!)


 彼の足跡を追って建物の扉を開けると、すでにパーティクが――あのパーティクが、の手を懸命に握りしめている。室内は鉄の匂いが強く、足元には血が散乱した跡と、一段高い寝床の下には深い器が置かれ、そこになみなみと赤黒い液体が溜められていた。


「マリアム! もう大丈夫だ! 医者を連れてきたぞ!」


 マニはゆっくりとその女性のもとへと歩み寄り、そして目の前で膝をついた。顔色が悪く、ヒューヒューと辛そうな呼吸音を繰り返している。唇が青い。意識はあるようだが、朦朧もうろうとしているようでもある。汗で髪の毛が濡れている。


「わかるか、マリアム! しかもその医者はマニだ! マニが来てくれたぞ!」


「……マニ!」


 女性の――マリアムの表情が動いた。大きく見開いた二つの目が不安定に揺らいで天井のあちこちに注目し、少し遅れてから、その瞳がマニを発見した。


「あぁ、マニ、マニ……」


 言いかけたところで、女性は激しくむせはじめた。マニが器を持ち上げると、そこへ鮮血を吐きだす。


「大丈夫。落ち着いて」


 マニは女性をなだめながら頭を枕へと誘導し、眼瞼がんけんの結膜の状態を確認する。当然だが、色が白い――身体の中の血が不足しているということだ。脈はやや速く、圧は弱い。横にした時にさりげなく彼女の腹を押してみたが、痛みや筋肉の緊張はないようだ。手のひらや服を開き、全身の様子を確認していく。そして、マニは笑顔を作った。


「よかった。どうやら難しい状態ではなさそうです。このまま安静にして過ごしてください。ただ、これだけの量の血を吐いているので、身体の中の血が足りていません。身体を起こそうとするとくらっとすると思うので、しばらくは横になっていた方がいいでしょう。便に黒い血が混ざると思いますが、驚かないように」


 パーティクやこの家の使用人たちが、マニの後ろでホッと息を吐いている。しかし、あとで彼らには真実を伝えなければならない――もはや、彼女に残された時間はあまり多くないという真実を。



 これは医者であればだれもが向き合わなければならない現実だった。真実を伝えることで絶望と錯乱によって命を早めさせるのか、それとも偽りによってマニや家族が罪を背負うことで少しでもその人に穏やかな時間を過ごしてもらうのか――


 もちろん、本人の影で真実を知った家族は哀しみ、途方に暮れることが多い。憤慨し、マニに掴みかかってくることすらある。そしてそのたびに、マニは自身の力の限界を感じるのだ。イエスがその血によって業病〔※ハンセン病〕を治癒したとされるような奇跡を、自分は起こすことができない――



「マニ。もう一度その顔を私に見せておくれ」


「身体を起こしてはいけません」


 ハッとして、マニは彼女の肩に手を添える。日々の洗礼の中で磨き上げた究極の慈愛の笑顔をつくり、彼女の穏やかな最期のことを想う。ところが彼女は、マニのその腕を振り払って身体を起こし、その両手でマニの顔を包み込んだ。


「あぁマニ、立派になって。とても会いたかったのですよ。きっと私の命はもう長くないでしょう――けれど、その最期の瞬間にマニに会うことができて本当によかった」


 涙を拭うこともせず、両手の中に咲いたマニの顔を愛おしそうに見つめるマリアム。そしてマニは、ついに気付いたのだ。


「……母さん?」


 言葉にしてから、確信に至る。四歳の頃に引き剥がされ、それから二十年近くに渡り、母を知らずに生きてきた。もはや居ないことの方が当たり前で、自身が彼女と再会した時のことなど考えたことすらなかった。


「そうですよ、マニ」


 彼女が身を預けてきたため、マニはほぼ無意識のうちにその身体を抱きしめた。戸惑いの表情を隠せないまま、病気で弱り、やせ細った女性の肩を包みこむ。


 世界の輪郭がじわりと淡くなった。身体の震えが止まらない。鼻の奥がくすぐったくなり、目がとても熱くなる。


 なんて弱々しい身体なのだろう――

 マニはしばらく、母が母であることを改めて確かめるように抱きしめ続けた。



 マリアムがせ、パーティクが器を差し出す。口についた血をマニは自身の白服の袖で拭い、再び彼女をゆっくりと横にした。


「このまま息子と会えずに死ぬのかと覚悟をしていましたが、最期の最期に、立派になった息子と戻ってきた夫に看取られる母は、とても幸せ者です」


「大丈夫です、まだ最期ではありません。なぜなら、あなたはまだ死なないからです」


 マニはそれがさも当然であるかのような口調で言ったが、マリアムは見透かしているようにマニの目を見つめ、首を横に振った。


「私の命は今日ここで、あなたの腕の中で尽きるでしょう。母にはわかるのですよ。自分自身の身体のことも、息子の優しい偽りも」


 穏やかなその言葉を聞いたパーティクが、泣きながら彼女にしがみついた。


「ああそんな! マリアム、本当にすまなかった! 私は君からマニの成長を見守る日々を奪い、私だけがその恩恵に触れていた……! 私は君に対して決してゆるされないことをしてしまったのだ……。君の病気もきっと私のせいだ。〈父〉は女のために祈る必要はないと言っていた。実際、私も昨日まではそうだと思っていた。しかしそれは間違いだったんだ……。神はそんな私に呆れ果て、私への罰を君に向けてしまわれた。それは私が本当にどうしようもない哀れで愚かな人間だったからなんだ」


 おいおいと泣くパーティクは、それ以降の言葉が言葉にならず、それでも自らが犯したなんらかの罪深い所業の告白を続けていた。その背に手を添えるマリアムは、マニと目を合わせ、わずかに微笑ほほえみを浮かべる。


「こんなどうしようもない父親ですが、あとを頼みます」


 力のない言葉。

 彼女の身体は、もう血を吐く力も失いかけていた。


「マニ! 彼女はこんなことを言っているが、本当はまだ大丈夫なんだろう? マリアムはこれからよくなるんだろう?」


 パーティクはマニにもすがり付いてきた。マニは迷ったが、マリアムが正しいことを認めるように、ゆっくり首を振る決断をした。


「そんな……! なんとか……なんとかならないだろうか! ああ神よ、今から私の罪を償わせてほしい! 私の命と引き換えであっても構わない! どうか、どうか……!」


 泣き崩れるその横で、コンコンと小さく胸を弾ませるマリアム。失血によるショック症状があらわれていた。


 マニは外で待機していた人たちにも声を掛け、最期の時が迫っていることを告げた。それは医者としてのいつもの自分の役割ではあったが、この時ばかりはどこか空虚めいた感覚にとりつかれ、身体はふらつきやすく、宙を漂っているかのようだ。



 そして、陽が暮れて油に火がさされた頃――


 またたくオレンジ色の炎の光と人々の中で、マリアムはマニに抱かれながら息を引き取った。息苦しさが伴う決して穏やかではないその瞬間であるはずだったのだが、彼女の寝顔はマニの腕の中で安らかだった。


 マリアムは、この村で多くの人から慕われていたのだろう。村中の人々が代わるがわる、彼女の寝顔をのぞき、祈りに来た。


 夜が深まり人が来なくなったところで、マニとパーティクは使用人たちからマリアムの屋敷の一室を提供され、そこで一晩をあかすこととなった。



「許してくれ、マニ」


 暗闇の沈黙の中、パーティクが言う。


「それは、なにに対して?」


「私がお前に黙っていたすべてのことに対して。そして今日、お前にすがりついてしまったことに対して。マリアムの威厳の前で醜態を晒してしまったことに対して」


「おれが許せば、パーティクも自分のことを許せると?」


 マニは自分で言って、自分の言葉にトゲがあるなと感じた。母マリアムの心境を想うと、とても穏やかではいられなかったのだ。こういった情動の片鱗へんりんを表に見せることは、本来であれば未熟者のあかしとされている。過去にはアフサに向けてしまった感情もそれだった。人の心の激情や誘惑にかられた欲情は悪なる感情とみなされていて、〈父〉によればそれらは理性によって支配しなければならないものなのだ。そしてそれらを一切感じないほどの境地に至ることが、神の目に留まるための条件だと彼は語っていた。


 一方、喜びや幸福感などは歓迎すべき情動とされていた。神は良きものだけを好む。そのため、劣悪な情動は理性で押さえ、優良な情動で心をうるおさなければならない。


 長年の〈やし園〉での暮らしにより、マニはそれらの教えを常識と呼べるものとして当たり前のように受け入れて過ごしていたし、実際に理にかなっていることだとも思っていた。しかしここにきて、マニはそれがどうもおかしな話のように感じられた。



 昼間に太陽が空に昇るからこそ、沈んだ後の夜がある。海があるから陸がある。敵がいるから味方がいる。不自由があるから自由がある。裏があるから表がある。別れの悲しさがあるから、出会いを喜べる。


 改めて、マニは親友二人が去った日の光景と、その時に生じた言い知れぬ感情を思い出した。今では懐かしい未熟さではあるが、その所以ゆえんは、自らのその気持ちと向き合わずに逃げ出してしまった点にあるということが今なら理解できる。


 悪なる感情とされるものは決して未熟さではなく、ましてや恥じるようなものでもなかったのだ。大切なのは、そんな自分をしっかりと見つめることだった。そして今のマニには、どうやらそれができそうだ。



 つまり、物事を二元論として考える以上、善が善として存在するためには必ず悪が必要になってくる。だとすると感情も同じことだろう。


 強い怒りを知らなければ、それをしずめる言葉を持つことはできない。深い悲しみを知らなければ、深くまであわれみの手を差し出すことはできない。


 死を選ばざるを得ないほどの心や身体の痛みを知らなければ、そのための叫びを抱きしめることはできない。


 そして人は修行などしなくとも、だれであれそれらは理性によって隠されている――さながら、神羅万象の中に眠る知識ソフィアのように。


(当たり前のことだった。知らなければ、気付くことができないんだ)


 良い情動も悪い情動も、一つの心の中で対等に存在している。そしてそれらは星々の円転運動のように、常に昇っては下ってを繰り返しているのだ。



「私は――どうだろう」夜虫が鳴く隙間を見計らったようにして、か細くパーティクが呟いた。「日々の洗礼の中で、すでに私はあらゆることを忘れてしまっている。そして今日、妻をも失ってしまったんだ。もうこれ以上、私に何が残されているというのだろう。もうなにもわからないよ。例えマニが許してくれても、許してくれなくても。どちらにしたって、ただただ空虚なだけだろう。そしてこれからも、そういった日々は続いていくんだ」


「そんな悲しいことは言わないでほしいな、」暗闇の中、ハッと我に返ったかのようなパーティクの呼吸をマニは感じ取った。「気付いた? 父さん。まだ父さんには、返るべきわれがあるじゃないか。そしてまだ父さんには、血のつながったおれがいるじゃないか」


「マニ……!」


 まるで奇跡を目の当たりにしたかのように、パーティクは息子の名を呟いた。

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