第12話 二人の父

「なんとなく気付いてたよ。あなたがおれの父親だってことにはさ」


「すごいな。さすがマニだ。うまく隠していたつもりだったんだが」


「いやいや、全然隠せてなかったよ。特におれを見る時のあの熱い視線は異常だったからね……。もしあなたが男と恋愛できるタイプの人だったらおれも気付かなかったかもしれないけど、そうじゃないってことは知っていたから。そんなところかなとは思ってたよ」


「……なんだ、そうだったのか。隠しごととは難しいものだな」


 二人で笑い合う親子の時間。


 パーティクは、マニによって救われたと感じていた。今日はこの長い夜を虚無の魂で過ごすことになるかと思っていたが、彼が少しだけそれを解消してくれていた。


 マラームが亡くなってしまったことには違いない――そして彼女が死ぬまでの間、自身がとんでもない仕打ちをしてしまった過去を消すことはできない。


 しかしそれを抱えたまま生きることを、マニは先の一言で認めてくれたのだ。


「ねぇ、父さん」


「なんだ、マニ」


 父としての堂々たる返事がこうも誇らしいとは知らなかった。今後は父として、息子と共に人生を歩んでいくのだ。果てない洗礼の時を親子二人で分かち合う、過酷ながらも充実した日々の映像が、今、ありありと想像できる。


「〈やし園〉を出ようと思うんだ」


「……なんだって?」


 想像の映像の中でパーティクは振り返り、我が耳を疑った。


「どうやらおれには、世の中に向けて伝えなきゃいけないことがあるらしい。村に戻ったらすぐにでもその意思を〈父〉に伝えるよ」


 パリンとひび割れ、砕けていく映像。


「冗談だろう? たった今、お前は私に〝おれがいる〟と言ってくれたばかりじゃないか。おかげで私はお前と共に歩む人生を思い浮かべ、光を見出していたというのに……!」


「もちろん。おれも父さんがついてきてくれることを望んでる」


 再びパーティクは耳を疑った。マニの言葉の意味がすぐに飲み込めず、少しだけ混乱する。


「ついていくって……どこに」


「目的地はないよ。終わりのない旅なんだ」


「なんのための旅だ」


「おれたちはなんのために生きているんだろう?」


「〈父〉のような問いかけはよせ、マニ」パーティクは毛布を抱き寄せて寝返りを打ち、マニの声に対して背を向けた。「話は明日、〈やし園〉に戻る時に聞く。今日はもう寝るんだ」


「……そうだね。でもおれは、父さんについてきてほしい」


 つまりパーティクの子は、一緒に〈父〉を裏切ろうと持ち掛けているのだ。



 パーティクは答えなかった。

 今日はもう寝てしまうことにしよう。


 きっと、母との再会と死別を同時に経験したことで、さすがのマニも戸惑っているのだろう。明日の朝になれば善良で頭のいい息子は今の話を忘れているはずだ。


 と、そうは思うものの、パーティクはマニのおかげで今夜は眠れそうだったのに、マニのおかげでもう眠れそうになくなっていた。次から次へと疑問が湧いて、頭の中をごちゃごちゃにかき混ぜていく。


 マニは、なにを考えているのだろう――

 もし彼の言葉が時を置いても変わらなかった場合、その不穏な提案はパーティクに難しい選択を迫ることになる。


 すなわち、マニを選ぶか〈父〉を選ぶか――



 ぐるぐる思考を巡らせ考え込んでいるうちに、いよいよ外が明るくなってきた。朝日が昇りはじめている。


 結局、パーティクは一睡もすることができずに朝を迎えた。二人は家の使用人たちから食事の提供を受け、マラームを埋葬したのち、帰路についた。


「……本当に旅立つつもりなのか?」


 途中、恐る恐るパーティクが聞く。


「もちろん」と、マニはじっと正面を見据えたまま歩き続け、頷くこともなくそう答えた。


「〈父〉に黙って出ていくのか?」と、さらにパーティクが聞く。


「なにも決別したいわけじゃないから。ちゃんと話をしてからの方がいいとは思ってる」コツ、コツとリズムよくマニの杖の音が鳴っている。


「なんて話すんだ」


「それはいま考え中」


「〈父〉は、お前の旅立ちを許してくれると思うか?」


「思わないよ」マニは即答した。「清浄された共同体から出ることは〈父〉に対する裏切りだ。それに〈父〉は伝道を許してないし必要ともしていない。というかそもそも〈父〉の教えを広めるための旅でもないし……まぁ穏便には済まないだろうと思ってる」


 あぁ、やはりそうなのだ!


 パーティクはその場にひざまずき「それがわかっていながら、お前は私を誘うのか!」と、マニに向けて両手を広げ抗議した。


「うん、そうだよ」悪びれる風もなく、また同情する風もないマニが振り向く。「でもあれはあくまでおれの希望ってだけだから。どちらにしても、父さんは父さんのための選択をしてほしい」


「そんなのはずるい。迷うに決まってる」


「迷うの?」と言うマニの表情は、むしろパーティクをからかっているようにすら見える。「自分の信仰を裏切るってのは、宗教家としてマズイんじゃない?」


「ああもうこの話はよそう」パーティクは立ち上がって歩き出し、マニの前を行くことで彼に背を向ける。「マリアムの話をしよう。彼女がいかに素晴らしい女性だったのかを語らせてくれ」


「そうだね。それはぜひ語ってほしい」


 そして、パーティクは話しはじめた。



 まるで悠久ゆうきゅうの記憶が青空に解き放たれていくかのように、彼の話は〈やし園〉に到着するまで続いた。



「いまからなのか!? 明日じゃダメなのか!?」


 村に到着するやいなや、マニは〈父〉がいる教会へと向かおうとしていた。陽はすでに沈み、深い夜が訪れている。ほとんどの洗礼者たちは眠りについているが、上部の階級に属する者たちはまだ教会で祈りを捧げている時間だ。


 パーティクは旅の疲れもあり、もう眠りにつきたいと思っていた。しかしマニは旅の汗を河の水で清めると、新たな白い衣装を身に纏って〈父〉がいる教会へと歩みを向ける。


「先に寝てていいよ。もともと〈父〉から呼び出されていたんだ。だから帰ってきた報告もねて、ちょっと行ってくる」


「ちょっと行ってくるって……!」


 マニは軽く言っているが、それによって〈父〉がどれだけいかるかわからない。心配なので本当ならついていきたいところだが、パーティクの疲れはもう限界だった。



 一方、パーティクに手を振って〈父〉のもとへ向かったマニは、まだ考えを整理しきれずにいた。自分が伝道の旅に出たいと言ったら、果たして〈父〉は許してくれるだろうか。いや、許しを得る得ないではなく、自分は出かけたいのだ。それをどう説得すればいいのか――


 ダメ元であれ、エルカサイ教団の洗礼者として〈父〉からの教えを広める旅だと言えば少しは違うだろうか。だが、当然ながらそれは真実ではない。自分が世の中に対して伝えたいことを伝えに行く旅なのだ。


 結局、答えが出ないままマニは教会の中に足を入れた。中央の祭壇では、高位の洗礼者たち数名がおごそかな雰囲気でエルカサイ像に祈りを捧げている。マニはその横の通路を通り過ぎ、〈父〉がいる奥の部屋へのドアをノックした。


「遅い時間に失礼します。マニです」


「おぉ。入れ」


〈父〉の弾む声があり、マニは彼の部屋のドアをあけて中へと入る。


「数日前からお呼びを受けていたのに、今更になってしまい申し訳ありません。パーティクからお聞きだとは思いますが、マルディヌの村へ行き、その土地の者の治癒をしておりました」


「うむ。私としては本意の行動ではないが、まぁそれについてはいいだろう」


〈父〉は木造りの重い椅子に腰かけて、なにやら厚手の本に筆を走らせていたが、マニが部屋に足を踏み入れるとその作業を中断して身体を彼へと向けた。


(さて。どう切り出そうかな)とマニは考えていたが、〈父〉の方が先に話はじめる。


「お前を呼んだのは他でもない。大切な話があるからだ」


 マニにとって、現時点で自分の旅立ちよりも大切な話などない。


 そのため、(次にはじまる話をうまく自分の話にもっていくことができるだろうか)などと、半ば心ここにあらずの状態で〈父〉に向かい微笑ほほえんでいた。


〈父〉はしばらく言葉を探して固い表情をしていたが、マニのその顔を見て、つられて緊張をほぐしたかのようだった。言いにくそうにしていた話を、彼は思い切った風にして打ち明けた。


「この共同体の新たな長にならんか、マニ」


(なるほど。この共同体の新たな長にね)


「私を継ぐ次なる〈父〉としての役目をマニに担ってほしい」


(おれが〈父〉にかわり〈父〉にね)そしてマニはあごに手をあてた。(さて。これをどうやって旅立ちの話に結び付けるかだが……。ん。待てよ。この共同体の新たな長……? おれが次なる〈父〉……?)


「……え、ええええ!? おれがですかァ!?」


 思わず素が飛び出してしまうマニ。


「驚くのも無理はない。お前の身分は長老どころかまだ高位洗礼者にすら至っていない。だが、この共同体でお前ほど頭がいい者がいないのもまた事実だ。お前はこの共同体に来てからというもの、何度か危ない橋は渡りかけはしたが、なんとか洗礼を続け肉体の清浄を保ち続けてきた。肉はもちろんのこと、ギリシアのパンは食べずにユダヤのパンを食べ。外部の野菜は食べずに共同体の野菜を食べ。そして日々の水の洗礼により、お前は極めて輝かしい肉体を保持することに成功している。さらには私が与えた書物をもすべて読み込み、現世のありようについて非常に深く理解している。……こっちに来なさい、マニ」


 そう言うと〈父〉はマニの手を取って、ベッドの布団をはいで天板を持ち上げる。中には王族が持つような金銀に輝くネックレスや腕輪など、さまざまな財宝が蓄えられていた。それらがロウソクの色を受け、光を乱反射させている。


「すごいだろうマニ。これはまだまだほんの一部だ。ローマの王家が持つかのようなこの財宝は、私の先代の先代のさらに先代に及ぶ時を経て、お前たち洗礼者が清き野菜を育て、それを外界で売ることで集まったものだ。世を清浄にする対価が王族に匹敵する財宝を得るに至ったということは、私たちのこの教団の行いはすべて正しいということであり、これらはすべてこの共同体をここまで導いた私のものということになる。私はこれを自由にできるんだ。そして――マニ。お前が私を継ぐということは、これは今からお前のものになる。つまり、なによりも私はお前のことを弟子として愛しているんだ。私はいままで、この財宝を与えたくなるほど愛した弟子はいなかった」


 熱を帯びる〈父〉の言葉。一方のマニは、先ほどまでの自身の言葉の迷いを忘れるほどにまで冷ややかな内心だった。


(財宝ね。……財宝か)


 この集団は、いままでなんのために身を清める洗礼に打ち込んでいたのだろうか。なんのためにギリシアのパンを避けユダヤのパンを口にしていたのだろうか。なんのために、野菜を育てていたのだろうか。それによって得られたものが、たかがこの財宝程度のものであるというのだろうか。だが目の前の老人は、どうやらその煌めきにご満悦の様相だ。


(だとするならおれの財宝は、この思考そのものだろうな。今までたくさんの人に触れ、書物に触れ、思考に触れてきた。そして博愛フィリアを人から、知識ソフィアを自然から、科学スキエンティアによってみつけだそうとしているおれの思考は、〈父〉の財宝と違って決して売り買いできるものなんかじゃないし、命を落としたところで失われるものでもない。ましてやだれかに分け与えたところで減るものでもないし、新たに触れたその人だって、それを永遠の財宝として心に留めておくことができるんだ)


「この財宝の多くは先代から続くものということですが――」マニは、あわれな師に向けて言葉を選びながら続けた。「その人たちは今、どこにいますか? 彼らはすでに死んでしまい、むなしくもこれらの財宝を自分のものとしておけず、天に持っていくこともできなかったのですよね。だとしたらそんなものが、私にとってなんの役に立つのでしょう。むしろ私はその輝きによって目がくらみ、自分の行くべき道から足を踏み外してしまいそうです。私はあなたから次のようなことを教わっています――すなわち、神の財宝は偉大で壮麗そうれいで、それを獲得せし者は永遠に祝福され保証されるということを」


 マニのその言葉を聞き、〈父〉は目を丸くして驚いていた。なにが起こっているのかわかっていないかのようだ。まさかその宝物ほうもつを目の当たりにしてひざまづいて手を結び、感謝の涙を流すとでも思っていたのだろうか。


 失望をも通り越した軽蔑が、マニの心の中で爆発的に広がっていく。


「旅の疲れもありますので、今日はこれで」


 かろうじて丁寧ていねい所作しょさ、丁寧な言葉を守り、マニは〈父〉が呼び止める隙を与えず部屋をあとにした。そのかわりに、家に戻るまでの足取りはやや強引になってしまう。


(おれたちが懸命に育てた野菜が、あんなくだらないものにかわっていただなんて)


 結局、〈父〉は欲求に負けていたのだ。だとすると、今までの厳しい洗礼はなんだったのだろう。だとすると、そもそもの共同体はなんのための集まりなのだろう。


(それに、あの手の触り方! あの触り方は絶対におかしい!)


 思い出すだけで鳥肌が立ち、マニは身をすくませた。そういう意味では、水で身を清めるというこの教団の儀礼は正しいとも思える。マニはすぐに服を脱いで河へ飛び込み全身を洗い直すと、若干ではあるがその気持ち悪さがぬぐえたような気がしないでもなかった。興奮していた気分も、それによって少しだけ落ち着いたようだ。


(ところで、旅立ちについては伝え損ねてしまったな)ぷかぷか水に浮かびながら、マニは思う。(アフサのように行方ゆくえをくらましてしまうのもいいかもしれないけど……そうは言ってもおれが十八年暮らしてきた村でもあるからな、ここは。多少はこの土地が愛しくもある。できれば縁は切りたくない……)


 そう考えながら服を着たところで、ついにドッとここまでの疲れが襲ってきた。ここまでというのはマルディヌへの旅路についてもそうだが、四歳から現在に至るまでのここ〈やし園〉で生活してきたという疲れも含まれているだろう。


(まぁ、チャンスはいつでもあるだろう。もう頭も働かない。明日のことは明日考えるか)


 マニは自分の部屋に戻りベッドに横になると、呼吸を整えてから目をつむった。ペルシアンブルーの空、地中海の深い青、無限に続く黄色い砂漠、インドを埋める影の濃い緑の森――まだ見ぬ果てのない伝道の旅路の風景が思い浮かぶかのようだ。

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