第9話 砂の文字
「将来、僕はこの国で書物や学問を発展させたいと思っている――それこそ、かのギリシアの時代のようにね。でも、今はまだそれができる状況じゃない。この国には、まだ神が存在する領域があまりにも広範囲かつ根幹的すぎるからだ。……なんて言ってる僕もゾロアスターの教徒ではあるけれど、なんていうか、古臭いんだよな。宗教だって時代に合わせてアップグレードさせていかなきゃいけないのに、偉そうな老人たちにはそれがわからないんだよ」
「おっしゃること、とてもよくわかります」
「ははは。普通に話してくれていいよ」
「……でも、なんでおれたちに突然そんなことを?」
「〝
「聞き覚えもなにも」と、アフサがどこぞの金持ちに野菜を渡しながら答える。「マニがよく使ってる言葉だよ。な」
「
「やっぱりそうか。これは自信になるな。どうやら僕は人を見る目があるらしい」ニッと笑うシャープール。「何日か前に、砂の文字をみつけたんだ――ちょうどこの村に来るまでの街道の途中でね。そこには三つの単語――フィリア、ソフィア、そしてその〝すきえんてぃあ〟という文字が書かれていて、僕の中の直感がこう騒いだんだ。すなわち、〝これを書いた賢者を早くみつけだせ!〟ってね。僕は直感に従うことにした。そして色々な情報を集めたよ。そしたらクテシフォンからほど近いこの村で、アレクサンドリア図書館の書物の写本業を営む一家がいるってことを耳にしてね。なにか知っていることはないかと思って訪ねてみようと思ってきたんだけど、つい今しがた君を見てピンときたんだ。あの時、君もあの街道にいたよね」
「……
「そのとおり」
会話が途切れて、ジッと見つめあうマニとシャープール。好奇心旺盛なペルシア人のブルーの瞳が奥深い。
横にいたアフサが客に声をかけられ、忙しそうにせっせと野菜を売りさばきはじめる。
「写本、おもしろい?」おもむろに、シャープールが聞いた。
「そりゃもう」と答えるマニ。
「僕も手伝わせてもらったりできないかな」
(一国の王子が一般市民の労働の手伝いを? 変なの)
そう思いながらも、マニは冷静に答えた。
「それはおれが決めれることじゃないから、あとでカリトンさんに聞いてみるよ」
「君の雇い主の人? ありがとう。ぜひお願いしたい」と言いながらも、シャープールは立ち上がる。「でも今日の所は、一度クテシフォンに戻ることにする。この村にはちょくちょく来てるんだろ?」
「毎日じゃないけどね」
「じゃあ、今度会った時にでもその返事を聞かせてもらえるとありがたい」
「それはいいけど。でも君の父君やお付きの人たちは、写本の手伝いなんてものを許してくれるの?」
「許してはくれない。実を言うと、今のこの時間すらも。なにせお忍びだからね」
ニッと笑う金髪の少年だ。
アフサが仲間を見つけたとばかりに、客にキャベツを渡しながら嬉しそうな顔をつくる。「それじゃあ僕たちと一緒だ! 事情はよく知らないけど、またここで会おう!」
シャープールは頷いて笑みを残し、群がる人々をかき分けて人囲いの外へと出ていった。
(親しみやすい雰囲気。王子とは思えない気さくさだったな)
かといって王族としての貫禄がないわけでもない。マニがやや名残惜しくその背を見つめていると、彼とほぼ入れ替わるような形でエウラがやってきた。若干、すれ違ったシャープールの背を気にしているようだった。
「あのハデな髪の色。どこかで見た気がするけど、もしかして――」
「今はその名を言わない方がいいよ」マニが穏やかに言葉を被せた。「アフサがパニックを起こしちゃうから」
アフサのその様子を思い浮かべたのか、クスリと笑うエウラリア。「それもそうだね。まいっか。……ねぇ。それより聞いて。遠征が決まったの」
「え」とあからさまに声を漏らしたのはアフサだ。
「遠征だよ、えんせい。なにせキミたち二人のおかげで仕事はいつもの二倍以上のペースなんだから! 来月くらいにはまたアレクサンドリアに行かないと、写本する書物がなくなっちゃうんだ」
「お役に立てているようでよかった」
そう言ったマニのとなりでアフサが立ち上がり「はーい! 今日はもう
そしてすべての客を追い払ったところでその手を止め、エウラに向き直った。「じゃあ、来月からしばらく会えないってこと!?」
「ん。そういうことになっちゃうね」エウラはいつもの笑顔で言う。「前は半年くらいの長旅だったかなぁ。今回もそのくらいだとは思うけど……あ、でも今はローマが不安定だから、もっとかかっちゃうかもね」
「半年以上もエウラに会えないってこと!?」
「そ。寂しくなるね」
「寂しいどころじゃないよ、なぁマニ。これは生きる意味の喪失だ」
「あはは、変なの。そんなに写本の手伝いが楽しかった?」
「……そうじゃないよ。君と会うのが楽しみだったんだ」
「はいはい、ありがとー」
からかうような口調のエウラだったが、一方のアフサは静かに拳を握り締めている。
マニは、どうやらいつもの様子とは違いそうなことに気付いた。マニとアフサの付き合いだ。アフサはいつだって真っすぐな奴なのだ。エウラの旅立ちが本当にショックだったのだろう。ついに彼は大きく息を吸い込んで、その感情を爆発させた。
「僕はふざけて言ってるんじゃないからな! エウラ!」
「アフサ」
言葉で制止しようとするマニだったが、あまり効果はないことはわかっていた。案の定、アフサはマニを意に介さず続ける。
「いいかエウラ! 僕は君と会うためなら、大嫌いな本も好きになれた! 写本なんかも正直ダルかったけど、君と一緒だったら楽しめた! 〈やし園〉からここまでの長い道のりも、重い荷車を引いて歩き続けるのも、君のおかげで苦じゃなかったんだ!」
「アフサ」と再びマニが制止を試みる。エウラが怖がっているだろうからだ。
しかしそれ以上に、なにか得体のしれない感情が自分の中で渦巻いていることをマニは感じていた。なぜおれはアフサの言葉を止めたいのだろう。なぜ彼の真っ直ぐな気持ちを遮りたいと思うのだろう。むしろ怖がっているのは自分なのかもしれない。しかし自分が、……なぜ? よくみると、エウラは別に怖がってなんかいない。そうとわかった瞬間、一層マニの中で恐怖が渦巻いた。
エウラのためではない。ましてやアフサのためでもない。他でもない自分のために、マニはアフサを止めたかった。
「僕はね、エウラ! こうやって君と会うのをいつも楽しみにしているんだ!」
「アフサ!」
これ以上こいつにしゃべらせちゃダメだ――確信にも似た恐怖が、マニの語気を強めた。しかしそれすらもアフサは振り払い、より一層の純然たる想いをその言葉にのせる。
「エウラ! 僕は君のことが好きなんだ!」
メソポタミアの熱のある大気が流れ、エウラの黒髪をサラサラと揺らした。気付けばアフサは肩を震わせて、目には涙をためている。
「え。……アフサ。……え、待って、本気で言ってるの?」
どう反応していいのか迷いながらも、まだ笑みを崩さないでいるエウラ。
それと向かい合うアフサは、使い果たした力をさらに振り絞るように「本気に決まってるだろ……」と身体の奥底から声をひねり出す。
「え。え〜〜〜!」
エウラはようやくそれを本気と捉え、やや混乱したようだった。それでも彼女はアフサのそれがどうにか冗談であるだろうという理由を探し、目を泳がせている。そして、さして効果はないように思える真っ当な理由を思いつき、それを冗談の根拠として提案でもするかように人差し指を立てた。
「でも、だってほら、アフサが所属する教団は女性との交際は
「僕は神さまなんて信じてないからいいんだよ」
(まぁ、そうなるよな)
「それに――」とアフサは続ける。「御法度だろうがなんだろうが、そう感じてしまっているんだからしょうがないじゃないか。結局のところ、それを隠すか隠さないかの違いだろ。本当はみんな好きな人がいるくせにさ。だから僕は宗教家が嫌いなんだ」
〝本当はみんな好きな人がいるくせに〟
マニの心臓がドクンと鳴る。まるで自分に向けられているかのような重い一言だった。ズンと大岩が頭上から落とされたかのようだ。心に生じた恐怖の正体が、アフサによって包み隠さず暴き出されてしまったかのようだ。
深く深く深く沈み込みそうになるマニの視界。太陽はまだ高い場所で輝いているのに、どこか光景が暗転し真っ黒に染められていく。
(そうか。そうだったのか。おれ自身もエウラのことが)
無神論者のアフサの言う通りなのかもしれない。マニの心にしてもそうだった。今までそうだとは思いながらも、わざと自分で気付かないふりをしていたのだ。
(おれは、エウラのことが好きだったんだ)
向かい合ったアフサとエウラの光景が、どこか遠いもののように感じられる。自分の気持ちにいつも素直なアフサが羨ましい。もちろんマニだってそれを言いたければ言ってもいいはずなのだが、その言葉がどうしても喉でつっかえて上がってこなかったのは、宗教的な理由があるからだろうか。マニにはわからなかった。
神はいる。
たしかにいる。
ただしマニが見極めた神とは、今まで考えられていたようなものではなく別の形を持つ存在としてだ。それはアルキメデスが生み出した数式に近いような姿と言えるかもしれない。そんな神との出会いを求めるマニをして、恋愛感情を持つことが果たして許されるものなのだろうか――
思考の暗黒世界。
その中で、エウラとアフサのやり取りが続いている。
「僕はエウラのことが好きだ。だから例え半年であっても会えなくなるなんてイヤなんだよ。アレクサンドリアなんかには行かないでほしい」
「うん。そう思ってくれる気持ちはありがたいよ。でも、私は行かなきゃいけないの。ウチはこれでしか稼ぎがないし、あとお母さんがいないから、私がいなかったらお父さんが独りになっちゃうから」
「じゃあ僕がついていく。僕も一緒に連れていってよ」
(……え?)思わずマニは顔をあげた。
「……本気で言ってるの?」
エウラも驚いているが、自分の主張をはじめたアフサはいつだって
「本気に決まってるだろ」と、今回もそれは例外ではなかった。「大人になったら〈やし園〉を抜け出そうと思っていたけど、その予定が少し早まるだけだよ」
「本当に本気なの?」
「本当に本気だよ」
「……マニも一緒?」
エウラの言葉に一瞬だけ(その手があったか!)と思ってしまったし、なにより彼女が自分をそうやって巻き込んでくれたことがうれしかった。
けれど……ついで他の色々な事を考えだしてしまったマニは、すぐに答えることができなかった。代わりにアフサが答えた。
「マニは来ないと思う。たぶんだけど……」と、マニの様子を伺いながら。「マニにはとても大切な役割があるからね。だれであろうと決してマニの代役はつとめられない、人々をより良い世界に導くという大切な役割だ」
(そんなつもりはないんだけどなぁ)
「でも行く先がアレクサンドリアだから――」今度のエウラは希望にすがるかのような口調だ。「そこではたくさんのことを学ぶことができるし、そうやって吸収して得られたものを広めることができる。今の閉鎖環境なんかとは比べ物にならないほどの出会いと発見に満ちている場所だと思うよ。それに、そもそもアフサが言うマニの大切な役割って、なに? 確かにマニは不思議な雰囲気がある男の子だから、周りがなにか期待する気持ちはよくわかる。でも本当に大切なのは、そんな押し付けの期待なんかよりも、自分がどう考えてどう生きるかでしょ?」
「僕自身はエウラのその考えに賛成だよ。だから思い切って告白したんだから」
「……出発は一ヶ月後だろ? 少し考えさせてもらってもいいかな」マニは、そう切り出すのが精いっぱいだった。「アフサにとってもそうだろうけど、おれにとってもこれは重要な選択なんだ」
今この場所でエウラに対する想いを伝えられたら、どんなに楽だろう。どんなに幸せだろう。しかしそれをしようとするだけで、どうしてこれほどまでに辛いのだろう。不思議な感覚だった。伝えたいのに伝えたくないのだ。もちろんアフサの存在が重たいのは確かだ。書物で学んだ恋愛三角関係が悲劇的結末しか生まない袋小路の人間関係であることは知っていた。
恋愛を取るか、友情を取るかだ。
その友情といえば、マニの心の遥か隅っこでは別のショックもあった。
アフサだ。
今までアフサは、なによりもマニを優先して過ごしていた。神は信じていないがマニは信じると自負するくらい、彼はずっとマニにくっついていた。自然とマニも、それが当たり前に思えていた。だからアフサが自分のもとを離れる選択をしたことに、まるで見捨てられたかのような衝撃を感じたのだ。
「今日はもう帰ろうか、アフサ」と、自分が行動の主導権を握る事で彼の反応を確かめてみる。「こんな調子じゃ、写本の手伝いどころか邪魔をしてしまう」
「いや。僕は残るよ」
……驚きはなかった。もちろん、大して大きなショックもない。ただただ、想定されていたアフサの返答だ。ましてやそこに、アフサからマニへの拒絶の意思など、ほんの
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