一雫の光 - マニ教創始者の物語 前編

丸山弌

プロローグ

第1話 野菜売り

「いらっしゃいませー」


 白い衣服に身を包んだマニは、小さな村へと繋がる小さな街道で野菜を売っていた。


「ティグリスの恵みを受けた聖なる野菜ですー。いかがですかー」


 街道には、まばらではあるが道を行き交う人々の姿がある。この辺りに暮らす村人や町人たちだ。農民や商人、奴隷や兵士もいる。しかしみなマニの姿を見ると、誰もがそれを避けるよう遠巻きに歩いて通り過ぎていく。


 いつも通りの、退屈な昼下がりだった。

 ボロ切れ絨毯の上に広げられたオリーブやメロン、かぼちゃ、アーモンドの山は、一向に減る気配がない。時々、何も知らない旅人が足を止めることもあるが、別の通行人に肩を叩かれ、マニに聞こえないようヒソヒソ話をすると、その旅人も足早に立ち去っていってしまう。


 頬杖をつき、溜息を吐くマニ。やっぱりこの辺じゃ難しいよな――


 我ら教団の存在を知る人が、この辺りには多すぎるのだ。


 エルカサイ派洗礼ムグタシラ教団――通称〈白装束〉。ティグリス川に繋がる古い人工運河の隅っこ、ヤシの木の群生地に本拠地を構える、この時代ならよくある少数派カルト教団にマニは属していた。教義の大元はユダヤ教ナザレ派〔※キリスト教〕で、自分たちこそが真のユダヤ教徒であり、真のナザレ派教徒であると自称している。


 それを堂々と公言できる時代でもなくなってきたな――と、マニは通行人を眺めながら思っていた。というのも最近、大きな政権交代があったのだ。


「新鮮な野菜ですよー。栄養満点でーす」


 ちょうど、マニの目の前を歩く男が二人いた。他の通行人とは少し違った、質素なローブを纏っている。その男たちが、ふとマニの存在に気付く。


「フン。ナザレ派のガキか」

「汚らしい異教徒め」


 彼らはそんな言葉を吐き捨てて、足を止めることなく通り過ぎて行った。マニ自身は、さげすまれたようなそんな言葉を受けても特に気にはならない。しかし、最近になって姿を見るようになった彼らの教団は、あまりに古く、あまりに強力で、毎日野菜を売っているとどうしてもその姿が目に入ってくる。おまけに彼らは異教に対して不寛容なので、マニたちの肩身は狭まる一方だ。



 拝火ゾロアスター教――

 アフラマズダーを信仰するペルシア人の古い宗教だ。その勢力は、近年、爆発的に広がりはじめている。


 元々このあたりは、隣接するローマ帝国の侵略にあらがうバベルの国――パルティア王が治めるパルティア帝国だった。小さな国ではあるがパルティア王は本当によく国民を統制し、調和を維持していた。当時のローマ帝国帝王、暴君ぼうくんカラカラに目をつけられバベルの土地が狙われたこともあったが、同じローマ帝国の革命派と共謀して罠にめ、戦争の危機を回避したりもした。なによりパルティア王は、あらゆる宗教について寛容だった。暴政が嫌いで、自由を好み、暴力には知恵と工夫で徹底対抗する――とても愛された王だった。


 そんな平和な統治時代ではあったが、五年ほど前にそれをパーパクとアルデシールの親子が破っていた。当時二人はパルティアの辺境に建てられたゾロアスター教大寺院の守護者だったのだが、布教活動によって政治力を強めていたパーパクがついにその辺境の実権を握り、息子アルデシールに王と名乗らせた。この不穏な事態にパルティア王は自ら兵を率いて討伐に乗り出したが、筋肉隆々の農耕ペルシア人によって構成されたササン軍は少数ながらも圧倒的なパワーをほこり、兵の数で明らかに優勢だったパルティア王を、なんと彼らはその場で討ち取ってしまったのだ。


 アルデシールはそのまま首都クテシフォンへと入り、今から二年前、彼は自らをササン朝ペルシア帝国を統べる〈王の王〉と宣言している。


 生粋きっすいのゾロアスター教信者が王となったのだ。それ以降、同じゾロアスター教信者が大きな顔をするのも当然だろう。


(みんなパルティア王時代の思い出話をよくするよな。いい時代だったんだろうな)


 そんなことを、通り過ぎていく人々を見つめながら思うマニ。とはいえマニたち〈白装束〉が周辺住民に避けられる理由はまた別にあった。


「あ……」


 マニは、通行人の中で一人の女の子と目が合った。十一歳の自分と同じくらいか、少し下くらいの女の子だ。思わず身体が緊張してしまう。


 女の子は、たくさんの野菜を売っている同年代の男の子マニに興味を持ったようだった。一緒に居た男性――夫か父親だろう――の手をほどき、マニの元へと歩み寄ってくる。


「こんにちは」


「あ……。えっと……」


 マニの頭の中は、唐突に真っ白になった。にこにこと可憐な女の子が目の前にいる。手を伸ばせば触れられる、本当にすぐ目の前に――だ。この緊張は仕方がないものだった。というのも、マニが暮らす〈白装束〉の共同体は、女人禁制の村だったのだ。



 その村ではみな一様に白い衣服に身を包み、日々、祈りを捧げたり村の中の清掃をしたり水浴びをしたりしている、男だけの共同体だった。その様子を見た近隣住民は〝あいつらヤバイ〟〝男だけでなんかやってる〟と噂を広め、〈白装束〉は今のような状況におかれているというわけだ。


 生まれてこのかた男だけの世界で育ってきたマニが、ある種の女性恐怖症を患うのも必然だろう。女の子が微笑みかけてきている――けれど、どこを見たらいいのかわからない。なにを話せばいいのかわからない。マニはパニックを起こしていた。


「ねぇ?」


「はい!!!」


「うわ、びっくりした。突然大きな声出して」


「あ、あ……! ごごごごめん……」


「それで?」


「?」


「もう。このメロンはいくら? って聞いたんだけど?」


「あ! えっと……別にいくらでも……」


「なにそれ」


「そ、そういう決まりなんだよ。おれたちは客の言い値でモノを売っているんだ。別に金儲けのためにこういうことをしてるんじゃないんだよ」


「なるほど。修行の一貫ってわけね」


 女の子は自分の頭ほどもあるメロンを手にとって、中身を確かめるようにポンポンとそれを弾ませる。


「じゃあ、このままタダでもらっていってもいいわけだ」


 意地悪な笑みを見せる女の子。

 マニは呼吸を整えて、ゆっくりと自分の言葉を引き出した。


「もちろん、それでも大丈夫。この野菜を本当に必要にしている人ほどタダ同然で持っていくし、不要な人ほど高値で買っていってくれる」


「ふうん。普通逆だと思うけど」


「エウラリア。そろそろ行くぞ」彼女の後ろで、男が呼んだ。


(エウラリア……)


「はぁーい」と返事をする女の子。「じゃ、私いくね。あと、このメロンはもらっていくことにする」


「どうぞご自由に」


 立ち上がったエウラリアを見て、マニはホッとしていた。けれど新鮮な時間でもあったので、少しだけ残念な気持ちもあった。


 これが女の子……。帰ったらこのことをアフサに自慢してやろう。きっと飛び上がって驚くはずだ。


 同年代の友人の姿を想像して笑みを零すマニだったが、まだエウラリアが立ち去っていないことに気付き、すぐに表情を引き締める。


「まだなにか?」


「ううん。……でも、やっぱりタダでなにかをもらうって、なんかね。だからこれをあげようと思って。……文字は読める?」


「アラム語なら読めるけど、ギリシア語やラテン語は全然わからないよ」


「じゃあちょうどいいかもね」


 彼女が手渡してきたのは、巻物にされたパピルス製の書物だ。


「……これは?」


「アリストテレス。知ってる?」


(アリストテレス!)


 マニは、内なる興奮を辛うじて押さえ込みながら答えた。


「そりゃ知ってるよ。万学の父、学問の祖。あのアレキサンダー王の家庭教師でもあったんだろ?」


「へぇ。びっくり。知ってるんだね。もしかして書物が好きなの?」


「共同体では、おれ以上に書物を読んでる人はいないよ。でもアリストテレスはまだなんだ」


 いつか彼の書物を読んでみたいと思っていたところだった。けれど〈白装束〉が読んでいい書物は〈父〉が厳しく取り決めている。アリストテレスの書物は、残念ながらその対象外だ。


 つまりこれは、マニにとって禁断の書物と言えた。教団の厳格なルールに基づくならば、決して受け取ってはならない代物だ。しかし〈父〉によって読むことが許された知の巻物の中からは、よくアリストテレスの言葉や考えが引用されている。果たして彼がどのような人物なのか――マニは今までずっとその姿を空想しながら、許された書物だけをもやもやしながら読み続けていた。そしてその度に、アリストテレスへの憧れは膨らんでいくのだ。

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