遊女

スヴェータ

遊女

 遊びの女と書くのに、それにも恋心があると知った時、滑稽に思えてならなかった。俯く女。そのうなじにじわりと浮き出す汗雫。恥じらいがなければ、俺には見えなかったはずのものだ。


 早々と事を済ませ、店を出る。もうここへは来ない。恋をしに来たわけではないから。そして何より、恋に取り憑かれた女の厄介なことを知っているから。


 遊女の良さは、恋愛の外で女を楽しめるところにある。だから俺は遊女が好きだ。1人だって顔は覚えていないがね。


 港に戻ると、同じように遊郭から帰ったらしい仲間が賑やかに今日抱いた女の話をしている。女の反応が良かっただの、身体が艶やかだっただの。俺はこの会話には加わらない。


 船の管理簿を見る。異常なし。定刻通りに出港するだろう。もうしばらく時間があったから、甲板に出て胸ポケットに入れておいた酒を飲みつつ海を眺める。すると隣に1人、仲間の男が同じように暇を潰しにやって来た。


「お前はあの下品な話に加わらないんだな」


 男はこちらを見向きもせずに言う。コイツ、誰だっけな。寄港した先々で人の乗り降りがあるものだから、いまいち把握できていない。


「下品だから加わらねえわけじゃねえ。仲が良くないから話さねえんだ」


 努めて冷たく言い放ち、酒をまたひと口。早くカラにして入れ替えたい。先程の遊郭で日本酒を入れたが、俺の口には合わなかった。やはり、船乗りはウォッカに限る。


 俺たちの会話は途切れ、ボトルの中で波打つ酒の音だけが自発的に発せられる。あとは船のエンジン、旗、波。そして「下品な会話」の笑い声。退屈な音ばかりが俺たちを包んでいた。


「俺さ、遊女を殺して回ってるんだ」


 ぼそりと呟く。男はやはり、こちらを見向きもしない。俺は驚かなかった。この男からはペテン師の臭いがしたから。


「死ぬ間際の遊女は、そりゃあ良い顔をするんだ。苦悩、後悔、解放感……。全てが綯い交ぜになった、人間らしい顔でさ」


 白んだ空を鳥が横切る。海も、空も、もちろん鳥も、この男の罪深さを知らない。見ろよお前ら、コイツの顔を。恍惚とした恐ろしい表情を。


「ただ、あの遊女、本当に苦労していてさ。あの子は全く悪くないのに、家族のために身体を売っているんだ。俺、殺せなくてさ」


 先程とは一転、シケた面をして視線を落とす。ガッカリだ。並大抵ではないペテン師の臭いがしたのに、そんなくだらない理由で殺し損なったと言う。


 俺は話を聞く気をなくし、無事カラになった酒のボトルに蓋をして船内へ通じる扉へと向かった。すると男は、俺の背中にかろうじて届く程度の小さな声でこう言った。


「その遊女、連れて来ちまった」


 思わず足を止め、男の方を向く。男はようやく俺の目を見て、何も言わずに近付くと、「こっちへ来い」と手招きした。


 倉庫。空箱が山積みになった一角に、ひと回り大きな箱があった。開けるとそこには遊女が儚げに顔を伏せ、小さく収まっていた。


「次の港で俺は降りる。この女をしばらく世話することにした。幸い見知った土地でね。それで、今から次の港まで、この女を好きにしてくれて構わない。だからどうか、黙っていてくれないか」


 そう言うと男は俺の返事を待たないままに外へ出て、扉の鍵を閉めた。当然内側からは自由に開けられるが、外から開けるための鍵は今、あの男しか持っていない。


 出て行こうかとも思ったが、せっかくの機会だ。この遊女を楽しんでから出たっていいだろう。利害その他を考えても、あいつはここを俺が出て行くまで開けないはずだ。


 遊女に手を差し伸べ、箱から出るよう促す。遊女は黙って俺の手を取り、胸元に指をスッと差し込んで衣服を広げた。


 妙だ。この遊女には「諦め」を感じない。こんなにも従順で、隷属的で、下賤であることを露わにしているのに。目付きではない。当然態度でもない。何が俺にそう感じさせるのか。


 遊女は襟元に俺の手を持ってくると、はだけさせるよう求めた。嫌な予感がする。思わず手を引っ込めた。すると遊女は、クスクス笑い始めた。


「旦那様、愛に飢えていない遊女は初めて?」


 そうか。俺が今まで接してきた遊女たちは、愛に飢えていたのだ。だから俺に抱かれる遊女は心を無にしていた。あるいは性欲による優しさも、気遣いも、何もかもを愛と誤認し、恋に落ちた。ああ、きっとそうなのだろう。


 つまり、この遊女と俺は対等。俺は対等な関係にある女を抱いたことがない。そのような女、面倒なだけだと思っていたから。しかし、実際はどうか。面倒どころか恐ろしいではないか。


「旦那様。いえ、お兄さん。あなた、ちゃんとした愛を知らないのね。だからこんなに震えてしまった。寂しい人。こちらへいらっしゃいな。どうせまだ、時間はあるのでしょう」


 恐る恐る近付く。ああ、この女を腕に抱けば、俺はもう戻れないかもしれない。たかが遊女。バカバカしいとは思うさ。しかしこの遊女は、今までのどの遊女にもなかった「希望」と「自信」を持っている。ダメだ。敵わない。


 両腕で遊女の頭を包む。直前、ふわりと花のような香りがした。目だけを動かし、俺を見上げる。不覚にも「かわいらしい」と思った。


 俺は手を出せなかった。あの男が殺せなかったと言った理由が今なら分かる。この遊女は、いや、この子はもっと大切にしたい。対等な関係の女性は何と愛おしいことか。恋にも金にも性欲にも取り憑かれていない女は、何と美しいことか。


 しばらくただ抱きしめた後、俺は扉を開けて外に出た。次の港に着く直前、あの子の箱にあるだけの金をねじ込んだ。


 港に着くと、荷運びの混乱に紛れてあの子の入った箱も搬出した。男はうまく抜け出し、箱をリヤカーに乗せて人混みに消えた。


 1年後。新聞の社会面の片隅に、小さな記事が掲載された。「遊女殺し、遊女に殺害さる」。被害者も加害者も、知らない名前。もしかしてアイツらだろうかと気になり、その記事を読み進めた。


 被害者の男は遊女を38人殺したと供述しており、うち5人の殺人について起訴され、死刑判決を受けていた。しかし5年前に脱獄。その後も捕まらないままだった。


 一方加害者の女は、あの日寄港した町で長く働く遊女。借金のカタに売られたが、愛する実の兄のために懸命に働いていた。しかしその兄が1カ月前に死亡。凶行のきっかけと見られている。


 男の顔は潰されて判別できなかったが、女が所持していた紙幣の番号が、脱獄した男が所持しているとされるものと一致した。その他の鑑定は精度に大きな差があり、一致とも不一致とも出た。結局「総合的に」見て、被害者の男を脱獄囚と断定したのだった。


 新聞をパサリと閉じる。何だ。あれもやはり、所詮は遊女。不安定な浮き草だったということか。何だかガッカリしてしまった。いや、全てはこれがあの2人のことならばの話だが。


 抱きしめる直前にふわりと届いた花のような香りを思い出す。あれはきっと、あの子の恋の香り。気高く、誇り高い女の香り。


 ああ、もしこの記事がアイツらのことなら、俺は認めなければならない。あの時の遊女はとびきりの良い女だったのだと。


 遊女殺しが生きがいの俺に、一瞬でも「かわいらしい」と思わせたから。おまけに罪を見知らぬ男に被せてくれたのだから。

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