陽炎

きのみ

陽炎

 広いお風呂に浸かって脚をのばしたいと思った。日の高いうちから温泉に入って、広がった血管を感じよう。ことによると知らない人と二言三言話すかもしれない。うまくするとおもしろいことがあるかもしれない。そうでなくてもたくさんのお湯に浸かるのは滋養がある。温泉はそう遠くない。

 かねて用意していたお風呂セットを持って、なるべくやわらかい着替えを選んで、一番きれいなタオルを詰めた。車の鍵も持ったし、道中うたう歌もある。はじめて行くところではないから道もわかる。準備万端、前途洋洋。温泉まではのんびり行って一時間。途中で海も見える。

 すんなり目的地に着いた。時刻は午後の三時半、何をするにも中途半端なこの時間帯がかえって湯治へのふんぎりをつけさせる。今日はもうなにもしてやるものかと決めつけて少し笑った。平日の観光地でない温泉というところにはふつう近隣の老人がいる。その日はふたり先客がいた。軽く会釈して、特に会話はなかった。知り合いどうしかと思われた先客のふたりも別に深い関係ではなさそうで、みんなで黙ってぼんやり湯にのばされ陽光にとろけた。身体から言葉が消えるまで浸かったりあがったりを繰り返して、関節が緩くなったことを確認してから本式に脱衣所に戻った。液状化した自分をいいにおいのする布にくるんで、かためるために水を飲む。地下から出てくる鉱泉はすこしだけ金属の味がするので何かの効果を予感した。

 外に出て空気に触れたとき、かん、と音がした。耳で聞いたわけでなく、強いて言えば頭の中で音がした。冬だなと感じた。


 晩ご飯のお買い物をして駐車場に戻る間にうっかり空を見てしまった。短くなった日が沈んでゆくその少し前の空で、ひらひら、くにくにしたオレンジと青が見えた。慌てて山を探したが、山も既に緑ではなかった。遅きに失した魂が「今日も世界はうつくしい」と反射した。それでなにも見えなくなった。自分がひどくきたなく思えて、なんでここにいるのかわからなくなった。温泉に行ったことも、晩ご飯のために買い物をしたことも恥ずかしくてたまらなくなった。夕焼けを閉じ込めたようなオパールがとんでもない値段で落札されたことなどを考えてみても、もうどうしようもない。どうやって帰ったのかも思い出せない。


 こういうときはとにかくご飯を食べるのだ。多少無理をしてでも食べるのだ。食べて、満腹の苦しみで塗りつぶす。できなかった。買ってきたものをその辺に散らかしてじっとしてしまった。……電話をしようか。


 一般的に電話をかけるには非常識とされる時間になってから□□に連絡した。

「どうしたの」

「……」

声が出ない。

「……」

□□も黙っている。人を待たせることへの後ろめたさから喉が動いた。

「……またわからなくなった」

「そう。そっち行こうか?」

「そう言われると思ったから電話することをためらっていたんだよ。来なくていい。来てほしくない。ごめんなさい」

「ご飯は?」

「食べられるわけがない」

「約束したでしょう」

「食べようとはした。できなかった」

「じゃあしかたない。眠れる?」

「あまり期待はしないでほしい」

「眠らなくていいからお布団に入って横になって目をつぶりなさい」少し強い調子で言っていて、それはこちらのためにわざとやっているとわかる。考えて思って消えて、また言葉がつながらない。

「……」

「どうしたの」話し相手を理解できないことへの自責がにじんでいる。にじんでいるととってしまう。二の轍、と音がする。こえなければならない。

「光が見えたと思っていて、たしかに、たしかに見て、触れさえしたのに、また見えなくなってしまった。こんなことを言って困らせると悪いから言いたくなかったけど、言う」

「わからないよ。何を言っているのかわからないよ。それでも聞くから、まだ言うことはある?」

涙が出た。

「だからそこで光っていてくれないか。もうしわけないけれど」

「いいよ」

「ありがとう。きっと見る」

「今日はもうおやすみ。眠って、起きて。起きるまで眠って」

「わかった」

こちらが切るまで□□が待つことを知っていたので切った。


 すっかり疲れてしまって呆然としたまま布団に挟まった。真っ暗な部屋で天井にむやむや輪っかが浮かんでいる気がして、自分の目が開いているのか閉じたのか判然しない。どこかに置きっぱなしにした携帯電話は起きてから探すことにした。

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陽炎 きのみ @kinomimi23

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