煙に、埋もれる

雪桜

煙に、埋もれる



ベランダの手すりに身体を預け、おもむろに煙草に火をつける。ありふれた日曜日の、昼下がり。

遠くに浮かぶビル群をぼんやりと眺めながら、肺の奥まで煙を充満させると、甘い香りが鼻を抜ける。タールと、バニラの香り。ふう、と吐いた灰色の煙は、すぐにその姿を変えた。まるで意識を持っているかのようにうねるそれが、たちまち空に溶けると、さっきまで青く透き通っていた空はあっという間にセメント色になってしまった。私は自分でも気味が悪いほどに、この瞬間が好きだった。日曜日の昼下がり、私はこの時間が一番、好きだった。

また一つ、煙を吐いた。それは少しの煙だけれど、空を覆い尽くすには多すぎるほどだった。深い灰色が、空に立ち込める。そして無限に広がっていく。私はその光景をみて、十代だった頃の、暖かい朝食を思い出す。私の好きだった薄いトーストに、バターが溶けていく。甘い香り。

「ああ、お前、雲になったのか」

空は何故色を変えるのか。それはまるで赤ん坊の表情のように。また、路地に咲く紫陽花のように。私はずっと考えていた。群青の空は幼子の瞳の色だということは、昔父親から聞いて知っている。じゃあ、あの、憂鬱な空の色は、何と言うのだろう。ああ、あれは曇天というのだ。そうだ、曇天と呼ぼう。曇天。答えが出た問題に、人は誰も疑問を持たなくなる。だから、彼らは知らないのだ。あの空は、私の吐いた煙だ。この私が肺の奥まで味わった、不味い煙なのだ。だから、彼らは曇天が一体何でできているのかは、知らないのだ。それは、私の吐いた煙なのだから。だから、彼らは一生。死ぬまで。知らなくていい。そんなこと、私だけが知っていればいい。これは私の空なのだ。


もういなくなってしまったあの人は煙草を吸わなかった。

ベランダで私の吹かした煙に眉をひそめ、身体に悪いよと心配そうに呟いたあの人は、いつも私の手からライターを奪い取ってしまう。紺青色のライター。父親がくれたもの。私の宝物だった。空っぽになった手のひらを空にあて、あーあ、と子供のように声をあげた。何とも言えない虚無感が私の脳みそを溶かしてゆく。

「私のことなんて本当はどうも思ってないくせに」

あの人は何も言わずに馬鹿みたいに空を見上げた。手にはコーヒーのカップが無意味にぶら下がっていた。あと二口分ほど残る黒い液体を見て、冷めちゃうよ、と声をかけても意味はない。あの人はその日、もう飲み物すら口にしたくなかったのだと、あとから気がついた。

「曇っているね」

私の声だけが、灰色に溶けたのがわかった。

「せっかく、恋人のあなたと二人で、こうしてベランダに出てきたのに、見上げる価値もない。私は煙草を、あなたはその黒い液体を持って、こうして空を見上げているのに、空はまるで私たちを見ていない。不公平だよ。ね。私にとって煙草は価値のあるものなのに、あなたはその価値がないと言う。ほら、不公平だよ」

ささくれだらけの指にさっき挟んだ毒物から、灰が落ちた。これを吸ってしまえば、もう次はない。私の毒に火を灯すものはない。あの人の手の中で、いつ割られてしまうかわからない。あの人は最後まで、その紺青のものが私の命よりもはるかに重いものである事を知らなかった。

することがなくなって、本当になくなって、遠くのビルの数を数えていた。頭にはシベリウスの交響曲が流れていた。流れる音の数と、ビルの窓の数を比べてみようと思ったが、やめた。きっと、その行為には何の意味も無かった。私が煙草を吸うことくらい、意味が無かった。ふと我に返り、燃え尽きてしまう前にと、毒物を口に当てた。気付かぬうちにあの人は、もう、どこかへ行ってしまった。ライターを置いてどこかへ行ってしまった。寂しくはなかった。ただ、いつものように甘い煙を肺に溜め、ふう、と吐き出す。初めて私の煙が空に溶けたのは、この日のことであった。あの人がいなくなった。そんな、何でもない日だった。何でもない日に、コーヒーの残り香と、バニラの香りが混じっただけだった


雨が降ってきた。果たしてこれは私の涙か。私が、泣いているのか。一体何に。この曇天の空か。自殺した父親を思い出してか。それともあの人を、心から愛していたからか。わからない。わからないけれど、あの空は泣いている。私の煙に巻かれた空が泣いているのだから、そう違いない。

紺青のライターを薄汚れたジーンズのポケットから取り出すと、新しい煙草に火をつけた。相変わらずささくれている指先は、雨に濡れて小さく震えていた。雫が、睫毛の先で跳ねた時、私は、今すぐに消えてしまいたかった。それか、誰かに抱きしめて欲しかった。できれば、あの人に。ああ、どうか、あの人に。煙で黒く染まってしまったこの身体を、潰れるくらい抱きしめてほしい。許して欲しい。灰色の空でもいいから、たとえ空が私たちを見ていなくとも、あの人と眺めるのなら価値のあるものなのだ。一緒にコーヒーを飲みながら。他愛のない話を、灰色の空に咲かせれば、それだけでいい。紺青のライターは足かせだった。私を生かす足かせであったのだ。早く、叶うことなら父親にこのライターを返したい。もういらないからと。もう私にはこんなもの必要ないからと。私は、そうして私は、煙草をやめるのだ。無意味なこの自虐行為をやめてやるのだ。なあ、聞いたか。私はこんなこと、やめてやるのだ。そう曇天の空に誓った。曇天の空など、もう見たくなかった。私は、煙草の煙より、幼子の瞳が好きだった。群青の空が、大好きだった。


あの人はもういない。父親は死んだ。私はライターをこのささくれた手に持ち続けるし、一人で曇空を見上げ続ける。

「ああ、お前、雲になったのか」

私の肺から、ふたたび煙が吐き出された。

私は、雲になったのだ。

たった一人になって。

煙に、埋もれて。

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