イカシナプス

マツダシバコ

イカシナプス

私は岬に立って海を見つめていた。

強い風が吹いていて、頭に巻いたスカーフが激しくなびいていた。

私は黒い海を見て悲しくなった。裏切りにあったのだ。

波間には多数のイカが浮いていて、一斉にこちらを見ていた。

「バカにして」私は思った。

いっそのこと海に飛び込んで追いかけてやろうかと思ったけれど、この世界では海に長いこと潜っていると死んでしまう決め事になっていた。

死ぬとは、何もできなくなるということだ。

私は下唇をきつく噛んで、その場を立ち去った。

間もなく、黒い空から大粒の雨が降ってきた。水滴が体に当たると、皮膚に穴が空き、ちりちりと痛んだ。

「まったく」

私はスカーフを広げて雨を避けながら、岩場の洞穴へと急いだ。

この世界には美しいものが何もなかった。私はごつごつとした黒い地表にうずくまって、また悲しくなった。


次の日に海に行くと、イカたちは一斉に波間から身を乗り出して、高性能の広角レンズがはまった球体の目をこちらに向けた。

私は腹が立っていて、イカたちとのコンタクトを遮断していた。

彼らは私が無反応であることを認めると、するりと海中に潜り姿を消した。

水面は小さな波だけを残し、静かになった。

私は目をつぶり集中してイカたちの行方を追った。そうとうに集中しなくてはこんな簡単な追跡もできないなんて。

私はくじけそうになる気持ちを抑えて、さらに集中に入った。


イカたちは体を波打たせて、海底へと向かっていた。

深海は空や地面よりもさらに真っ黒だった。

けれど、頭の中のモニターにはイカたちの姿は鮮明に映った。

彼らは槍のように海底の地表に突き刺さると発光した。

それは黒いこの世界にはどこにもないまばゆい光だった。

しだいに発光はおびただしくなり、電光線となってイカの体内をかけめぐった。

彼らは発電しているのだ。

やがてバチバチと音を立てて放電がはじまり、塩水を媒介にして一帯に強い磁場を作り上げた。

電界には相当量の電流が流れていた。

チリが反応して電気爆発を起こし、美しい光とともに消滅した。

あんなところに指を差し込んだら、一瞬にして高圧の電流が頭の先まで駆け上り、黒焦げになって死んでしまうだろうと、私は想像した。

「死んでしまう」私は口に出して言ってみた。

その言葉は、この世界にやって来る前に念入りに教え込まれた言葉だった。

その言葉を思い浮かべる時、私の中に恐怖が走った。

私は死んではいけないのだ。いや、出来うるかぎり死なないように生きなければならない。それが生物としての絶対的ルールだった。


この世界に来る以前の世界は真っ青な美しい星だった。

それは完璧で優も劣もなかった。すべてに終わりはなく、終わりのないものに始まりもなかった。すべてが、ただ、あったのだ。いや、そこには特に何もなかった。

 世界からこんな声が湧き上がった。

「ここではない違う世界で新しい試みをしてみよう」

「新しい試み?」

「体験だよ」

「体験?」

私の中のどこかが反応をした。私は個人であり、世界全体でもあった。

私の中のあちこちで様々な反応があった。思いは分裂し、いろいろな思いが飛び交った。

とにかく私たちは、そのことを味わい尽くすように、よく考えた。

そして、私はその世界にシナプスを送り届けることになった。

赤い三角形のスカーフを巻きつけると、世界からその部分が分離され、まず頭ができた。それから上着を着て、青いスカートを身につけると、私は世界から完全に切り離されて、少女の姿になった。

どうやって、この世界に来たのか覚えていない。

気づくと、ゴツゴツした世界に立っていたのだ。

腕に抱えたバスケットいっぱいに詰め込んできたシナプスは星くずのようにきらきら光ってきれいだったのに、黒い海を見るなりそれは、気味の悪いイカの姿に変えて次々と海に飛び込んでいってしまった。

「私はしかる場所にシナプスを届けなければならなかったのに」

少女は途方にくれた。

「でも、しかる場所って?」

考えても少女にはわからなかった。

「どうしてこんなことに」

いくら問いかけをしてもどこからも返事はなかった。

少女は暗い気持ちで海を見つめた。

少しも楽しくなかった。それに心細くもあった。

それらは初めて感じる気持ちだった。

少女は、その痛みにも似た感情に目をつぶって集中してみた。

痛みはまるで小さな生き物のように、彼女のハートにしがみついて震えていた。

その震えは全身に広がって、少女を切なくさせた。

少女はいつの間にか涙を流していた。

何もかも知ってはいたが、体験するのは初めてだった。

「帰りたい」

世界を抜け出て来たときの気持ちとは裏腹に、絶望だけが少女を支配していた。


イカたちは磁界に新たな世界を構築していた。

彼らには考えがあったが、意思というより共通認識に近かった。彼らは同じビジョンを共有し、それに向かってただ体を動かしていた。

磁界には生物の元ともいえる小さなチリが舞っていた。それらは結合し、しだいに大きくなっていった。

彼らはこの世界に様々な生物を作り出そうとしていた。

それは彼ら自身でもあるシナプスを植え付けるために必要だった。

生物がどんどん育ち、複雑になって、脳という機能を持つと、イカたちはその体内へと送り込まれた。

その間、何百年とも、何千年とも、何億年とも、長い月日が経過していた。

その間、少女は黒い岩辺に寄りかかって、海を眺めていた。

その間、どれだけのため息をついたことだろう。

少女はずっと一人ぼっちで、年も取らずに、置き去りになっていた。

いや、一人だけ友だちはいた。

それは夜空に輝く星だった。

この世界は、朝でも昼でも怒ったように硬く暗かったが、夜には星がまたたいた。

少女は星をなぞらえて、彼女と同じ年くらいの女神を描き出した。

その女神が少女の友であり、神であり、救いだった。

「ねえ」少女は空に語りかけた。

女神は竪琴を持っていて、よい音でそれを奏でた。

少女は目を閉じて、その音色に耳を傾けた。心が溶けていくような美しい音だった。

時折、波間にイカたちが姿をあらわした。

イカたちが球体の目玉をぐるぐると回転させると、星明りに反射して気味悪く光った。少女はそれを見て意味もなく腹が立った。

「しっし、あっちへおいき」

少女は手でイカたちを追い払った。

唯一、同じ志を持って同じ世界からやってきた仲間なのに。

そのことを思うと少女は悲しくなった。

少女の住んでいた世界には、仲間割れなんてなかった。

真っ青なペンキで塗られたような真っ青な世界。

そこには境目なんてなくて、すべては共有され、消化されていった。

今でも彼女の心はそこにつながっている。

でも、辛く、悲しすぎて、少女は世界と一体になることができなかった。


ある日、目が覚めると、少女の前に裸の少年が立っていた。

それは波によって運び込まれたイカたちの最高傑作だったが、体は上半身しかなかった。

そのため、岩から生え出してきたかのように見えた。

少女は目を瞬いて驚いた。それからまじまじと少年を観察した。

美しい顔立ちではあった。

でも、彼女が知りたかったのはもっと深層の部分だ。

目をこらすと、脳から発令された指示が電気信号に変換され、イカシナプスを経由して、全身へ伝わっていく様子がわかった。

脳から何かが発信されるたびに、全身に配置されたイカシナプスがピカッピカッと光った。

少女はその様子をいまいましく思った。

「なんて伝達が遅いのかしら」少女は思った。

少女の世界の常識では思うことと現実を作り出すことは同時なのだ。

「ねえ」

少女は心の中で少年に語りかけてみた。

「ねえ!」「ねえ!」「ねえ!!!」

最後に少女が声を出して呼びかけると、少年はやっと少女の方へ顔を向けた。

「なんて愚鈍なの?このバカ」

少女がどんなに心の中で毒づいてみても、少年は美しい瞳を瞬かせるだけで何もわかっていないみたいだった。

少女は少年を海に突き落としてやりたい衝動に駆られた。

少女はキッと海を睨みつけた。

波間から様子を伺っていたイカたちがさっと水中に引っ込んだ。

「まったくこんな出来損ないを作って」

少女は腹いせに少年に飛びかかった。

下半身のない少年は逃げることもできず、少女ともみ合いになった。

正念の脳からは激しく危険信号が発信され、光が身体中を駆け巡っていた。

「あなた、死ぬことを知ってるの?」

少年は何も答えなかったが、涙を流していた。

少女はその涙を指ですくい取って眺めた。少女もよく涙を流す。

少女はきゅっと少年を抱きしめた。


少女が少年を受け入れたことを確認すると、海底に戻ったイカたちは、さっそく少年の下半身の作成にとりかかった。

足りないものは後から継ぎ足せばいい。

これがイカたちのセオリーだった。


少女の元へ下半身が届いたのは、二人が知り合ってからしばらく経ってからのことだった。

それは上半身と同様、波に運ばれてやってきた。

その頃には、少女の周りには様々な生き物が取り巻いていた。

少年は少女と違い、何か食べないと生きていけなかった。

少女は少年のために毎日、食べ物を集めた。

少女が与えた食べ物を少年はうれしそうに食べた。

下半身のない少年の排泄口は、口にあった。

イカたちがそのように設計したのだ。

食べ物を口から入れたり出したりしている少年の姿を眺めると、この愚かな生き物はいったい何をやっているのだろう、と不思議な気持ちになった。

少年はいつの間にか男性と呼べる体躯に成長していた。


下半身を海から拾い上げた時、少女はそれが少年のものだとすぐにわかった。

しかし当の本人は、それを見てもぽっかりと穴のような口を開け無関心であるようだった。ともすれば、口に入れて食べてしまいかねないほどだ。

少女は下半身を少年にくっつける前に、波に打ち上げられた際に岩場でできたすり傷の数々を、念入りに癒した。

それは、接着した際に少年が痛みを感じないように、との配慮からだった。

そのやさしさという思いやりの感情は、もともと持っていたものなのか、この世界特有のものなのか、もはや少女にはわからなかった。

でも、とにかく少女はそうした。

上半身と下半身を接着することは彼女にとって簡単だった。

ただその完成図を強くイメージすればよいだけのことだった。

それは元いた世界の常識だった。

確かにこの世界にきて、その能力は各段に落ちたが、しかし、やる時にはやる。

足の生えた少年は、驚くでも、よろこぶでもなかった。

しかし、本能的に少女をつかまえて犯した。

本能、それはイカたちが組み込んだシステムだった。

 少女の体の中に大量のイカたちが放出されると、少女の生態の仕組みがこの世界の生物のシステムに切り替わった。

少女は耐え難いほどの屈辱を感じた。


少女はたくさんの子供を産んだ。

それこそが彼女がこの世界にきた役割だったのだ。

一時は少年に深い愛情を感じたこともあった。

体を繋げることで、コンタクトがとれた気がしたのだ。

しかし、少年が実のところ何を考えているのか全くわからなかったし、少女が年を取ると、少年は少女への興味を全くなくしてしまった。

少年は自分の娘である若い女たちを追いかけ回して、子供を産ませた。


晩年、年をとった少女は孤独だった。

自分の産んだ子供たちのことを上手に愛することもできなかった。

そして、自分もこの世界も嫌いだった。

「こんなになってしまうなんて」

少女は醜くしわの寄った手の甲を夜空にかざして、悲しみに打ちひしがれた。

彼女は年を取るということさえ、うまく受け入れることができなかった。

しかし、いずれ「死」という終着点がくるというシステムには感謝していた。

彼女が星をなぞらえて出現させた女神は、いつだって彼女のために竪琴を奏でてていたが、その音色は彼女の耳に届かなかった。

ましてや、人間になった彼女にとってイカの考えていることなんて計り知れない。

こうして、年老いた少女は夜の暗い海を見つめながら、岩場に寄りかかり一人静かに死んでいった。

イカたちは彼女の亡骸を海の中に引っ張って、海底のさらに深くまで連れて行って、元いた世界に返した。


その後、少女は記憶を消され、幾度となく生まれ変わったが、海を見つめるたびに何故か悲しい気持ちになった。

それにも関わらず、彼女は海の近くに住んでしまうのだった。

何百、いや何千回目に生まれ変わったとき、彼女はその理由がわかった。


彼女は夢を見た。

それは、少女とイカが担った壮大なテーマと役割についての物語だった。

夢の中で、彼らは生物をこの世に作り出し、ひいては世界そのものを創造した神なのだった。

シナプスは生体の中で点滅を繰り返し、たゆまなく情報を送り続けていた。

しかしよく見ると、世界全体が一つの生き物でもあり、すべては繋がり、まるでクリスマスのイルミネーションのように、光の呼応を繰り返しているのだった。

夢の中の少女は、俯瞰からその美しい瞬きを見た時、わぁと声を上げて泣き出してしまった。

そして、イカを呪い続けた自分を許した。


目がさめると部屋の中は薄暗かった。

彼女はゆっくり部屋の中を見回し、現実の世界に帰ってきたことを確かめた。

「やあ、よく寝ていたね」

彼は彼女が目を覚ましたことに気づくと、読んでいた本から顔を上げ彼女に微笑んだ。

「ねえ、私、重大なことを思い出したの」

「へえ、何だい?」

彼女はソファから立ち上がって、車椅子に座っている彼の代わりに部屋のあかりを点けた。

彼女はもはや恋人である彼が誰の生まれ変わりであるのか気付いていた。

恋人は、脳からの伝達が下半身の筋肉にうまく伝わらなくなり、しだいに自由を失っていく難病にかかっていた。

彼女は彼の元に歩いて行くと、筋肉が落ちてやせ細った彼の膝の上へ、遠慮なしにどっしりと腰を下ろした。

ここは彼女の居場所なのだ。

彼の両腕がやさしく彼女を包む。

彼女は今見てきた夢の内容を共有するように、彼にぴったりと頬を寄せた。

「ねえ、私たちはイカたちともっと仲良しになるべきだと思うの」


                                            おしまい

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