狩人の一目惚れ

@mamikochin

第1話

 70年前 はるか遠い、海を越えた東の大陸に魔王が復活した。けれど私の里は平和だった。みんな森の恵みに感謝しながら、ひっそりと暮らしたらしい。


 50年前 魔族たちは海を荒らし始めた。けれど私の里は平和だった。やはりみんな森の恵みに感謝しながら、ひっそりと暮らしたらしい。


 20年前 とうとう魔族がこちらの大陸に乗り込んできた。多少の危機感は覚えど、みんな森の恵みに感謝しながらひっそりと暮らしたらしい。誰もそれ以外を知らなかったから。


 10年前 私の里はあっけなく滅んだ。みんなひっそりと死んだ。


 元より特殊な体質故に、衰退の一途を辿っていた民族だ。魔族の襲撃に耐えられなかったのは当然のこと、完全な自然淘汰であったかもしれない。


 幸か不幸かたった1人生き残ってしまった私は、しぶとく生きのびてやった。


 里で得た弓のスキルを活かし、獣を狩って食べ、大樹の麓で眠る。時には集めた下級ランクの魔物の素材を田舎の村で売って小銭を得たり。

 そんな暮らしをたった1人で、10年も続けてきた。


 けれどそれもここまで……か。


 目の前を塞ぐ大柄の魔熊……私では到底かすり傷すらつけられない上級ランクの魔物は、今まさに私を狩ろうとしている。


 ……どうせ私の寿命は持ってあと2年。それも今まで通りの孤独な生活の2年なら、ここで死ぬのも悪くないのかもしれない。


 諦めて目を閉じようとした時、昼間の地上に流星が駆けたかのような、銀の光が通り過ぎた。



「坊主、俺の前で死にかけんじゃねぇよ」


 あまりにも一瞬の出来事で、魔熊は断末魔をあげる暇すらなかったのだろう。その巨体に銀の槍を貫通させたまま、静かに息絶えていた。


 皮膚が恐ろしく硬いことで知られる魔熊に、槍を貫通させるなんて……どんな鬼神かと思って声の主に目を向けたところで、思わず呼吸を忘れてしまった。


 プラチナみたいな銀色の髪、神秘的な紫色の瞳、神様の使いと言われたらすっかり信じてしまうほど、この世のものとは思えないような美しい男性がそこにいた。


「クッソ、急いだとはいえやりすぎたな……肝臓まで潰れてやがる。内臓は売り物になりそうもねぇな……なんだ坊主、腰が抜けて動けねぇのか?ったく……こいつを解体したら送ってやるよ。どっちの村から来た?」


 素材の売却をするということは、一応彼は神様の使いではなく、俗世の人間のようだ。


 紫の瞳で見つめられると、心臓がやけに騒がしくて落ち着かない……なのに目が逸らせないのは何故だろう。


「助けていただいてありがとうございます。……家はありません。弓で狩りをしながら旅をしています。」


「はっ!?お前みたいなガキが冒険者!?それも1人で……!?」


 あと3月程で20歳を迎える私だが、子供扱いされるのも無理はない。


 私の種族は、二次性徴を迎えるものが少ないのだ。これが種族が衰退した理由だ。


 現に私も、10年前と容姿が変わらない。髪も短く、服装も野暮ったいので10歳ほどの少年と思わてしまうのは当然のことだろう。


「親はどうした……?」


「魔族に村が滅ぼされまして……生き残ったのは私だけです」


「そうか……」


 顎に指をあてて何やら考えこむ彼も芸術品のように美しいな……なんて目を奪われたあと


「なぁ、俺はこの先の ちょっとデカい街を拠点に暫く金稼ぎをするつもりなんだが、デカい街にはガキの保護施設もあるし、ガキでもできる仕事だってたくさんある……俺と一緒に来ないか?」


 今までの私ならば 絶対に頷くことのなかったこんな提案に、二つ返事で頷いたのはきっと……この美しい人ともう少しだけ一緒にいたいと思ったから。


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「おい!リン!大丈夫か…!?」


 馬車があんなにも気持ち悪いものだとは思わなかった。胃の中のものを全て吐き出してしまいたい……けれど、そんな姿 絶対に彼、アスターにだけは絶対に見られたくない。


 その気合だけで立ち上がってみるものの、冷や汗とふらつきが止まらない。


「無理すんな……ほら、乗れ。吐いてもいいから。……馬車よりはマシな乗り心地だろうよ」


 目の前に差し出された背に、善意以外の他意はないだろう。


 妙齢の女性の自分としては気恥ずかしいのだが、背に腹は変えられない。


「軽いな……ちゃんと食ってんのか?食べ盛りにちゃんと食わないとデカくなれねぇぞ……」


 体が触れたところで女と気付かれる肉付きではない。ならば役得とばかりに大きな背中に身を寄せれば、自分より温かな体温が伝わってきて、なんだかほっとした。


 ここに来るまでの間に確信したことだが、アスターは女性が苦手だ。


 可愛らしい町娘にも、色っぽい貴婦人にも目をくれることはない。

 積極的な女性のお誘いにも決して応えず、「迷惑だ」と一刀両断することすらある。その時の目の冷たさと言ったら……仮に私に向けられたら、正気を保っていられる自信が無い。


 私は少年と思われているからこそ、アスターの傍に居られるのだ。


「しっかり休んでしっかり食えよ?俺のパートナーとして修行するんだろ?」


 背中でコクコクと頷く。


 冒険者として修行するためにアスターとパーティーを組みたい―――そんな要望を受け入れてくれたのも、アスターが私を少年と思っているからこそ。


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「リンくん、お待たせ。台所使っていいわよ」


 明るく声をかけてくる気立てのよい女性はカレンさん。滞在している宿の看板娘だ。


「いつもありがとうございます!」


「いいのいいの!でももし良かったら……またお裾分けしてほしいかなぁ……」


「あんなものでよければカレンさんにはいくらだってお分けしますよ」


「ふふっ、ありがと。でもあんまり貰っていたらアスターさんが怒っちゃいそう。俺の分がなくなる!なーんて」


 無愛想顔のアスターが容易に想像できて、思わず笑ってしまう。


 1人で伝統的な獣料理ばかり食べてきた私には、街で振舞われる料理は味が濃すぎて多くを食べることができなかった。


 見かねたカレンさんの気遣いで、宿の台所を使って自炊させてもらっているのだが、アスターも実は薄味が好みだったのか私の料理をいたく気に入っている。


 それはとても嬉しいことなのだけれど……


『こんなうまいものはアリスだって作れやし……いや……なんでもない、本当にうまいな』


 初めて料理を振舞った時に聞いたアリスという女性の名前。


 女性を避けるアスターにも、手料理を振舞うような仲の女性がいたんだ……ちょっと、羨ましい。なんだか胸がチクリと傷んだ。



「けれどリンくんも大変だったのね……今まで街で暮らしたことがなかったなんて」


 同情を帯びたカレンさんの呟きに、今までのことを思い出す。

 僻地の村で買い物をすることはあったが、長期滞在はしなかったし、大きな街に来ることは避けていた。


 何年も容姿の変わらない子がいるのは不気味だろうし、何より いつまでたっても二次性徴を迎えない子供というのは、一部の悪趣味な好色家にとってはこの上ない嗜好品になってしまう、と里で教えられていたからだ。


 私がリスクを犯してでもアスターと一緒に来た理由はただ1つ。


 私の種族では、二次性徴を迎えなかった子供はせいぜい22歳……早ければ20歳でパタリと突然死んでしまう。

 残り数ヶ月から2年の寿命ならば、好意を持った人と過ごしたかった。


 あわよくば、私の最期の時にアスターが傍にいてくれて、その死を少しでも悲しんでくれるなら……10年の孤独も報われるような気がした。


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「今日は討伐報告やら報酬の受け取りやらの事務作業で1日かかるから、リンはゆっくりしてろ。いいな?」


「でも……何か手伝いを……」


「そんな血の気のない顔してる奴の手伝いなんていらねぇっての。慣れない暮らしで疲れも溜まってるんだろうから、とにかく休め!!」


 アスターは私をベッドに押し込むと「ついてくんなよ」と念押しして出かけていった。



 アスターは口こそ悪いけれど、やっぱり優しい。


 街に来て2ヶ月、私たちは冒険者ギルドの依頼をこなして暮らしていた。

 と言っても、やはりアスターは強すぎる。高ランクの討伐依頼を受けてはあっという間に1人で討伐してしまう。


 私のすることと言えば、料理を作ったり 空いた時間に稽古をつけてもらうことくらい……しかもその稽古だって、本来専門外の弓士の訓練をわざわざアスターが調べてくれていると知っている。


「私……とんだお荷物だなぁ」


 ただでさえ足でまといなのに、体調不良に陥るなんて……本当に嫌になる。


 早くこの身体の重みを消して、元気になろう……ほんの少しでもアスターの力になれるように。


 ……そういえば、アスターはどうしてこんな地方で冒険者稼業などしているんだろう……?あれだけ強ければ、国王が募集・支援している【四天王討伐軍】の一員になってもおかしくないのに……。


 一度「アスターなら四天王でも簡単に倒せそうですね」って何気なく言ったら、なんとも言えない顔をしてたなぁ………どうしてだったんだろう………。


 ぼんやりと思考の渦に身を任せていたら、瞼が重くなってきた………






「―――!?」


 何かが下腹部をつたう違和感に襲われ、目を覚ます。

 なんだかお腹がひどく重い……。


 ベッドから立ち上がるとポタリと赤い血が床に落ちた。


「え……」


 慌てて血の元を辿れば、下着も血で濡れていて 怪我などしていない場所から出血が続いている。


「なに……これ……?もしかして……」


 これが突然死の症状なのか……?

 アスターにも看取られないまま、今 ここで私は死んでしまうのか……?


 ふらりと気が遠くなって足がもつれた。

 ドン!!と大きな音をたててぶつかったサイドテーブルと一緒に床に倒れる。


「や……だぁ…」


 痛みと死への恐怖で涙が溢れる。


「リンくん!!リンくん!?大丈夫!?入るよ!!」


 音を聞きつけたのだろう、カレンさんが合鍵を使って部屋に駆け込んできた。


「カレンさん……私……死んじゃう……お腹も痛いし、血がこんな……」


「リンくん、落ち着いて!……血はどこから……え………リンくん……もしかして女の子だったの?」


 コクコクと頷くと、カレンさんは「なんだぁ……」とこぼしたあと


「だったら大丈夫よ。大人になった証。ちゃんと対処の仕方を教えてあげるからね」


 と言ってギュッと私を抱きしめてくれた。



 カレンさんの言うことには、死の症状はおろか病気でもない、ただの女性の生理現象だったらしい。


「私がすぐ駆けつけられて良かったわ。さすがに男性に見られるのは恥ずかしいものね……」


 カレンさんはアスターから「リンの体調が良くないから何かあったら駆けつけてやってくれ」と言われていたらしいが……本当に助かった。


「けどリンく……いえ、リンちゃん、アスターさんはあなたのこと男の子って言ってたと思うのだけど……」


「カレンさん……お願いします、どうかアスターには黙ってて下さい!!バレたら……アスターにきっと嫌われちゃう……!」


 女嫌いと分かっていながら、少年の振りをして傍にいた女など……きっと軽蔑するだろう


「アスターさんはそんなこと……」


「お願いします!!このまま、アスターのパートナーでいたいんです」


 悲痛な思いを込めて願えば、カレンさんは「仕方ないわね…」と折れたようだ。


「わかったわ。でもね、この先あなたは体つきもどんどん女性らしくなっていくわ。隠したいというなら協力はするけど……いつまでも というわけにはいかないって覚えておいてね、リンくん」


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 私の身体に二次性徴が起こった。

 これはつまり、普通の人間並の寿命を手に入れたことでもあるのだが、もう突然死を恐れる必要がないという希望とともに、別の絶望を連れてきた。


 アスターへの叶わない恋心をずっと抱えながら、数十年の時を過ごさなくてはならない という絶望を。


 ならば許す限り彼の傍に居座ってやりたいと思うのだけど、身体の変化は私が思っていたよりもっと急速に現れた。


「……どうかしました?アスター」


 食事中に無言でアスターが見つめてきた。


「……しっかり食って稽古してる割に筋肉が付かねぇなと思って。前みてぇなガリガリじゃねぇし肉はついてきてるが……」


 ギクリと思った。確かに、肉はついた。ただし、女性らしい丸みを帯びた体つきになるように。


「筋肉が付きにくい体質なのかもしれません……」


「そりゃ、苦労するな。そういえば、昨日戦闘中ふらついてたろ。またどっか悪いのか?」


「ちょっと……一昨日よく眠れなくて」


 月に1度、ふらつくような貧血を起こす。気合で気づかれないように振舞っているつもりだったが、戦闘のプロが見逃すわけもない。


「成長期なんだからしっかり寝ろ。あぁ、でも最近背は伸びたな。良かったな」


 笑って頭を撫でてくれるけれど…

 良くない 全然 良くない。




 今はまだバレてはいない。きっと些細な違和感だ。

 けれど、この違和感の1ピース1ピースが集まり、全てが繋がった時にきっと私は―――


 アスターの冷たい瞳を思い出してゾッとする。



 ここで止まれ!ここで止まれ!と鏡に向かって願ってみても、日々 女性化は止まらなかった。


 まるで実年齢、20歳の女性に今すぐ追いつこうかとするかのように、あっという間に胸とお尻には柔らかな脂肪がつき、それを引き立てるように腰部はくびれ、風呂場の鏡に映る私はもはや女性以外の何者でもなくなった。




「リン……お前なんか香水とかつけてんのか?」


「いえ、何もつけてないですけど……うわっ……」


 突然の問いに気を取られ、躓いた。


「おいっ!?ったく……気をつけろ……足大丈夫か?」


 咄嗟にアスターが支えてくれたものの、右足には結構な衝撃があった。


「くじいたりはしてないと思います……」


「あー……そうか。歩けるなら……悪いけど自分で歩いてくれ。おぶったりするのは……俺が落ち着かねぇ。……変な意味じゃねぇからな?」


 この頃、アスターは私に触れなくなった。

 稽古の時に身体を触ることも、頭を撫でることも。


「ちょっと酒場に行ってくる。お前はガキなんだから、しっかり寝てろよ」


 それに加えて、夜は酒場に行って朝まで戻ってこないことが多くなった。


「私と一緒にいたくないということなのかな……」


 もしかしたらもうとっくにアスターは気づいていて、けれど優しさ故に言い出せなくて我慢をさせていた……とか?


 いや、仮に気づいてなかったとしても、もはや女性らしい要素を持つ私と一緒にいること自体が苦痛なのかもしれない……。


「もう……潮時かなぁ」


 カレンさんの言うように、いつまでも というわけじゃないんだ。


 せめて、少年のリンとしてお別れできるように……とカレンさんに相談した結果、ちょうど領主様が騎士学校への奨学生を募っているところなので、そこに応募したいと話を切り出すことにした。


「そうか……。リンがやりたいことが見つかったなら何よりだ。その、なんだ……騎士学校には荒くれ者ってか、ちょっとヤバい奴もいるかもしんねぇけど、そういう奴は容赦なく叩きのめして自分の身を守れよな」


 騎士学校で自分の身を守れとは何の話なのか……?


 何はともあれ、これで少年のリンはアスターの傍から消える。


 別れ際にかけられた「一人前の男になったら、また俺のパートナーにさせてやってもいいぜ」という言葉は、前提条件が絶対に揃わないので、永遠に現実となることはない。


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「お待たせいたしました、異国風 野うさぎのソテーです」


 あれから1年、私はとある街の食堂で働いていた。

 アスターと別れてすぐに、四天王討伐の一報が入り 国はお祭り騒ぎになった。


 四天王討伐を果たしたパーティーに、異国から来た東方民族がいたということもあって、国中で異国グルメブームが起こった。

 その流れに乗じて、ちゃっかり私の里の伝統料理も異国風なんて誘い文句を付けて売り出したところ、大ヒットした。


 髪を伸ばし、スカートを履いて、いっちょ前に化粧なんて施し、マリンと名乗る私はもう、少年リンとは別人だ。一年とちょっと前まで、少年にしか見えなかったなんて 誰も信じないだろう。


 料理を作って給仕して、たまに買い物に出かけるくらいの単調な毎日だけれど、10年間の孤独な繰り返しとは違う。友人や同僚に囲まれた充実した日々だ。


 ……だからと言って、アスターを忘れた日などないのだけど。


 今しがたも、銀髪の男性を目で追ってしまった。アスターがいるわけないのに。



「ねぇ、マリンちゃん!!すっごいカッコイイお客さん来たよ!まるで騎士様みたい!」


「はいはい、この前も王子様みたいな人が来たーって騒いでたじゃない。それで、騎士様のご注文は?」


「んもー!マリンちゃんはもっとガールズトークすべきだよ!あ、異国風 野うさぎのソテー1つだって。でもなんかあの騎士様みたいな人、女嫌いなのかなぁ……さっき美人の踊り子に声かけられてたのに冷たくあしらってて怖かったし……。お料理持ってくの、マリンちゃんに任せるね!たまにはイケメンと触れ合ってみるべきだよ!うん」


 うまい事言って、自分が冷たくされたくないから任せたいだけじゃないか。


 手早く料理を仕上げ、客席に運んでいく。

 あれ……この人……アスターみたいな綺麗な銀髪……


「お待たせいたしました 異国風 野うさぎのソテー…っ…です」


 一瞬、思わず呼吸を忘れた。


 声が上ずったりしなかっただろうか……変な顔をしなかっただろうか。


 アスター……


 間違えようがない。彼だ。


 話をしたい……たくさんしたい。けれど、今の彼にとって今の私は初対面の知らない女。余計なことを言えば、きっと冷たくあしらわれる。


 なんだかじっと見られた気もするけど、きっと気のせいだ。

 ちょうど真後ろの席の客に注文を頼まれたので、軽くアスターに会釈して彼のテーブルを離れた。


「……うまいな……」


 小さく呟いたその言葉を、背中で聞けただけで胸がいっぱいになった。


 料理を気に入ってもらえたならば、また来てもらえるかもしれない。またアスターを見ることだけでもできるかもしれない。そう思ったが、あれから半年 アスターが2度と来ることはなかった。


 つまり、やはり私がリンだと気づくこともなかったのだろう。


「マリンちゃん、さっきのお客さん まるで公爵様みたいだったよね!」


「王子様に騎士様に公爵様って……うちのお店はいつから社交界になったのよ」


「もー!マリンちゃんったら冷たい!あ、そういえば騎士様と言えば……」


「今日早上がりだから、また明日ね」


「マリンちゃん、ガールズトーク!!」とか叫んでる同僚を尻目に店を出る。早上がりとはいえすっかり日は沈んでいる。満月の……銀の光が眩しい。


 ジャリっと誰かが砂を踏む音が聞こえる。


 そういえばこの間、不審者が出たとか聞いた。もしかして不審者だろうか……もしそうなら、アスター直伝の護身術でお縄にしてみせる。


 そんな気持ちで音の方向を見れば……


 地上に月が降りてきたのかと思った。

 月の光が幻を作り出したのかと思った。


「俺と一緒に来ないか?……リン」


「気づいて……たの?」


 私がリンだって。


「気づかねぇわけねぇだろ……」


 月の作り出す幻とは、自分が言って欲しいことだけを言ってくれるものなのだろうか


「女と気づいて、私を避けてたんじゃないの?女の人、苦手だったでしょ?私が騙してたから……」


「それは……ちげぇよ……。リンが女って気づいたのはこの店であった時だ。あー……もう…カッコ悪い話だけど聞け!全部聞け!」


「うん」


「前に俺に聞いたろ、四天王討伐が何とかって」


「うん…」


「俺、四天王討伐したパーティーのメンバーだったんだよ。リーダーと張り合って、マウントとってやりたくて……パーティーの女を恋人にしてやろうと思って口説いた。……でもきっとそんな浅はかさが見透かされてねぇわけがなかった。全然うまくいかなくてパーティーの空気を悪くした結果、俺はパーティー追放になった」


 もしかして、その女性がアリスだったんだろうか……


「後で冷静になって、未熟だったと思い知った。自分への戒めで女を避けてた。そしたら、リンが女みてぇに見えてきて……なんかいい匂いもするし。ついに俺、少年愛なんてヤバいもんに目覚めたんじゃねぇかと自己嫌悪して避けてた。悪かった……」


「アスター……私こそごめんなさい。アスターの苦しみを全然分かってなかった」


 もしかしたら、素直に真実を話していたらお互いもっと楽になれたのかもしれない。


「改めて……俺は東の辺境伯領の防衛騎士団に入ることになったんだが、つい最近まで四天王に支配されてた土地だ」


 東の辺境伯といえば……四天王を討伐したパーティーのリーダーだった人が就任したと聞いた。


「楽な仕事じゃねぇ。なんせ辺境伯直々の隊長任命だ。うまい飯作ってくれるパートナーがいると助かるんだが……リン、俺と一緒に来ないか?」


 二つ返事で頷いたのは、きっと……この美しい人とずっと一緒にいたいと思ったから。

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