第7話 事件とその後
「ちょ、おじさん。どこへ行くのさ」
「あいつのところだ」
「えーと、その袋を持ってどうしようってのかな?」
高坂はもう何も答えない。無言でナップザックを持ち部屋を出て行こうとする。
「ねえ。ちょっと待ってよ」
高坂はルクルスの方を見ずに行った。
「俺が死んだら、魂はルクルスにやるよ。じゃ、世話になった」
扉を開けて出て行く高坂にルクルスは文句を言う。
「なにも契約してないんじゃ、ボクのものにはならないんだよ。くそっ」
ルクルスの言葉は扉に跳ね返され、高坂には届かない。ルクルスは肩をすくめると戦いの準備を始めた。あーあ。あの調子じゃ堕ちないな。それに厄介なあいつらを引き寄せそう……。
高坂はねっとりとした夜の道を駅へと急ぐ。電車を乗り継いで、本郷の家があると思われる駅で降りた。駅前の案内板で住所を調べる。歩いて10分ほどだった。近くで良かった。高坂は歩いて行き本郷の家の前に立つ。固い決意を秘めていたが、閉ざされた門扉の前にどうしようか思案に暮れる。
「ね。おじさん」
急に声をかけられて、高坂はビクっとする。声の方を見るとルクルスが地面に飛び降りるところだった。背中には一振りの剣のようなものを背負っている。
「勝手に出て行かれても困るんだよ。契約してない魂は手に入れられないんだからさ」
「契約ってのはどうすればいいんだ」
「手を出してよ」
高坂が手を出すと、ルクルスはその手を掴み、指先の爪で傷をつける。たちまち血がにじんだ。ルクルスは自分の手にも同じように切り裂くと高坂の手を握った。
「それじゃあ、願い事を言ってよ」
高坂はぼそぼそと口を開く。ルクルスは目を見開いたが口に出してはこう言った。
「我、汝の願いを聞き届けたり。その願いが叶う時、汝の魂は我がものとなる」
ルクルスは手を離す。お互いの手の傷は消えていた。
「おじさん。それでいいの? 全くおじさんの利益にはならないんだけど」
高坂は無言で頷く。
「じゃあ、願いが早く叶うように、これはボクからのプレゼントだよ」
ルクルスは高坂の肘をつかむとポンと地面を蹴る。高坂ごと塀を乗り越えると本郷の家の敷地内に立っていた。再び地面を蹴ると2階のバルコニーに居る。ルクルスに促されて高坂は窓に手をかける。窓をゆっくりと横に引くと音もなく窓は開く。高坂はそこから部屋の中に侵入した。
部屋の中にはタバコの匂いが満ちている。パイプベッドしかない殺風景な部屋だった。その上には少女と本郷が横たわっている。少女の服は乱暴に裂かれており、皮膚のあちこちに火傷や傷が見て取れた。少女は虚脱して天井を見上げている。目元に涙の跡があった。そこまで見て取った時、高坂の中で何かが音をたてて弾ける。
気が付いた時には、高坂は全身朱に染まって荒い息を吐いていた。自分で傷つけたのか、必死の反撃で受けたのか、高坂自身も血を流しているが、殆どは3人分の血だった。高坂の手から刃が欠けた包丁がゴトリと落ちる。ダイニングには2人の元人間が転がっていた。廊下をヒタヒタ歩く足音がして少女が姿を見せる。
「わたしも……殺して」
サラと呼ばれていた少女が意外としっかりした声で高坂に呼びかける。黙って頭を振る高坂に再び懇願するように言った。
「私なんか生きていても意味がないもの」
その言葉に高坂は殴られたように少女の方を向く。そして悲し気な顔をするとすぐ側にいるルクルスに話しかけた。
「さあ。俺の願いを叶えてくれ」
ルクルスはその目を赤く光らせた。
少女の体から痣や傷が消えて、服が元通りになり、少女の目が閉じる。そして、夢遊病のように中庭に通じる窓を開けて出て行った。それを見送ると高坂はせいせいした表情で言う。
「約束だ。俺の魂はお前の……」
「そうはいかぬ」
重々しい声がして振り返ると顔まで完全に隠した白い全身鎧に身を包んだ人物が抜身の剣を下げて立っていた。
「ちっ。面倒なのが出て来たね」
高坂の心は伸びきったゴムのように弾力を失っていたが、謎の人物が突然現れたことに驚きの声をあげる。
「だ、誰だ?」
「おじさん。そいつは俗に言う天使ってやつさ。ボクの天敵だよ」
「そなたは天界に昇れるほど清くはないが、さりとて悪魔に食わせるほど汚れてはおらぬ。さあ、私とともに来るのだ」
高坂は天使が伸ばす手から後ずさりする。
「急なことで驚いているのだな。心配することはない。私に身を任せるのだ」
高坂はずりずりと後ずさりして行く。
「嫌だ」
「なに?」
「俺はもう生きたくない。だから、魂はルクルスにやると決めた」
「待て。私の目の前でそれは許さん」
高坂は力ない笑いを見せる。
「もう決めたことだ。死ぬ時ぐらいは好きにさせてくれ。それに、もう俺の願いは叶ったんだ。契約は守られなければならない、だろ?」
被せるようにルクルスは言葉を吐き出す。
「Pacta sunt servanda」
「やめろ!」
鎧を着た天使の言葉が虚しく響き渡る中、高坂の体は消える。真珠のような輝きを帯びた白い玉がルクルスの手の上にあった。油断なく天使に目を向けながらルクルスは手にした玉を口元に運び、赤い舌を出してペロっと舐める。
「美味」
天使は無言で剣を突き出す。ルクルスは背中に背負った剣を抜き応戦するが数合打ち合うと折られてしまった。天使の剣が伸びあと少しでルクルスの喉に届こうというところでルクルスは玉をかざす。
「邪なるものを滅するこの剣……」
「じゃ、この魂は傷つけられないね」
ルクルスは身を翻すと空中にパッと飛び立つ。それと同時に玉を天使に向かって放り投げた。天使は慌てて玉をキャッチし、その間にルクルスは一目散に東京の空に向かって駆けてゆく。
「ふん。今日の所は見逃してやる」
天使がそう言うと天使の手の中の玉は激しく震えるのをやめる。もう少し長く続けば玉が砕けるところだった。玉を鎧の胸のところに収めると天使は空高く上昇していく。
「あーあ。折角のご馳走、食べ損ねちゃった」
ルクルスはそう言いながら、懐から3つの玉を取り出す。灰色から黒色に近い3つの玉を口に放り込んだ。早く息の根を止めてあげる、って楽な条件で手に入れたものだけど、味はイマイチだね。
おじさんはいい味だったけど、ちょっと高級品すぎて口に合わないかな。次に会う時は、もうちょっとだけ汚れててくれると嬉しいんだけど。まあ、無理かな。この女の子の体と記憶から忌まわしいものを消してやってくれだなんて。とんだお人好しだよ。
***
一月ほど経ったある日。ルクルスは弱った魂の気配を嗅ぎつける。ああ、この少年は……、おじさんを窮地に陥れた子じゃないか。ふふ。代わりにボクのお腹を満たしてもらおうじゃないか。ルクルスは郵便受けにメモ書きをそっと忍ばせる。
『見つけたよ』
完
契約の悪魔はかく語る 恐怖の缶コーヒー異聞 新巻へもん @shakesama
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
新巻へもんのチラシのウラに書いとけよ/新巻へもん
★101 エッセイ・ノンフィクション 連載中 259話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます