6話 キムラくんとやまにしくんと芝岡くん
あ、久しぶりにでかい「発作」が来た。と思った。
理学部キャンパスでも2番目に大きい講義室での基礎物理学講義は、本当に本当に行きたくない講義のひとつだ。必修だからいやいや、本当にいやいや行くけれど、僕にとっては100人単位の学生が同じ部屋にいるのは本当に耐えがたいのだ。
だからなるべく講義開始ギリギリに講義室に入り、さも席にあぶれたというような顔で出口付近のパイプ椅子に陣取って、いざ発作が起きたり起きそうになったりしたときにすぐに逃げ出せるようにしている。
今日はまさにその心構えが役に立ってしまった。
きっかけはもう分からない。目の前を通った女子学生のワンピースかもしれないし、隣の席の男子の新品のスニーカーかもしれない。
がた、と唐突に席を立った僕のことを隣の席の男子が変な目で見た気がするけれどもう構っていられなかった。どうせ元から変人扱いだ。傷がつくほどの名誉なんてない。
講義時間中の第一講義棟はがらんとしていて、自分のもつれるような早歩きの足音が妙に耳についた。目の奥ががちかちかとするような錯覚。手が震えているのが分かる。視線が上げられない。太陽の光がまぶしすぎる。呼吸が浅い。耳の奥からは、何かが喚いている。早く。早く。早く。はやく、なにかを、なにを。
あともう少しでトイレだったけれど、もう一歩も歩けなかった。
壁際にずるずるとしゃがみ込んで、手探りでリュックの中を漁る。自分の汚いスニーカーから目を離したら暴発するという予感が恐ろしかった。引っ張り出した雑誌を力任せに破く。表紙の女性の顔が真っ二つに、よっつに、やっつに、もっと、もっと細かくなっていく。
「あの、大丈夫ですか」
これが大丈夫に見えるならお前の目はイカれてるよって言ってやりたかったけれど、あいにく口を開く余裕なんてなくて、出来たのは首が締まっているみたいな呻き声をあげながら頭を横に振ることだけだった。
「保健センターとか行きますか」
とんだ有難迷惑だけれども放っておいてくれとすら言えない。
恐る恐る顔を見やる。
眼鏡の男。野暮ったいトレーナーが悪目立ちする服装といい、とにかく短くしておけばいいとでもいうような髪型といい、ぼくとどっこいどっこいの冴えないやつで、ほんの少しだけ安心した。
「……吐きそう?トイレ行きます?」
鼻から荒く息をして何も言えないでいる僕は確かに吐きそうに見えるんだろうと、思ったけれども丁寧に説明して否定するのも土台無理なのでやっぱりまた首を横に振るしかなかった。
「あ、芝岡くんだぁ」
それは呑気で上っ面は明るくて空っぽで、安堵のあまり泣きたくなるほど耳慣れた声だった。
「あれ、やまにしくん発作?」
返事も出来ないでいると、キムラくんはしゃがみ込んで僕の顔を覗き込んでくる。眩んだ視界に、金髪の明るさが不快な眩しさを伴って揺れた。
首を傾げる仕草に、辛うじて頷く。
「キムラ先輩のお友達ですか」
「やまにしくん、俺と一緒に住んでんの」
「ご病気、ですか」
「うんまあそんな感じ? あ、うつるやつじゃないから。発作がね、時々出るの。しばらくしたら落ち着くから、あんまり心配しなくていいよ」
キムラくんが芝岡くんと呼ばれた彼の問いかけに軽やかに応える。僕のこれをキムラくんが最初に「発作」と称した時、なるほどうまいことを言うと思ったものだった。
最近の社会は病人を大っぴらに蔑めるようにはできていない。
「でもありがとうね、見つけてくれたの芝岡くんで良かった」
「ああ、いや」
何をもってキムラくんが「芝岡くんで良かった」と言っているのか、芝岡くん自身にはわからないだろう。キムラくんは僕の発作が悪化しないのは良いことだと定義しているが、それは芝岡くんが美しいわけではないということと裏表だ。キムラくんはその結論を、僕の発作の程度から導き出す。
本当に、吐き気がするほど嫌な性質だ。
僕が安らいでいるとき、隣にいるひとを僕は美しくないと思っている。
「やまにしくん立てる?」
「立てるは立てるけど、ちょっと、休みたい」
「そっかー、じゃあ空き教室探すね」
キムラくんは僕に肩を貸して立ち上がらせる。
「芝岡くんありがと、またサークルでね」
手を振るキムラくんに合わせて、なんとか会釈する。戸惑ったように会釈を返す芝岡くんの顔を見ても何もこみあげてこないことに、安心と空しさが同時にこみあげてきた。
ひとに肩を貸しているにしては早歩きのキムラくんは、廊下に並ぶ教室のドアを片っ端から覗き込み、人のいない教室のドアを勢い良く開くと僕を椅子に座らせる。
「授業、は?」
「元々5限は空きコマ。サークルの方に顔出そうかなと思ってたんだけど」
「ごめんね」
「……ん? 大丈夫、大丈夫」
妙な間に、「ごめんね」の意味が理解できなかったんだな、と思った。何に対して謝っているのか正確に掴みきれないから、適当にそれらしく誤魔化したのだろう。そういうことはたまにある。
丁寧に説明しても良かったけれど、今はそこまで頭を使っている余裕が無かった。
「あれ、知り合い?」
「芝岡くんはねえ、サークルの後輩」
「ボランティアの方?」
「そうそう」
まあ大人しそうだったし、実態としてほぼ飲みサーである旅行サークルの方ではないだろう。
隣に座ってスマホをいじりながらキムラくんは言う。
その口元が、笑っていた。
「芝岡くん、おいしそうでしょう」
いつものぺらっぺらの儀礼的な笑みとはモノが違う、柔らかい重さのある、そんな微笑み。
その差異を言語化しようとして、どう伝えたってキムラくんがそれを正しく受け止めることは無いと気づく。
「でしょって言われても困るけど。おいしそうなんだ」
「うん、今まで見た人の中で一番おいしそう。サンマの塩焼きみたい」
キムラくんにとって一番美味しいのはサンマの塩焼きなのか。
キムラくんは、これこないだのサークルで撮ったやつ、とスマホのカメラロールをすいすい見せてくる。
サンマが好きなんて初めて聞いた。
不意打ちで撮られたのか、いまいち目線の合っていない芝岡くんに、サンマっぽさを見いだそうとしてすぐに諦める。
キムラくんの感覚が僕にわかるわけがない。僕の言葉が根本的にはひとつも通じないように。
「だから芝岡くんと友達になりたいんだよね」
「一緒に出かける人?」
「そう」
この明瞭な友人の定義が、芝岡くんに共有されることは恐らく無いだろう。
けれどきっとキムラくんは芝岡くんと首尾よく遊びに行き、そしてふたりは先輩後輩だけど友達になる。
キムラくんの中身を、芝岡くんはひとつも知らないままに。
芝岡くんがキムラくんに持つだろう好感も違和感も、キムラくんには一つも伝わらないままに。
そんなことがあった次の週、大学構内で芝岡くんとすれ違った。
僕は無視を決め込もうとしたが、向こうが明らかに僕に気付いたのだ。
普段ならその程度で折れるような僕ではないが、脳裏にキムラくんの、柔らかい笑顔がよぎった。
控えめに会釈を返すと、当然みたいに歩み寄ってくる。
「体調、大丈夫ですか」
「持病だからね、慣れてる」
足元を見て話す僕に、芝岡くんは心配そうにしてくれる。
しかし体調は万全だ。
芝岡くんときちんと目を合わせて話すことで、自分が嫌な奴だと言うことを自覚するのが嫌なだけで。
居心地の悪い沈黙から立ち去ることもできたけれど、何と無しに責任を感じて言葉を探してしまう。
「キムラくん、変な奴でしょ」
「まあ、はい」
芝岡くんの笑いに陰険さが無くてほっとする。
キムラくんのたゆまぬ学習の成果だ。変なやつでも、宇宙人でも、きちんと人間の基準で人間と生きようとしているキムラくんがあからさまに排斥されていないことが嬉しい。
「なんにせよ悪気は無いからさ、出来る範囲で仲良くしてくれたら、助かる」
「はは、やまにしさんはお友達なんですよね?」
「キムラくんも言ってたでしょ、一緒に住んでるの」
キムラくんの定義において僕は友達ではない。キムラくんにとって友達とは「一緒に出かける人」だ。
僕が断言すると、芝岡くんが言い淀む。目の端で窺った表情は、あの日のキムラくんに近い柔らかさを持つ苦笑だった。
「なに」
「いや、なんか、保護者みたいだなと思って」
じゃあ、と僕が責任者だった会話からあっさり芝岡くんは離脱して、会釈ひとつ残して歩き去っていく。
保護者気取りか、僕は。
何考えてるのかなんてひとつも分かりはしないくせに。
「やだなあ……」
自己嫌悪で座り込みたい気分だったが、どうにか踏ん張って僕も歩き出す。
道端で蹲ったらまた親切な人を心配させてしまうので。
キムラくんとやまにしくん ギヨラリョーコ @sengoku00dr
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