第2話 優香と綾

「日向優香さん。僕と付き合ってください」

 新緑が芽吹き、爽やかな風の吹く空の下。

 私、日向優香は、今年に入って三回目になる告白を受けていた。

「えっと、気持ちは嬉しいんだけど、ごめんなさい」

 人通りのほとんどない校舎の裏。色を失ったモノクロの世界の中。

 目の前にいるのは、名前も知らない男子生徒。私は前もって用意しておいた返答を、そのままなぞって口に出す。

「そう、だよね。名前も顔も知らない奴に告白されても、迷惑だよね」

 彼にとっては、勇気を出した精一杯の告白だったのだろう。まだ大して気温は熱くもないのに、額には汗をかいていて、耳は赤く染まっていた。

「ううん、迷惑ってことじゃないの。私を好きになってくれたのは、嬉しいなって思う」

 これは私の、心からの本音だ。私みたいなのを好きになってくれて、告白までしてくれて。でも、私はそれに応えられない。

「私はただ、そういうことを誰ともするつもりがないってだけだから」

 そう。私は交際というものをするつもりは、今のところ全くない。だから私は誰に告白されようと、はなから付き合うつもりはない。ただそれだけの話だった。

「そっか。うん。わかった。返事をくれてありがとう。こっちこそごめん。急に呼び出しちゃって」

 ついさっきフラれたばかりだというのに、それでも目の前の彼は精一杯紳士的に努めてくれている。私は、その姿が過去の残像と重なって見えた。どうしようもなく恋に真剣だった、あの頃の自分。私は胸がズキズキと痛んだ。

「あの、こんなこと、私が言えた立場じゃないけど。本当に、気にしないでね」

 本当に、どの口が言えるのだろうか。けれど、私は彼につらい思いをしてほしくなくて、慰めの言葉を紡ぐ。

「うーん……。それはちょっと、難しいかもしれないなあ」

 彼は短い黒髪の生えた頭を、苦笑交じりに掻いている。それもそうだろう。勇気を出して告白までした恋を、気にするなと言うのだから。それを言ったのがフった本人なのだからなおさらだ。私はますます胸を痛める。

「だよ、ね……」

 私は思わず、声のトーンを落としてしまう。

「ああ、ごめん! 別に日向さんを傷つけるつもりで言ったんじゃないんだ!」

 彼は私の様子から察したようで、慌てて訂正する。その気遣いも、私にとっては少しつらい。

「その、誰かを好きになったのなんて初めてでさ。僕にとっては、これが初めての恋だったんだよ」

 どこか照れを滲ませた声で、彼は言う。

「初めての、恋」

その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中には、ある一つの光景が浮かんでいた。それは私がかつて大切にしていた、小さな恋の走馬灯。掘り出された枯れ花色の思い出は、私の心をえぐって、胸の内側で鈍い痛みを放つ。私は痛みと不快感に、顔をしかめた。

「だから僕は忘れないってだけなんだよ。日向さんの気にすることじゃ」

「でも! ……でもそれじゃあ、あなたが報われない」

 私はつい感情があふれ出て、彼の言葉を遮った。だって、だってそんなの、あまりにも悲しすぎる。彼にとっては、きらきらと輝く宝石のような、大切な初恋だったのに。それを私は奪った。私が彼の思いに答えればいい話なのかもしれないが、それは無理な話だ。私は彼に、何もしてあげることが出来ない。心が悲しみに浸された私は、涙が出そうになってしまう。

 彼は私の反応が意外だったのか、キョトンとした目をこちらに向ける。そして、やわらかく笑った。

「日向さんは、優しいね」

「え?」

 彼の口から出た予想外の言葉に、私は口を開けて固まった。

「でも、報われないっていうのは、ちょっと違うかも。僕にとっては、だけど」

「それは」

 どういうことなんだろう。私が優しい? 報われないとは、違う? 私の頭の中は疑問符で満たされて、言葉の通り道を塞いでしまう。

 私が混乱していると、耳触りのいい鐘の音が辺りに響き渡った。授業開始五分前を知らせるチャイムの音だ。しかし私はそんなものに気を取られている場合ではなかった。

「ああ、もう戻らなくちゃ。とにかく日向さん、今日はありがとう。それじゃあ」

 いっそ、彼に聞いてみたらどうだろうか。いや、でもそれは……

「え、あ、うん。それじゃあね」

 思考がぐちゃぐちゃになっていた私は、返事をして少し経ってから彼に言葉の意味を聞くチャンスを逃したことに気づいた。しまった。

「あのっ……!」

 私は彼を呼び止めようとするが、彼は既に小走りに校舎の角を曲がっていくところだった。やってしまった。私はため息を一つついて、スカートの端をくしゃりと握りしめる。手の中で握りしめられたスカートは、それでも心地よい感触を返してきた。

「やさしい、か」

 私は彼の言葉を、今一度口に出して繰り返す。

 私が優しいわけがない。私はただ、自分がこれ以上傷つくことがないように、歯触りのいい言葉を並べているだけだ。それなのに。後悔、自責、恐怖。私の胸の内で、様々な感情が渦巻いて止まらない。私はどうしようもなく感情をこぼして、小さく言葉を漏らした。

「私は……、私は、優しくなんて、ないよ」

 そんな私の言葉は誰にも届くことは無く、宙に漂って消えた。




 それから少し時間が経って、お昼後の休み時間。先生からプリントを運ぶように言われた私は、あまりの量に少しふらつきながらどうにか運ぶ。先生から手伝うかと聞かれたけど、断った。今はとにかく一人で黙々と作業をしていたい気分だった。とはいえ少し無理をし過ぎたのだろう。

「あっ」

 私は曲がり角でふらついた拍子に、持っていたプリントを落としてしまった。

 慌てて私はそれに追いついて拾い始める。

 すると。

「日向さん」

 聞きなれた声が、すぐそばから聞こえる。私が声のする方向を見ると、栗色の長髪をした綺麗な女の子がそこにいた。彼女が視界に映った途端、今まで色を失っていた世界は、じわりじわりと色づいていく。

「天峰さん。こんにちは」

「こんにちは、大丈夫?」

 天峰さんはガーベラのような笑みを浮かべて、床のプリントに手を伸ばした。

「悪いよ」

「いいのよ、二人のほうが早いでしょ?」

 悪いのはプリントを落とした私なのに、天峰さんは手伝ってくれる。さっきのことと相まって罪悪感で心が満たされそうになった私は、それを謝罪の言葉として吐き出した。

「ごめんね」

 それから私はプリントを拾いつつ、天峰さんの方をちらりと見る。天峰さんは綺麗な所作でプリントを拾い集めていく。頭もいい天峰さんだったら、あの言葉の意味がわかるんだろうか。そんなことを考えていると、全てのプリントを回収し終えていた。

「天峰さん、本当にごめんね」

 プリントをまとめた私は、改めて天峰さんに謝罪する。けれど天峰さんは、首を横に振って言う。

「困ったときはお互い様よ」

 天峰さんは本当にいい人だ。それに比べて、私は。私の胸の内側は、またしてもチクチクと痛んだ。

「なら、今度天峰さんが困ったときは、私が助けるね」

 私には大したことはできないが、雑用くらいなら出来るだろう。天峰さんは、雑用なんて必要ないかもしれないけど。でも、きっと天峰さんは別の意味で私が必要になるだろう。

「ええ、お願いするわ」

 天峰さんは先ほどよりも光の増した笑顔で返した。

「じゃあ、また後でね」

 私はプリントを今度は落とさないようしっかり抱えて、天峰さんに別れを告げる。そして私が教室へと向かおうとした、その時だった。そっと、制服の裾を引っ張られた。引っ張られた方向に私は目をやる。そこにいたのは、頬を少し赤く染めた、天峰さんの姿だった。

「……? 天峰さん?」

 私はまだ何か用があるのかと思ったが、天峰さんの瞳、その奥にあるものを見て、すぐに自分の勘違いだと気づいた。たくさんの色を含んだ、まるで虹のような鮮やかな光。それはかつて私も持っており、そして失ったものでもあった。

「えっと、あの、きょ、今日はクッキーを用意しているから」

 天峰さんは露骨に視線をそらしながら、慌てて言葉を絞り出していた。きっと天峰さんは、私と少しでも長くいようと思ってそんなことを言ったのだろう。天峰さんは気づかれていないと思っているんだろうけど、私には簡単にわかってしまう。だって、私も同じことをしたことがあったから。同じ想いを持っていたから、私の目には見えてしまう。天峰さんの奥に秘められた、花束のような想い。きっと私が想いに答えれば、天峰さんとそういった関係になるのは難しいことではないだろう。だから私はほんのわずかな間目を閉じると、息を吸って口を開く。私はーー

「クッキーかあ。楽しみにしてるね」

 --私は天峰さんの想いをわかっていながら、それでも目をそらす。天峰さんの想いにも、私は応えることが出来ない。私の胸は罰だと言わんばかりに、ナイフでえぐられたかのような強い痛みを放っている。それは当然の報いだった。

 だって私は  な人のそばに、居心地のいいその場所に居続けるために、その人の想いから目をそらしているのだから。こんな私の、どこが優しいというんだろうか。

 私が胸の痛みをこらえていると、チャイムの音が校内に響き渡った。

「わっ、もういかないと。天峰さん、また後でね」

「ええ、また後で」

 私は急ぐ気持ち半分、罪悪感からのここを離れたい気持ち半分で天峰さんに別れを告げる。天峰さんはいつもの笑顔で、返してくれた。私は天峰さんに背を向けて、教室に戻る人波の中に飛び込んだ。私の視界は再び、白黒へと戻っていく。

「また後で、か」

 私はその言葉を、誰にも聞こえないような小さな声で繰り返す。また後で。日常の中で使われる。なんでもない言葉。後何度、私と天峰さんはこの言葉を交わすことが出来るだろう。もし、もし天峰さんが一歩踏み出す時が来たら。その時、私は。胸の痛みを引きずりながら、私は廊下を歩いていく。歩みが少し重いのは、きっと気のせいではないだろう。

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