その感情をひとかけら

相葉ミト

紅い部屋

 つん、と寒風が鼻をつく。ガサガサと紙袋が揺れる。反射的にきつく握りしめた平たい持ち手が手のひらに食い込んで痛い。なんとなく風が吹いてきた方向を見る。申し訳程度の遊具と木を詰め込んだ猫のひたいのように狭い団地の公園が、コンクリートの壁越しに寒々しい姿をさらしていた。紅葉は半ば散り、雪の気配も漂っている。私は先輩の部屋の前で、予定している行動に必要なもの全てが揃っていることを確認する。大丈夫だ。全部ある。アパートの階段を余計に往復しなくていいことに私はホッとする。紙袋の中身も大丈夫だ。私には興味のひとかけらもないものだから、間違ったものを買ってしまうことが一番怖かった。手元の携帯端末の先輩からもらった画像と、紙袋の中の物が同じ文字、画像、色彩で構成されていることを再確認。あとは、先輩次第。

 部屋に向き直って扉をノックする。無言がかえってきた。この時間に訪問すると前もって先輩には伝えてある。何もなければノックだけで開けてくれる。何もなければ。

 期待に思わず口元がゆるむ。あわてて私は真一文字に口を引き結ぶ。駄目だ。あくまでも先輩が食べきれなかった柿を引き取りに来ただけの後輩を演じなければ。められたものじゃない独特な季節の風物詩ふうぶつしを目当てにやってきたと知ったら、先輩は私を気味悪く思う。いくら口に出せない欲望を秘めていたって、私にもそれくらいの想像力と配慮はある。それがなければ、私と先輩の関係なんてとっくに壊れてしまっただろう。


「せーんぱーい?」


 チャイムを鳴らす。返答はない。


「先輩、開けますよ」


 返事を待たず、合鍵を使う。玄関に足を踏み入れた刹那せつな、血を浴びせられたような赤が私の視界一杯に広がる。夕暮れ前のこの時間、西向きの部屋は異界のように燃え上がる。夜に追いやられる太陽の最後の足掻あがきが、おぞましいほどに先輩の部屋を染め上げる。暴力的で美しい光景だ。

 目が緋色ひいろの空間に順応し、五感が戻ってくる。鉄の生臭い匂いが鼻をつく。家具の少ない部屋の中央で、人間が一人うずくまっている。逆光に黒くりつぶされ、表情はうかがえない。彼女の周りには案の定、くだけたプラスチックが散らばっている。折れた翼に無残むざんに引きちぎられた機体。キラキラと夕日を透明に反射しているのはキャノピーの残骸ざんがいか。残虐ざんぎゃくに扱われたモノの最期の無念か、窮鼠きゅうそ猫をむとでもいったところか、どうやら破壊行動の時にどこか切ったらしく、点々と白茶けたフローリングに赤黒い水玉が落ちている。


「やっぱりやらかしましたか、先輩」


上ずりそうな声を必死にあやつって、呆れ果てたという感情だけが先輩に伝わるようにする。のそり、と億劫そうに人影が私を向く。はらりと落ちた髪の隙間から、きらりと目元に光るものが見えたのは錯覚さっかくか現実か。私は先輩に歩み寄る。先輩の横にひざをついたとき、先輩は「うう」とうめいた。


「限定版なら壊さないかと思ってた……のに」

「結局、お金溶かしただけですか」


 先輩には奇癖きへきがある。

 先輩は女性モデラーだ。プラモデルを作るという趣味は女性という属性を踏まえると、今の日本では充分に希少きしょうな人間だが、それ以上に先輩を特異とくいな存在にしている行動がある。

 先輩は、先輩の好きなアニメに出てくる架空機かくうきのプラモデルを買ってきては3カ月に一回壊す。

 その理由として、「人殺しの道具のまがい物を部屋に置いておくような人間であることに耐えられない」とのたまうが、一週間後には自分の手で丁寧に組み上げ塗装もされた同じ模型が部屋の隅に鎮座している。理由をたづねると「こいつのいない部屋なんて無味乾燥むみかんそうだ」と言い訳する。そしてほぼ一定の期間が過ぎると壊す。そしてまた丁寧に作る。しかも、人殺しの道具が嫌いなのかといえばそうでもない。他の軍艦や軍用機、軍用ロボットといったプラモデルも先輩の部屋にはある。なのに、破壊の対象になるのは架空機だけだ。最近は架空機のプラモデル代がかさんでいくつか売り払ったらしい。

 エッチングパーツという金属部品まで使い精巧せいこうに組み上げた物だったからネットオークションで高く売れたと先輩が自慢していたあの日が脳裏のうりに浮かぶ。まだ残暑が居座っていたころだ。私は部室で特注のグラスアイを自己最高傑作の人形の眼窩がんかめ込んでいた。あの部屋は二人だけの空間ではなかったことも浮かび上がってきて私は苦々しく思う。そのお金もどうせ壊すのだろうと諦め切った声で先輩に言い放った部長。あの男。

 思い出したくもない男の顔を、先輩の顔をのぞき込んで上書きする。化粧けしょうもしていないのにうつくしい顔に魅入られて、動くことさえ忘れてしまいそうだ。いつまでもこの顔を眺めていたいという衝動が腹の底から湧き上がる。駄目だ。先輩は人形じゃない。先輩は自分を縛るものすべてが嫌いだ。しがらみとして認識されないよう自然に動かなければ。もし私がメドゥーサと目を合わせて石になったかのように動きを止めてしまったら、先輩は私を怪しむ。呆れと心配の仮面で表情を覆いつくして、いかにも模範的な先輩想いの後輩を演じる。

 千々に乱れた前髪の下、三日月のような形のいい眉。霞むように長い睫毛まつげの奥、二重の切れ長の目尻からは、たらりときらめく後悔の跡。興奮して上気し、影の中でもわかるほど色づいた色素の薄い肌。酒井田柿右衛門さかいだかきえもんは夕日に映える柿を見て有田焼の赤絵を思いついたというお話があるけれど、先輩の肌は柿というより林檎りんごだ。いやむしろ、白磁はくじのような肌に血が薄められた、白桃はくとうの甘やかにれた色。桜桃おうとうのようにつややかな甚三紅じんざもみくちびるが子供のようにへの字に曲がる。

 どうやったらこの調和を永遠にできるのだろうか。そう思ったから、私は模型部の門を叩き、人形を作り始めた。それなのにどれほど粘土をこねくり回そうと、どれほど形をなぞろうと、出来上がるのは先輩には似ても似つかぬ木偶でぐばかり。先輩は人形じゃない。きっと、先輩自身でなければならない何かがあるはずなのだ。


「日本経済を回してるんだからめて欲しいよ」

「日本経済を回すために壊してるんですか」

「壊したくなんかない……好きだから」

「でもやっちゃったものは仕方ないでしょう。手、出してください。ピンセットあります?」

「そこの引き出し……二段目」


私はピンセットを取り出し、先輩の指からプラスチックのかけらを取り除く。血まみれであることを除けば、白魚しらうおのようにほっそりと透明でもなければ枯れ木のように節くれだってもいない、普通の指だ。それでも、私の好きな形だ。私が傷口にピンセットを当てるたびに、先輩は「ひぐっ」と小さく震える。愛しさと苛虐かぎゃく心を的確にくすぐる反射。ピンセットで傷口をえぐれば先輩はどんな声を出すのだろうか。きっと可愛らしいだろう。必死に衝動を押さえつける。まだ、私はただの後輩でいなくてはならない。そうしないと先輩に楔を打ちこめない。


「あーもったいない。ズタズタじゃないですか」


裂けた皮膚から破片を取り除くたび、紅の血と薄紅の肉が露出する。白妙の肌との紅白の組み合わせで、痛々しさよりも婀娜あだやかさの方が強い。思わず舌を走らせそうになる。劣情を悟られないよう、私は機械的にピンセットを動かす。


「……捨てるしかないよね、限定版でも、こうなっちゃったら」


待ち望んでいた言葉が不意にわたしの耳朶じだに触れる。ずたずただと言ったのは先輩の指のことです。架空機なんかじゃないです、と訂正したくなったが、ここで流れを掴まなくては。私は用意していた台詞をできるだけ平静に唱える。


「引き取りますよ」


「でも、バラバラだし血が付いちゃってるし」

「これと交換、じゃダメですか?」


私はピンセットを置き、紙袋から箱を取り出す。息を飲む音が私の鼓膜を揺らす。予想外の存在に先輩の瞳が蠱惑こわく的に揺れる。

 どうして。どうしてそんな欲望と憧憬と罪悪感の綯い交ぜになった眼差しをそれに向けるの。胸の奥から業火のようなものが胸椎伝いに喉元へこみ上げる。まだ。まだ大人しくしておくの。嫉妬を隠して先輩を見上げる。ぴく、ぴくと微かに先輩の口角が羽化したばかりの蝉の羽根のような不器用な透明さでおののいている。


「なんで、限定版を……」


先輩の反応は予想以上だった。だが問題はない。私はあえて突き放した口調を作る。


「改めて限定版と聞くと、やっぱりあげちゃうのは惜しくなってきました」

「だよ、ね。季節の変わり目にプラモぶち壊す人なんかより、物を大切にする人が持ってる方がいいよ」

「だけど、私の部屋、人形が多すぎるから置けないんです。だから」


――預かっていてもらえませんか。先輩のことです。後輩からの預かりものは壊しませんよね?


 そう。

 先輩は、なぜかは分からないが架空機に対して凄まじい感情を向けている。先輩は私に部屋の合鍵を渡すほど気を許しているが、信頼以上は勝ち取れなかった。

 架空機を見るたびに、先輩は私を思い出すことになる――この相乗りだけが、私にできる全てだ。吐き気がする。架空機を壊したいのは私だ。でも、架空機が無ければ先輩の内側には行けない。

 どんな声で、どんな表情で私は言ったのだろうか。正気に戻った時、先輩は怯えた表情で「わかった」といっていた。

 随分重くなった紙袋を持って、私は先輩の家を出る。柿の甘い香りがふわりと漂う。紙袋の中には柿がみっしりと詰まっている。そして、柿の上におかれたビニール袋。中身は赤にまみれたプラスチック片。本当に欲しかったもの。

 先輩に見られる心配がないから笑顔を隠さずカン、カン、と金属質な音を立てて階段を下る。夕陽から逃げるかのように東に向かって団地を抜け出し、バイパス沿いの歩道に出て一度立ち止まる。ここなら、もう見えない。まだ帰宅ラッシュには早い時間帯のせいか、不規則に車が通り過ぎては私の髪を冷たくもてあそんで去っていく。

 風がやんだ間にビニール袋を開いて親指の爪ほどの破片を手に取る。元々なんだったのかは分からない。茶色く酸化した血がべったりと付いている。私はそれを口に放り込み、飴玉のように転がす。鉄臭くてしょっぱい先輩の味。それに混じる不自然な苦味。シンナーなのか顔料なのか。口にすべきものではないと本能が警鐘けいしょうを打ち鳴らす。無視して舐める。ちく、と舌の上に鋭い熱さ。一瞬遅れてじわりと広がる塩気。

 反射的にぺっと口の中身を吐き出す。唾の糸を引いてプラスチックの破片が車道に落ちる。ぶん、と通り過ぎていった車が小さな水たまりごと汚らしいそれを踏みつけて砕き、先輩が愛憎両方をぶつけた物体の一部は、永遠に失われた。車の置き土産の風が私の髪を揺らす。揺れた毛先をなんとなく目で追うと、藍色の空に今にも溶けそうな三日月が浮かんでいた。つっ、とプラスチックで切った傷に唾液が染みる。私は舌を縮めて傷口を圧迫。舌の動きで唾が喉の奥に追いやられる。先輩の鉄臭さと私の塩気と明らかに不自然な苦味が渾然一体となった奇妙な酩酊感。先輩と私が一体になった感覚。しつこく残る石油の味が邪魔だ。


「本当に……むかつく」


 私のひとり言は寒風にさらわれ、三日月の張り付いた夜空に消えていった。

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その感情をひとかけら 相葉ミト @aonekoumiha

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