その感情をひとかけら
相葉ミト
紅い部屋
つん、と寒風が鼻をつく。ガサガサと紙袋が揺れる。反射的にきつく握りしめた平たい持ち手が手のひらに食い込んで痛い。なんとなく風が吹いてきた方向を見る。申し訳程度の遊具と木を詰め込んだ猫の
部屋に向き直って扉をノックする。無言がかえってきた。この時間に訪問すると前もって先輩には伝えてある。何もなければノックだけで開けてくれる。何もなければ。
期待に思わず口元がゆるむ。
「せーんぱーい?」
チャイムを鳴らす。返答はない。
「先輩、開けますよ」
返事を待たず、合鍵を使う。玄関に足を踏み入れた
目が
「やっぱりやらかしましたか、先輩」
上ずりそうな声を必死に
「限定版なら壊さないかと思ってた……のに」
「結局、お金溶かしただけですか」
先輩には
先輩は女性モデラーだ。プラモデルを作るという趣味は女性という属性を踏まえると、今の日本では充分に
先輩は、先輩の好きなアニメに出てくる
その理由として、「人殺しの道具の
エッチングパーツという金属部品まで使い
思い出したくもない男の顔を、先輩の顔を
千々に乱れた前髪の下、三日月のような形のいい眉。霞むように長い
どうやったらこの調和を永遠にできるのだろうか。そう思ったから、私は模型部の門を叩き、人形を作り始めた。それなのにどれほど粘土をこねくり回そうと、どれほど形をなぞろうと、出来上がるのは先輩には似ても似つかぬ
「日本経済を回してるんだから
「日本経済を回すために壊してるんですか」
「壊したくなんかない……好きだから」
「でもやっちゃったものは仕方ないでしょう。手、出してください。ピンセットあります?」
「そこの引き出し……二段目」
私はピンセットを取り出し、先輩の指からプラスチックのかけらを取り除く。血まみれであることを除けば、
「あーもったいない。ズタズタじゃないですか」
裂けた皮膚から破片を取り除くたび、紅の血と薄紅の肉が露出する。白妙の肌との紅白の組み合わせで、痛々しさよりも
「……捨てるしかないよね、限定版でも、こうなっちゃったら」
待ち望んでいた言葉が不意にわたしの
「引き取りますよ」
「でも、バラバラだし血が付いちゃってるし」
「これと交換、じゃダメですか?」
私はピンセットを置き、紙袋から箱を取り出す。息を飲む音が私の鼓膜を揺らす。予想外の存在に先輩の瞳が
どうして。どうしてそんな欲望と憧憬と罪悪感の綯い交ぜになった眼差しをそれに向けるの。胸の奥から業火のようなものが胸椎伝いに喉元へこみ上げる。まだ。まだ大人しくしておくの。嫉妬を隠して先輩を見上げる。ぴく、ぴくと微かに先輩の口角が羽化したばかりの蝉の羽根のような不器用な透明さでおののいている。
「なんで、限定版を……」
先輩の反応は予想以上だった。だが問題はない。私はあえて突き放した口調を作る。
「改めて限定版と聞くと、やっぱりあげちゃうのは惜しくなってきました」
「だよ、ね。季節の変わり目にプラモぶち壊す人なんかより、物を大切にする人が持ってる方がいいよ」
「だけど、私の部屋、人形が多すぎるから置けないんです。だから」
――預かっていてもらえませんか。先輩のことです。後輩からの預かりものは壊しませんよね?
そう。
先輩は、なぜかは分からないが架空機に対して凄まじい感情を向けている。先輩は私に部屋の合鍵を渡すほど気を許しているが、信頼以上は勝ち取れなかった。
架空機を見るたびに、先輩は私を思い出すことになる――この相乗りだけが、私にできる全てだ。吐き気がする。架空機を壊したいのは私だ。でも、架空機が無ければ先輩の内側には行けない。
どんな声で、どんな表情で私は言ったのだろうか。正気に戻った時、先輩は怯えた表情で「わかった」といっていた。
随分重くなった紙袋を持って、私は先輩の家を出る。柿の甘い香りがふわりと漂う。紙袋の中には柿がみっしりと詰まっている。そして、柿の上におかれたビニール袋。中身は赤にまみれたプラスチック片。本当に欲しかったもの。
先輩に見られる心配がないから笑顔を隠さずカン、カン、と金属質な音を立てて階段を下る。夕陽から逃げるかのように東に向かって団地を抜け出し、バイパス沿いの歩道に出て一度立ち止まる。ここなら、もう見えない。まだ帰宅ラッシュには早い時間帯のせいか、不規則に車が通り過ぎては私の髪を冷たくもてあそんで去っていく。
風がやんだ間にビニール袋を開いて親指の爪ほどの破片を手に取る。元々なんだったのかは分からない。茶色く酸化した血がべったりと付いている。私はそれを口に放り込み、飴玉のように転がす。鉄臭くてしょっぱい先輩の味。それに混じる不自然な苦味。シンナーなのか顔料なのか。口にすべきものではないと本能が
反射的にぺっと口の中身を吐き出す。唾の糸を引いてプラスチックの破片が車道に落ちる。ぶん、と通り過ぎていった車が小さな水たまりごと汚らしいそれを踏みつけて砕き、先輩が愛憎両方をぶつけた物体の一部は、永遠に失われた。車の置き土産の風が私の髪を揺らす。揺れた毛先をなんとなく目で追うと、藍色の空に今にも溶けそうな三日月が浮かんでいた。つっ、とプラスチックで切った傷に唾液が染みる。私は舌を縮めて傷口を圧迫。舌の動きで唾が喉の奥に追いやられる。先輩の鉄臭さと私の塩気と明らかに不自然な苦味が渾然一体となった奇妙な酩酊感。先輩と私が一体になった感覚。しつこく残る石油の味が邪魔だ。
「本当に……むかつく」
私のひとり言は寒風に
その感情をひとかけら 相葉ミト @aonekoumiha
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