平井、お前は誰よりも

えーこ

 俺にとって、その生徒は恐ろしく厄介だった。

 そいつの何がそう思わせたのかと問われると、説明がしづらい。いや、言うだけなら簡単なのだ。しかしそれを口にすることで、俺の人間性が問われてしまう。仮にも生徒のために孤軍奮闘すべき一教師として、それは決して口にしてはいけない。少なくとも俺はそう思っている。だから一教師として胸の内でひっそりと吐き捨てるのだ。「頼むから大人しくしていてくれ。お前は他の人とは違うのだから」と。

「宮田先生はいらっしゃいますか」

 昼休みに入ってすぐ、担当クラスの生徒が俺の元へやってきた。朝にコンビニで買っておいたパンの袋を破いたばかりだったから、口の中で舌を鳴らした。椅子から立ち上がり、笑顔を作ってその生徒が立つ扉の前まで向かう。

「どうした?」

「先生。あの、先生にお願いしたいことがあるんです」

「お願い?」

「はい」

 生徒は顎を引き、目を伏せた。瞼の奥の瞳を左右に動かし、落ち着きがない。どうやらその『お願い』を口にすることに躊躇いがあるらしい。まったく面倒な奴だ。

 この生徒はクラスの学級委員ではなかったか。名前は岡本だ。背が高く、目鼻立ちがよい。明るく活発的で、野球部のエースもつとめている。クラスでは良い面で目立つ存在だ。それがどうしたこのざまは。

 俺は鼻で息を吐いた。「言ってみろ」

 目の前の男子生徒が小さく肩を揺らした。それからすぐに顔を上げた。何か重大なことを決心したように眉根を寄せ、表情を鋭くした。それで俺も真剣な表情を作った。一体何を言い出すのか、と少し緊張し始めていた。

 生徒はすうっと小さく息を吸ってから口を開いた。「席替えをしてください」

「はあ? 席替え?」

 思わず間抜けな声を上げた。身体中から力が抜けそうになるのを堪えた。何だそりゃ。そんなことで言い淀んでいたのか。

 俺は右のこめかみを二、三度掻いた。

「席替えは月一だとクラスで決めただろ。まだ二週間も経っていない」

「で、でも、先生っ」岡本は声を大きくした。「仕方ないじゃないですかっ。平井君が──」

「平井?」

 俺は表情を歪めた。耳に飛び込んできた名前に胸騒ぎを覚える。「平井がなんだ。どうした」

「……平井君が……なんか、その、こっちを見てくるから」

 ああ、畜生。嫌な予感が当たってしまった──右手で額を抑えた。うーん、と唸り、そのままの姿勢で岡本を見つめた。

「平井が見てくるから、なんだ」

 本当は訊きたくもないことを口にした。岡本はどう返してくるだろうか。きっと言葉を選ぶのに苦労するだろう。

「ええっと……」

 案の定、そいつは言葉につまった。瞳を左右に動かし、唇を噛んだ。

 俺は少し苛々していた。面倒事を持ってきやがって、という気持ちが半分。さっさと言えよという気持ちがまた半分。

 しばらくして、ようやく岡本が口を開いた。「だって……平井君、その……男が好きじゃないですか」

 ずいぶんストレートに言ってきた。遠回しにちらつかせるよりありがたい。教師としての答え方をしておけばよいのだから。

 俺はわざとらしく息を吐いた。

「お前なあ、平井が男を好きだからなんだ。つまり、お前は『平井君が俺を見てくる。俺を好きなのかもしれない』と思ったから席替えをしてほしいのか」

 岡本は何も答えなかった。代わりに、控え目に首を立てに動かした。俺は自分の髪をがしがしと掻いた。

「そんなことを考えるものじゃない。それが平井じゃなく、特に興味もない女子だったらどうだ? 同じことだろ」

「でも……」

「でも、じゃない」岡本の声を俺は遮った。「もちろん、お前が悪いとは言わないし、責めたりもしない。ただ、理解はしてやれ。そして決めつけでものをいうな。平井はただ単に窓の外を見ているだけかもしれないだろ」

 岡本の席は後ろから二列目の窓際だ。

「……わかりました」

 納得いっていないが、諦めたような口調で岡本は答えた。声が小さい。いつもの元気はどこへいったのか。

 失礼しました、と暗い声で呟き、彼は教員室を後にした。

 生徒が去った扉をしばらく見つめてから、俺はあからさまなため息を吐いた。その息が重たいのは、今の俺自身の心の現れだろうか。

「平井の野郎……面倒くせえな」

 担当クラスの生徒の、落ち着きのある表情を脳裏によぎらせ、また深く吐息した。


「僕は男が好きです」

 平井遼太郎と名乗った直後、そいつは何の迷いも躊躇いもなくそういった。

 教室の空気が固まった。誰もが息を止めたような気がした。少なくとも俺は、教壇に立ったまま、確かに数秒呼吸を忘れていた。

「好きな音楽は色々ありますが……そうですね、社会風刺をテーマにしたものが好きです。歌詞を重視するタイプなので。ラブソングなんかも聴きますけど、ただイチャイチャしているだけの曲は嫌いです」

 すらすらとよく動く唇は、無遠慮な言葉を述べ続けた。顔立ちはまあ中の上ぐらいか。幅の狭い二重瞼と通った鼻筋は、男らしさを感じさせた。だが細身で背もあまり高くない。かけている黒縁眼鏡のおかげでどこかインテリの様相を漂わせている。その見た目は少々控え目な性格を俺に想像させたが、意外とはっきり物をいうタイプらしい。

 よろしくお願いします、とその生徒が締めくくったところで、俺はようやく意識を引き戻した。はっとして、数秒ぶりの呼吸を再開した。

「あ……あ、ああ、よろしく。うん、よろしく」

 間の抜けたような声だった。だがその時の俺には、それを絞り出すので精一杯だった。

 落ち着け。セクシャルマイノリティと言われていたはずの平井のような人間は、このご時世ではもう普通だ。ただ自分の目の前に現れたのが初めてなだけで──そして、こんな風に自ら堂々と公表してしまうのが意外だっただけで。

「じゃあ次──」

 気を取り直すべく、俺は自己紹介の続きを促した。平井の後ろに座る生徒が慌てて立ち上がった。男子生徒だ。彼は平然と前を向いている平井の頭を見つめながら名乗った。

 が、その時だった。

「どんな男がタイプなわけ?」

 最前列の扉側の席からだった。俺はさっと血の気が引いていくのを感じ、そちらを向いた。

 声の主は、一人の男子生徒だった。髪色は校則違反の明るいブラウンで、ブレザーの下も規定のワイシャツではなく、どこかのロックバンドのライブTシャツだ。見覚えのあるロゴが前面に窺えた。

 自己紹介を終えていないから、まだ誰もそいつの名前を覚えていない。その生徒は背中を椅子の背もたれに預け、尻を滑らせただらしのない体勢でにやにやと平井を見ていた。

「平井君のタイプから外れとかねえとやばいからさ」

 そいつはいった。教室の空気が一瞬で凍りついた。その発言はタブーだろ、と誰もが思っただろう。

 どこの世界にも一人や二人いるのだ。デリカシーの欠片もない人間というのは。それがまだ幼い子供であるならば、残酷だがまあ仕方がないかと思えないこともない。だが彼はもう高校一年生だ。物事の善悪やある程度の配慮なんてものは、身に付けておいて然るべきなのだ。

 このクソガキが──俺は腹の底で悪態を吐いた。そうして、叱咤のひとつでもくれてやるべく口を開こうとした。

「そうだね」

 その声が聞こえたのは、俺が声を発しようとした、まさにそのときだった。

「好みのタイプと訊かれると迷うけど……少なくとも君には興味ないから、安心していいよ」

 にこりともせず、平井がいった。彼をからかった男子生徒は言葉に詰まり、表情を歪めた。やがてふいっと顔を背けた。うぜえ、と小さくぼやく声が俺の耳に届いた。

 面倒くせえ──腹の底で生まれた言葉が昇ってきた。口の中がむずむずして、今にも吐き出してしまいたかった。

 しかしそんなわけにもいかない。教師という立場上、この状況を「面倒」の一言で切り捨てることができない。それがやはり面倒くさい。

 平井遼太郎という男が、どうしてよりにもよって俺のクラスなんだ──これから先の一年間を想像すると気が滅入る。俺はやはり、大きなため息を吐くことしかできなかった。



 教科書に記載されている内容をつらつらと読み、『例題1』と記載された問題を生徒たちに解かせていた。時間は一応五分与えている。生物の遺伝問題だ。

 教室には、かりかりとペンを滑らせる音がいくつも重なっていた。ざっと室内を見渡すと、ほとんどの生徒は教科書とノートに視線を交互に移し、忙しく問題を解いていた。が、中には何やら考え込む仕草をしたり、解き終えたのか暇そうにペン先を机に何度も落としたりしている者もいた。約一名、最前列の端っこで堂々と机に突っ伏して眠っている奴もいるが、まあ気にしない。いつものことだ。あとで呼び出してたっぷり絞ってやることにする。

 それよりも──

 俺は視線をある男に向けた。そいつは既に問題を解き終えているのか、ペンを置き、窓側の方へと視線を向けていた。

 隣の岡本が、落ち着きなく瞳を動かしているのが見えた。どうやらまだ平井の視線を気にしているらしい。

 うーん、と俺は胸の内で首を捻った。状況をどう判断すべきか悩んでいた。

 平井の目はどこに向けられているのか。窓の外といわれればそうかもしれないし、岡本を見ていると思えばそれも納得がいく。とにかく、奴の視線は中途半端に宙を捉えており、どこに焦点を当てているのかさっぱりわからないのだ。

 怪しまれないよう教室全体を見るふりをしたり、時折自分の教科書に視線を落としたりしながら、俺は五分が経過したことを示すストップウォッチが鳴るまでの間、平井の様子を観察し続けた。

 授業を終えてから、俺は平井を呼び出した。

 教壇から、「平井、ちょっと話がある。来てくれ」と何でもないことのようにいった。平井は教科書を鞄に仕舞ったところだった。椅子に座ったまま俺の方を向いて目を少し大きくしていた。何故呼ばれたのかわからないからだろう。そりゃそうだ。

 しかし平井はすぐに真顔に戻り、俺のそばまで寄ってきた。

「次、音楽なので教室が遠いんですけど」

「あー、じゃあ、濱田先生には後で俺からもわけを話しておくよ」

「長くなるんですか?」

「いいや? 一応念のため」

 軽い笑顔で俺は答えた。実際、話を長くするつもりはなかった。

 平井は、「じゃあ行きましょう」と俺より先に教室を出ようとした。

「あ、何だよ。ホモ野郎。ついに呼び出しかよ」

 何やったんだよ、とけたけた笑いながら付け加えたのは、結局授業が終わるまで夢の中だった男だ。

 俺は鋭い目付きでそいつを見下ろした。

「和田、お前は放課後呼び出しだからな。帰るなよ」

「はっ? やだよ、何でだよ」

「わからないならそれも含めてみっちり指導だ」

「げえっ」

 和田は再び机に突っ伏した。入学当初から変わらない明るい茶髪をがしがしと両手で掻き乱した。

 こいつは、最初の自己紹介で平井に鋭い一言を食らってからというもの、毎日何かしらのタイミングを見つけては彼につっかかっている。俺の目から見ていてもそれは顕著だ。『ホモ野郎』という呼び方も、何度注意しても止める気はないらしい。

 俺は、平井がそのうちブチ切れるか、登校拒否にでもなるんじゃないかと当初はひやひやしていたが、予想に反して彼は強かった。というよりも、冷めていた。和田がいくら罵声を浴びせ、横暴な態度でつっかかってこようとも、「暇なの?」とわざとらしく訊き返したり、「楽しそうだね」と小馬鹿にして返したり、まあとにかく軽くあしらっているのだ。それで和田はムキになって、大声上げて立ち去るのがお決まりのパターンだった。

 一階の面談室に平井を通した。『使用中』の札をかけ、扉を閉める。

「まあ座れよ」

 俺は、簡易式の長テーブルを挟んだ右側の椅子を指差した。平井は黙って腰かける。それを見届け、向かい合う形で俺も椅子に座った。

「大した話じゃないんだよ」

 そう前置きし、テーブルの上で左右の掌を合わせ、指を絡めた。「授業中のよそ見はやめた方がいいぞ」

 まっすぐ俺を見つめていた平井の眉が、微かに上がった。

「問題を解き終わって暇なのはわかるけどな……ほら、カンニングと間違えられても嫌だろ」

 平井は何もいわない。

「あとあれだ、解き終わってない奴からしたら、ちょっと気になるだろ、よそ見してる奴がいると。やばい、早く解かなきゃって焦っちまう」

 頷くことさえしない。

「まあ何より、授業中は関係ない方向を見るなっていうのは常識だからさ。俺に限らず、対面する相手に対して失礼だろ」

 ここでようやく瞬きを一度した。しかしそれだけだった。呼吸さえも静かで、胸の隆起がわからないほどだ。

 俺は少し気味悪くなった。目の前の生徒が何を考えているのかわからなかった。考えの読めない奴は恐ろしい。特にこの平井遼太郎は、同年代の他の奴らとは纏うオーラが大きく違う気が俺はしている。それはおそらく、こいつが同性愛者だという前知識も相まってのことだろう。

 言葉が喉の奥にひっかかっている感じがある。俺は咳払いをひとつした。それから再び平井の顔を捉え、口を開いた。「あと、何ていうか……勘違いされるぞ」

「勘違い?」

 ここでようやく平井が口を開いた。俺はそのことに安堵した。やっとまともに会話ができる。

「そう、勘違い。お前にとって不本意の、あらぬ誤解を招いちまう」

「誤解……例えば?」

 平井が訊いた。俺は再び言葉を紡ごうとしたが、口を丸く開けたところでその動きを止めた。

 ──どう説明すればいい?

 岡本の名前を伏せ、「お前が自分を好きかもしれないと勘違いしている奴がいる」、あるいは「勘違いされるかもしれないだろ」、と少し濁して伝えてやるか。しかしそれは、平井が同性愛者であるが故に起こる勘違いであり、予想される誤解だ。その事実を突きつけられたとき、目の前の少年は深く傷つくのではないか。だがそれ以外にどう説明すればいい。どうすればこいつが同性愛者であることに触れることなく、今まさに起こっている『勘違い』を、これから先も起こり得る『誤解』を、本人に伝えることが出来るのか。

 ああ、畜生、面倒くせえ──。

「岡本君ですか」

 平井が呟いた。俺ははっとした。いつの間にか伏せていた目を上げ、目の前の生徒を見た。そいつは、先程までと変わらない平然とした表情だった。その表情のまま、続けた。「岡本君が、『平井君が僕の方を見ている気がする。好かれているかもしれない。気味が悪い』とでもいっていたんでしょう」

 どきりとした。実際の言葉とは多少違えど、つまりはそういうことを岡本はいっていた。

「あ……え、あ、いや」

 俺は戸惑い、情けなくどもった。その様子に、平井は唇に薄い笑みを浮かべた。感情のこもっていない、不気味な笑みだ。

「いいですよ、隠さなくて。そうなんですね」

「ご、誤解するなよ? 岡本は──」

「大丈夫です。別に彼に何かいうつもりはありません」

 平井は椅子を引き、その場に立ち上がった。そのとき、授業開始のベルが鳴り響いた。

「先生のいう通り、そんな勘違いをされるのは不本意ですね。わかりました。よそ見は止めます」

 雲を見るの、好きなんですけどね。そういって、平井は扉まで向かった。部屋を出る前に俺を振り返り、丁寧に頭を下げた。開けられた扉が再び静かに閉められる。

 一人になってから、俺はようやく肩の力を抜くことができた。椅子の背に身を預け、ふうー、と太く長い息を吐いた。

 平井という生徒は、どうにも苦手だ。普通じゃない。普通の高校生じゃない。どこか達観しているようでもあるし、冷めているようでもある。教師である俺ですら、奴にとってはその他大勢の一人なんだろう。

 同性愛というひとつの性的指向が、彼をそうさせたのだろうか。普通の高校生よりも精神的に強くならなければ押し潰されてしまいそうな現実に、ぶつかりでもしたのだろうか。大いにあり得る。

「くっそ……なんでよりにもよって……」

 俺のクラスに来ちまったんだよ、本当に面倒くせえ。と、平井のクラスを受け持ってから何度目か知れない思いを腹の中に留めた。

 ガキはあまり好きじゃないが、普通のガキを──自然体の高校生を相手にしている方が、まだ、ずっと楽だ。

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平井、お前は誰よりも えーこ @mamimu

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