オレンジ色のかぼちゃみたいに。

月庭一花

 期末テストの二日目は、可もなく不可もなく、どうにか終わりを告げた。

 わたしは窓際の席で机に突っ伏したまま、誰もいない教室で空を見ていた。西の端から少しずつ天上に向かって青に近づくオレンジは、時間と共にその色味を増していくように思えた。秋の日暮れは誰にでも、軽薄なくらいに優しい。

 教室の壁にかかったカレンダーを見る。

 今日は十月三十日の金曜日。土日は休みで月曜日がテストの三日目。三日目の科目は現国と日本史と保体で、最終日に天敵の英語があるから、明日の勉強の時間は少しそっちにも当てないと。再び空を見上げながらそんなことを思う。そう思うのに、どうしてか体が動かない。家に帰る気がしない。

 思えば中学の頃もテスト期間中にだらだらと帰らなくて、お弁当もないのにいつまでそうしているの、って。よく笑われたっけ。

 一つ小さくため息をついて、目を閉じた、そのときだった。

 ……ピアノの音が聞こえた。

 明るい音。繰り返される和音。鍵盤を転がるように奏でられているのは、アルペジオの練習曲、エチュードop.10-1。

 『滝』の愛称で呼ばれるその音に誘われて、わたしはふらふらと教室を出た。誰が弾いているのだろう。期末テストの期間中で、部活は禁止されているはずなのに。

 それにしてもなんて鮮烈な演奏なのだろう。指の運びにまるで淀みがない。『滝』はショパンのエチュードの中でも難しい方なのに。一体誰が? それに、どうして……こんなに心惹かれるのだろう?

 誰もいない廊下に、リノリウムを踏むわたしの上履きの音が響いている。胸がどきどきしている。早鐘を打っている。

 音が止む。

 次の何かを期待してしまうように、急かされるように、歩みを早める。音楽室の扉に手をかけた、その瞬間。

 力強い和音が響き渡った。

 ゾワッとした不可思議な感覚に襲われ、一瞬で背中に鳥肌がたった。それはショパンのポロネーズ第6番、変イ長調op.53……でも、これは、違う。今まで聴いたことのあるどの『英雄』とも違う。違う曲に思えてしまう。

 音がキラキラと輝いている。光そのもののように、空気の中を音が跳ね回っている。

 強い打鍵なのに荒々しくはない。スローテンポのアプローチなのに主題はしっかりと表現されている。もしかしてさっきのアルペジオはこの練習に過ぎなかったのか、と思うとぞっとした。

 それはまるで、ショパン自身がピアノを弾いているかのようだった。

 わたしは呼吸を忘れ、ただただ曲が終わるまでの7分間、音楽室の扉の前に立ち尽くしていた。


 やわらかな、オレンジ色に染まった音楽室の中に、彼女はいた。わたしは今度こそ本当に心臓が止まったようになってしまって、一言も声を上げられず、彼女を見つめていた。

 わたしが着ていたのと同じ中学校の制服を着て、ピアノの横に佇む、彼女のことを。

 去年の夏に死んでしまったはずの、……玖海子くみこのことを。

 わたしは、じっと、見ていた。

「久しぶり、ですね」

 彼女が小さく笑った。

「どうして? 玖海子、あなた交通事故で」

 玖海子は一瞬目を見開き、それから困ったように、

「……明日はハロウィンでしょう? それで」

 と言った。細い指でジャンパースカートの襞を、そっと摘んだ。少し早いけど化けて出てきたの。そう言って笑う玖海子に、でもわたしはどう答えていいのかわからなかった。

「さっきの演奏、玖海子が?」

 はぐらかすように訊ねる。死者と会話を交わしているなんて、どうしても信じられない。

「ええ。あさみはショパンが好きだった……よね。よかった。わたしの音があなたにちゃんと届いて。……一つ、訊いてもいい?」

 玖海子は昔と同じ仕草で髪をかきあげて、小さく首を傾げて見せた。

「どうして吹部のない学校なんかに入学したの?」

 わたしは答えられず、自分の制服の、胸元を、ぎゅっと握りしめた。

「あさみの韃靼人の踊り、好きだったのに。もう、オーボエも辞めてしまったの?」

「辞めたわ」

「どうして」

「あなたが、死んだからじゃないっ」

 吐き捨てるようにそう叫ぶと、玖海子の指が、黒鍵をピンと弾いた。


 ……中学生最後の夏。わたしはそのとき、影の中にいた。

 唇が痛い。時々指が滑りそうになる。流れ落ちる汗が顎の先から地面に落ちていく。肌に張り付いた体操服が気持ち悪くて、余計に息苦しく感じてしまう。わたしは曲を最後まで吹き終えると、椅子の下に置いていたペットボトルを取り上げ、喉を鳴らしながらぬるい水を飲んだ。遠くで蝉の声がしていた。

 校舎の裏手でソロの練習をしているこの時間が、わたしはたまらなく好きだ。

 今年こそはコンクールでもっと上に行きたい。いつまでもこの時間を続けていたい。そんなことを思いながら、わたしは額の汗を拭い、吹いていたオーボエのリードをチェックし始めた。

「夏休みで、みんな頑張っているね」

 不意に声をかけられて、力の加減を誤る。危うくリードを欠けさせるところだった。

「ちょっと、びっくりするでしょ? 急に声をかけないでよ」

「ん? だから演奏が終わるまで待ったわ」

 玖海子が髪をかきあげながら、笑っている。

「もうすぐ合奏が始まる時間だから、集合してって」

「わかった」

 わたしはそれでもちょっとムッとしながら、答えた。

「みんな、って言ったのを気にしている?」

 少し不安げな玖海子に、そんなんじゃないよ、と笑いかけると、彼女は安心した表情を浮かべてわたしに抱きついた。玖海子の頬は、驚くほど、冷たかった。

「あさみは誰よりも頑張っているわ。わたしが一番、それを知っているから」

 なんと答えていいのかわからずに黙っていると、玖海子はあさみ汗臭い、と笑った。わたしは顔を真っ赤にさせて、

「じゃあ、離れなさいよ、馬鹿」

 と言った。ひどく恥ずかしかった。玖海子はそっとわたしから離れて行った。

「わたし、あさみの吹く韃靼人の踊りが好きよ。ソロ、頑張ってね」

 それが玖海子と交わした、二人だけの、最後の言葉になった。その日の夜に、玖海子は……車に轢かれて帰らぬ人になった。

 玖海子は不思議な人だった。子供の頃からずっとピアノを習っていて、すごく上手で、でも、学校では演奏している姿をあまり見せてくれず、それどころか別に楽器を触るわけでもなく、吹部のマネージャー兼ライブラリアン的な部員になっていた。パート譜作成に重宝されてはいても、後輩からはいつもその存在が不思議がられていた。

 玖海子はよく言っていた。わたしが吹部にいるのは、あさみがいるからだよ、って。

 あさみのことが好きだから。……それが本当なのか冗談だったのか、今となってはもうよくわからない。ただ、思い出すのは、お葬式に飾られた玖海子の笑顔の写真だけ。泣き続けているお母さんの姿と、その横でうなだれていたお父さん、そして度の強い眼鏡の奥から燃えるような目でわたしを見つめていた、玖海子によく似た妹の姿だけだった。


「わたしに、忘れさせてくれないかしら」

 片手で和音を奏でながら、玖海子が言った。

「未練があって、このままだと天国に迎え入れてもらえないらしくて。だから、わたしに全部、忘れさせて欲しいの」

「未練って。今更、どんな未練があるっていうの?」

 やっぱり幽霊なのか、と思うと、少しだけ声が震えた。けれど、なぜだろう。不思議と怖いとは思わなかった。

「わたし、……あさみとピアノの合奏をしてみたかったの。ねえ、わたしのために、もう一度オーボエを吹いてくれない?」

「なんで? それこそ今更じゃない」

 リードも部の後輩に譲ってしまったし、オーボエも一年近くのあいだ一度も手入れをしていない。押入れにしまいこんだままだ。まともな音が出るかどうかも怪しかった。

「わたし、ね。交通事故にあったあの日。コンビニに出かけていたの。楽譜をコピーしようと思って。あさみと弾きたいな、って思っていた譜面をね、合奏用にアレンジしてみたくて。……いつか、あなたに渡したかった」

 玖海子はスカートのポケットから四つ折りにした紙を取り出して、わたしに差し出した。

「わたしがここに居られるのは、教会の典礼に定められた十一月二日の死者の日まで。だから、お願い。……駄目、かな」

 わたしはごくん、と唾を飲み込んだ。

「断ったら、玖海子はどうなるの?」

「……天国にも地獄にも行けずに、永遠にさまようだけよ」

 そんなことを言われてしまったら、もう断ることなんてできやしないじゃないか。だから、震える手で、わたしはその紙片を受け取ったのだった。

「ありがとう。でも」

 玖海子が目を細めた。静かに、わたしを睨みつけていた。

「あのコンクールのときのように、腑抜けた演奏なら、わたしは許さないから」

 来週の月曜日。またここで、この時間に。

 そう言い残して、玖海子は音楽室から出て行った。わたしは茫然としたまま動けなかった。街灯が瞬き始めた頃、わたしも重い足取りで音楽室の外に出た。誰もいなかった。当然玖海子の姿も形も、見えなくなっていた。

 ……人の気も知らないで。

 奥歯を強く噛むと、砂のような味がした。


 玖海子の死を知らされたのは、事故の翌日、リーダー会議のときだった。即死だった、と聞かされて、目の前が真っ暗になった。同じパートリーダーであるパーカスの吉住や低音の三田村が泣いているのを見ながら、でも、自分の涙は一滴も零れ落ちたりしなかった。心が麻痺してしまって、麻痺し過ぎていて、涙を流す余裕すら、なかったのだと思う。

 玖海子のためにも、少しでも上に、全国に、それがスローガンになっても、わたしの心は虚無に包まれたままだった。

 全国。……全国? 本気でそんなこと思っているの? だいたい、あんたたちに玖海子の何がわかるっていうの? 玖海子が本当にそれを望んでいたの?

 ……一人でソロ練をしているとあの日、玖海子がわたしに抱きついたときの冷たい肌を思い出して、指が止まってしまう。ブレスが続かなくなる。オーボエの音程が合わなくなる。リードが、言うことを聞いてくれない。

 叫び出したいのに、どうしていいのかわからない。

 結果。コンクールはダメ金に終わった。

 みんな泣いていた。わたしだけが泣けなかった。自分でも自分の演奏がひどかったことは、十分過ぎるくらい自覚していた。気持ちが全く入っていなかった。ソロはグダグダだった。責めるなら責めればいい。全部わたしがわるいのだから。そう思った。なのに、誰もわたしを責めたりしてくれなかった。

 ……だから。わたしは音楽から、あの場所から逃げたのだ。


 楽器店で以前使っていたグリスと、リードをまとめて購入すると、わたしは家に帰り、玖海子が差し出した楽譜のコピーを広げた。

 玖海子との合奏。サン=サーンスの『オーボエ・ソナタ』やシューマンの『3つのロマンス』のような難曲だったらどうしよう、と思っていたのだけれど、題名を見ると『パリは燃えているか』と書かれていた。わたしの知らない曲だった。

 元はどんな楽器の構成で演奏されていたのだろう。わたしは玖海子の手書きの、オーボエ用にアレンジされた譜面をさらいながら、水に漬けたリードの様子を確かめてみた。銜えて、息を吹き込む。でも。

 ……思ったような音が出ない。

 わたしは焦りながらリードを確認して、けれど、これはリードの問題ではなく、わたし自身がアンブシュアを、口の形を正しく作れていないんだ、とわかって、愕然とした。

 何度も何度もぴーぴーとリードを吹いていると、ノックもなしに部屋の扉がガチャっと開いた。

「テスト期間中にあんたいったい何してんの。夜に笛なんか吹いて。近所迷惑でしょ?」

 母親に叱られて、わたしはのろのろとリードを口から離した。そして焦燥に駆られて押し入れを引っ掻き回し、オーボエのケースを取り出した。分解して、グリスを差し、元に戻す。キーの動きを確かめる。指を所定の位置に合わせる。リードをつけずに指だけで音符を追っていく。……駄目。全然指が動かない。音符を追う速度に指がついていかない。

 ……どうしよう。わたしは夕暮れの、あの玖海子の弾いていたショパンを思い出す。あのピアノに合わせるなんて。

 背中を汗がつたう。今のわたしは、完全に力不足だった。


 夜中にネットで、『パリは燃えているか』の動画を見た。日本人が作曲した曲だということも、そのとき初めて知った。

 ピアノソロの動画を繰り返し見ながら、玖海子ならこの曲をどんな解釈で弾くのだろう、と考えていた。譜面を見ると主旋律はわたしが吹くオーボエになっているが、それは時々ピアノと入れ替わる。わたしがピアノを支え、玖海子がオーボエを支える。静かな曲。けれども情熱的な曲。決して難曲ではないが、今の自分にどこまで吹けるのかわからなかった。

 わたしはため息をつき、動画を見ながら、譜面に書き込みを入れていく。

 明日。明後日。……月曜日はもう、玖海子との合奏だ。わたしの、そして玖海子の時間は、この三日間しかない。テストは赤点を取っても追試でなんとかなる。でも、玖海子には、わたしには、この時間しかないのだ。そう思うとどうしても目が冴えてしまう。焦りからか、少しも眠いと感じない。ついつい楽譜を見返してしまう。

 わたしが眠りについたのは、明け方、空が明るくなってからだった。


 土曜日は朝から曇り。空は寒々としていた。

 商店街はハロウィン一色で、中には仮装した姿の人もちらほらと目につく。

 わたしは図書館で勉強すると嘘をついて、昼過ぎに家を出た。もちろんオーボエは見つからないように、ケースごとコートに巻いて隠しておいた。昔よく一人で練習に来ていた川辺の土手に着くと、黄葉の終わりかけた銀杏の葉が、道いっぱいに撒き散らされていた。

 大きく深呼吸をする。

 秋と冬の境目の、清々しい空気。

 わたしは土手のコンクリートに座り、傍らに置いた容器の中にペットボトルの水を満たした。リードをそこに浸して準備をしながら、指の体操をする。曲のイメージを頭の中に膨らませていく。

 リードを銜えて、音を出してみる。

 ……昨日よりもだいぶマシに思える。わたしは小さくガッツポーズして、オーボエにリードを差し込んだ。

 ゆっくりと、ロングトーン。それから、念入りにスケール練習。かじかんでいた指が温まってくると、指も少しだけ回るようになってきた。大丈夫。やれる。絶対にやれる。

 わたしは楽譜を取り出して、これもこっそりと持ってきた譜台に乗せた。速度指示はモデラート。中くらいの速さで。

 つっかえつっかえ、通しで一度吹いてみる。……駄目。全然駄目。こんなんじゃ玖海子に笑われる。玖海子の未練を断ち切ることなんて、とてもじゃないができやしない。もう一度。何度でも。できるまで。

 ……辺りが夕闇に沈む頃、不意に顔を上げると、自分の頬が濡れているのに気付いた。

 川の対岸では街燈が灯り始めている。

 どうして泣いているのかもわからずに、わたしは茫然と、その明かりを見ていた。


 ハロウィンに付き物のあのかぼちゃのお化けは、嘘つきの成れの果てであるらしい。

 生前極悪人だった彼は、死後、聖ペトロに地獄行きを命じられる。けれども巧みに言いくるめて、もう一度人間としてこの世に戻ってくる。そして二度目の人生でも悪行の限りを尽くし、とうとう天国にも地獄にも入れなくなってしまうのだ。以来彼は地獄の石炭の燃えさしをかぼちゃのランタンに入れて、永劫をさまよっているのだという。

 ……この話を聞いて、わたしは玖海子のことを思い出した。あのとき彼女はこの世に未練があって、こちらに戻ってきたと言っていた。そしてその未練を断ち切ることができなければ、玖海子もあのかぼちゃのお化けと同じように、未来永劫、天国にも地獄にも行けずに永遠をさまようのだ、と。

 そして。

 玖海子は、忘れさせてほしい、と言った。

 忘れる。……忘れる。

 それは一体、何を指していたのだろう。


 日曜日は小雨の降る、肌寒い一日になった。わたしは歯噛みするような思いで、空を見ていた。天気予報を確認すると午後からは雨が上がるらしいのだが。

 わたしが小さくため息をついて、譜面を睨みつけた、そのとき。コンコンと部屋の扉がノックされた。

 慌てながら、わたしは咄嗟に譜面を背中に隠した。

「お母さんとお父さん、出かけるけど。あんたはどうする?」

「……テスト期間中ですけど」

「ふふ、そうよね」

「っていうか、どこまで出かけてくるの?」

「せっかくだから、映画でも、と思って」

 ……それって最初からわたしを誘う気がなかったんじゃないの? と思ったけれど、わたしはこれ幸いとばかりに、

「わたしのことはいいから行って来なよ。せっかくだからゆっくりしてくればいいじゃない。あ、そうだ。どうせならお父さんと美味しいディナーでもしてくれば? わたしも夕ご飯はなにか外で食べるから」

 物分かりが良すぎて逆に気持ちが悪いわね、とかなんとか言いながら、それでもお父さんとお母さんは連れ立って出かけて行った。

 両親を見送ったあと、もちろん楽器に手を伸ばしたのは言うまでもない。そして午後になって雨が上がり、空に薄日が射したのを確認して、わたしは家を出た。

 川は雨のせいで少し濁った色をしていた。わたしは濡れないようにビニールシートを広げてから腰を下ろすと、譜面を広げる前に大きく深呼吸をした。空気の中に雨の匂いが混ざっていた。そして、おもむろに演奏を始めたのだった。


 月曜日。天気は快晴。ただ、気持ちばかりが高ぶってしまって、うまく眠れなかった。

 テストに関しては申し訳程度に現国と日本史の教科書をさらってみた。明日の英語のことを考えるとさらに気が重くなってしまう。

 けれど今はそんなこと、気にしている余裕はない。わたしはケースの取っ手をぎゅっと握りしめて、朝の通学路を急いだ。

 散々だったテストが終わって、クラスメイトが全員帰路についた、そのあとで。わたしは鞄から譜面を取り出して、それをじっと眺めた。今日はコンビニに寄ってお昼ご飯も買ってきた。日が暮れるまでまだ時間がある。玖海子との約束の時間までに少しでも楽譜を頭の中に叩き込んでおきたかった。

 約束の時間に音楽室のドアを開くと、ピアノの前ではすでに玖海子が座っていて、わたしを待っていた。やっぱり彼女は中学校の制服姿のままだった。

 あの日から少しも、何も変わらずに。まるで事故になんて遭わなかったみたいに。

「待たせちゃったみたい?」

 わたしが強がって声をかけると玖海子はくすっと笑って、そんなことないよ、と言った。

「練習はしてきた?」

「もちろん。すぐにでも始める?」

 リードも事前に完璧に仕上げてある。けれど。

「待って。わたしにも少し、練習させて」

 そう言うと玖海子は、そっと目を閉じて、鍵盤の上に指を滑らせた。右手が、右手の指が、黒鍵の上を踊るように跳ねていく。

 それはエチュードop.10-5『黒鍵』。

 ショパンの練習曲の中で『滝』よりもさらに難易度の高いこの曲を、玖海子は易々と弾きこなしていた。音が踊っている。軽やかに。楽しげに。黒鍵の上を指が跳ねる。……玖海子の演奏はただただ美しくて、心臓が止まりそうになる。息遣い、額に浮かぶ汗、それらが全部、やわらかなオレンジ色に染められた音楽室の中で、光り輝いている。わたしは茫然と見つめていた。……本来ならば主題を、主旋律を奏でるはずの、玖海子のその右手を。その指を。

 わたしは改めて震えた。背筋が凍りつきそうだった。彼女の、玖海子のピアノと合奏だなんて。……どうしよう。

「じゃあ、そろそろ、始めましょうか」

 2分弱の演奏が終わると、玖海子はそう言って、小さく笑った。わたしはごくんと唾を飲み込んで、オーボエの用意を始めた。ソロの選抜試験のときにも、コンサートでも、こんなに緊張したことはなかった。それなのに。

 指先が震える。リードを唇に挟む。玖海子がわたしを見ている。小さく頷いて見せると、彼女も同じように頷き返す。

 そして。

 音楽が始まった。

 演奏しながらわたしは思う。この曲は、愚かしい人類の百年の歴史を、そしてこれから先の未来を思って作られた曲だ。

 玖海子がこの曲を選んだ理由はわからない。

 わからなくても、それでも、負けたくない。本当なら一人で完璧に奏でられるはずの玖海子のピアノに負けたくない。そのときはそう思っていた。さっきの玖海子の演奏に萎縮して、心まで、がちがちに固くなっていたからだ。

 ……でも。途中で演奏を止めたわたしを、玖海子が静かに見つめていた。

 違う。

 ……違う。

 わたしは勘違いをしていた。音楽というものを勘違いしていた。主旋律のわたしを支えてくれる玖海子の伴奏は、どこまでも優しかったのだ。聴いていて、初めてわかった。最初から勝ち負けなんかじゃなかった。そうじゃなかったのだ。わたしに、わたしのオーボエに、どこまでも寄り添ってくれる音だった。さっきの『黒鍵』だって、楽しくて楽しくてしかたがない、……そういう音だったのに。

 わたしはオーボエを一旦机の上に置くと、思いっきり自分の頬を引っ叩いた。痛かった。めちゃくちゃ痛かった。

 でも、おかげで目が覚めた。

「ごめん。もう一度、頭から。いい?」

「いいよ。じゃあ、今度こそ、本番」

 玖海子の指先が、静かに音を奏で始める。わたしは玖海子に支えられながら。そして主旋律を交代して玖海子を支えながら。二人で共に寄り添いながら。指を、息を、どこまでも広げていく。日が沈んでいく。世界がオレンジ色に包まれていく。

 最後の音が空気の中に溶けてしまうと、音楽室は静かになった。二人の額にはあたたかな汗が浮かんでいた。

 ……思い出した。音楽の、吹奏楽の、その本質を。

 玖海子を見た。玖海子もわたしを見ていた。

「うん。いい演奏だった。これで、全部忘れられる」

 玖海子が笑ったので、わたしも釣られて苦笑した。

「玖海子の忘れたかったことってさ」

 わたしは心に苦いものを感じながら、それでも続けた。

「わたしの、最後の演奏のことだよね。あの気の抜けた、独りよがりなコンクールの演奏に、怒ったんだよね」

 さあ、どうかしら。そう首を傾げながら、しかし玖海子の表情は雄弁に、その通りだよ、って。言っていた。

「もしも次の機会があったら。そのときはまた、合奏しましょうね」

 玖海子がわたしに手を差し出した。

 わたしはオーボエを置いて、玖海子の手を強く握った。そして、そのまま彼女を抱き寄せた。玖海子が驚いて、小さく息を飲んだのがわかった。

「なに? 急にびっくりするじゃない。……あさみ?」

 わたしは返事をしなかった。ただ、鼻を啜り上げただけだった。

「……泣いているの?」

「泣いてない」

「嘘つき」

 玖海子がくすくすと笑っているのが癪で、わたしは玖海子の制服に顔を埋めたまま、黙っていた。

「最後に、もう一つだけ、お願いしてもいい?」

 玖海子が耳元で言った。

「あさみの韃靼人の踊り、もう一度聴かせて」

 わたしはこくっと頷いて、涙を拭った。

 目を瞑ったままリードを銜え、最後の演奏を始めた。頭の中に譜面を思い起こそうとして、でも、そんな必要はなかった。わたしの指は曲を忘れていなかった。何度も、何度も何度も繰り返して吹いてきた曲。玖海子が好きだと言ってくれた曲。そして、……玖海子を怒らせてしまった曲。

 ……アレクサンドル・ポロディン作曲、オペラ『イーゴリ公』第二幕より。韃靼人の踊り。

 ソロパートを吹き終えて、目を開けると。

 玖海子の姿は消えていた。

 ただ、オレンジ色の太陽だけが、ゆっくりと、ゆっくりと、西の空に向かって、落ちていくのが、涙の中に浮かんで見えた。


 春。わたしは二年生になった。

 それは放課後、廊下を歩いているときのことだった。呼び止められて、振り返ると、

「……玖海子っ? どうして?」

「違いますよ。また間違えましたね。わたしは玖海子の妹の、風弥子ふみこです。今年この高校に入学したんです。……お久しぶり、ですね」

 玖海子に瓜二つの少女が、そこに立っていた。

「少しお時間いいですか。……姉のことで」

 連れ立って訪れたのは、いつかの音楽室。

 わたしはわけがわからなくて、そこに着くまで一言も声を発することができなかった。前を歩く彼女の姿は、まさしく玖海子そのもの、だったから。

「風弥子ちゃん、確か、……眼鏡してたよね?」

 音楽室で向き合い、ようやく口にできたのは、そんなくだらない、どうでもいい質問。

「コンタクトに変えたんです。そんなことより」風弥子がぺこりと頭を下げた。「生前は姉がずいぶんお世話になっていたみたいで。ありがとうございました。……姉が残した日記を読みました。あさみさんのことばかり書かれていて……仲が良かったんですね」

「ううん、そんな……わたしの方こそいつも助けてもらって。部活でもそうだった。彼女は縁の下の力持ちで」

「そうでもなかったんじゃないですかね」

 風弥子はピアノの前に座ると鍵盤蓋を持ち上げながら、呟くようにそう言った。

「姉の夢は海外の伴奏学科に留学することでした。だから姉も吹部にいて、得るものはいっぱいあったんだと思います」

 そうだったんだ、とわたしは思った。だから玖海子はマネージャーやライブラリアンの仕事をしていたのだろうか。玖海子のあの日の、寄り添うようなピアノを思い出す。

 ……海外留学、か。そんな玖海子の夢すら、わたしは知らなかった。もっと、生きているうちに、いっぱい話せばよかった。

「ピアノは一台でオーケストラに匹敵するけれど、それだけがピアノの本質じゃないんだって、……姉の口癖でした。伴奏専攻なんてソリストになれない負け惜しみだと思っていましたけど、違ったんですね」

 風弥子が和音を奏でている。わたしは何故だか不思議なデジャヴュを感じていた。この音。いつかどこかで聴いたことがあるような……。

 それからわたしは唐突に、さっきの風弥子の言葉を思い出した。


『……《《また間違えましたね》》』


 また。……また? え? それって……。

 混乱した頭でわたしが何か言い返そうとしたとき。

 風弥子は玖海子そっくりの仕草で髪をかきあげて、あさみさん、とわたしの名前を呼び、オレンジ色のかぼちゃみたいに、笑ったのだった。

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