オークトークス

鱗青

オークトークス:一日目

 愚直そうだな。

 出逢ったはじめからそう思っていた。第一印象、というものだ。

 常に権力欲と支配欲とを推進力にする国々の複雑な構図のなかで、私は『奴』と出会った。

 そして私は、男ながらに姫となる。


 🏰一日目:午前


「あー、皇帝陛下の覚えめでたき、あー、天下の大将軍にしてイリリアが総督、マケドニア王フィロフュース閣下ならびにその尊孫にしてリッソス公ナルキア殿下。あー、お初にお目通り致します、イリリア陸軍大将、オセロウにございます」

 溜息が出そうな軽蔑を胸に抱きながら、私は大理石の壇の下にかしこまる兵装の大男を見下ろす。

 愚直な奴、愚鈍な奴、愚昧ぐまいな奴。ようもまあこんなクダクダと駄々長い肩書きを几帳面に(どもりながら)いちいち述べるものよ。

 私は嫌いだ。こういう奴は。

 要領が悪いということはそれだけで罪だ。手間をかけるということはそれこそが怠惰だ。無能だ。周囲の足を引っ張る所業だ。

 おまけに緊張のためか、片膝をついて地面を見ている奴のちょうど顎の下あたりにキラキラと水溜りができている。あれは汗か?…汚い。

 白壁造りのイリリア総督府の奥の間では、髭を蓄えた将兵や高帽子の法術師に魔導師、帷子を斜めにかけた文官が居並んでいる。

 彼等が列をなしてこうべを垂れる最奥の壁の前には、五つの層を重ねた壇がしつらえてある。そこに端然と座するは額に銀の面兜、肩からは熊の毛皮のローブを羽織り、それに笏を手にしたがっしりとした体つきの狸人の老人。

 この老人は帝国の新たな植民都市、イリリアを統括する総督府の長であるフィロフュース。代々マケドニアを治める王家の宗主をも兼任しており、皇帝に対する発言の影響力も勝ち得た信頼もひとかたならぬものである。

 そこより二段下、ひな壇の狸人から見て左前方に立つ狐人が私。

 豊かな金髪のように長いたてがみがたゆたう額。その中央にルビーをあしらった銀鎖をかけ、肩口から袖、足元まですっぽりと覆う絹の貫頭衣をまとった雪花石膏細工のように美しい子供。我ながらよくいうとも思うが、事実なのだから致し方ない。

 身分は先程眼下の男が述べたように一つの都市を封ぜられた領主、公子プリンスである。が、実際の統治権限はこれ全て祖父に帰するものであるため、血の繋がりだけによって名前に付加された肩書きに過ぎない。

 手も足も細い、勉強と芸事だけはよくできる頭でっかち。自分でそうだと判っている。

「苦しゅうない。オセロウ、面を上げて立ってみせい」

 私の右後方、その上部から降り注ぐ天の父もかくやという重々しい声音。五段を数える雛壇の最上に据えた総督座に片脚を組んでいる帝国の老将軍、私の祖父フィロフュースの雷言だ。

「は!」と硬く軋みさえ聞こえそうな返事をして、私の足下に跪いていた甲冑の将が頭をもたげる。

 並みの兵士の倍はあろうという大きさの鉄兜。鯖一つなく、砂塵に磨かれて薄く光っているようだ。

 跪いている時から感じていたが、鎧の膨らみも厚さも人間というより牛や荷馬が身につけているかのよう。

 兜を脱いで脇に抱えると、陰になっていた顔面があらわになった。

 そうか。それもその筈だ───私は納得に目をすがめる。

 私を見上げるのは人間ではなく猪豚そのものの顔。瞳は綺麗なダークブルーだが、それ以外は頭髪(鬣か?)も眉毛(これは間違えようもない)も皮革も茶色っぽい濃淡の集合体。

「どうだナルキア。これがオークであるぞ」

 お祖父様が壇上から呼びかけてくる。恐らくいつものように私の反応を待ってニヤニヤと笑っているのだろう。宝玉のついた笏が揺れる涼やかな音色がかすかに聞こえるから。

 許可がないと振り向けないので私はそのまま答える。

人口じんこう膾炙かいしゃする冒険譚、子供を寝かしつける夜咄のたぐいでなら存じておりましたがこれは…」

 どうだもこうだもあるものか。オークなどいまどき珍しくもない。貴人の子弟を集めた学院で、他の生徒が物珍しいペットとして引きずり回しているのを何度も見かけた。

 侮りの言葉を、皇帝一族の血に連なっている将軍の孫として、いかにも貴族らしい名台詞を選ぼうとして私の舌の根は凍りついた。

 私を見上げるこのオーク。彼我の身分の差はこの立ち位置にそのまま現れている。いやしくも領地を封ぜられた公子の私と、数えきれないほどの戦場いくさばで無限に敵の首を刈り取ってようやく隷奴を脱しただろうケダモノとでは、与えられた権利も行使できる権力も段違いだ。

 しかし。

 その夢の底で辿り着く深海の如き深い藍色の瞳から射られる眼差しの、なんと鋭いことか。

 これは、ただのオークではない。オークどころかヒトの将兵でさえ、このような心臓を刺し貫くような視線を放てるものではない。

 押し黙ってしまった私を、意外そうにお祖父様の声が撫ぜる。

「どうした?ナルキア。歳の割に大人びて豪胆だと言われるお前もやはり、人外の者が怖いのか」

⁉︎バカな!」

 しまった、つい普通に返してしまった。

「…恐れ入ります。閣下にはお言葉ですが、私は生を享けてこのかた、恐怖に囚われたことなどございませぬ。ただこの者───」

 何だろう。私に向かうこの眼には、私の姿を映すこのあおぐろい瞳には、ただの好意悪意では言い表せないものがこもっているようで。

「───愉快な顔つきをしておりましたゆえ、ついお応えすべきを失念しておりました」

 ふむ。と頬杖をつく気配。

「嫌悪を感じぬであれば障りはなかろう。下知をする。心して聞け、皆の者」

 その場の全員が居住まいを正し、己の心臓の前に拳を当てて傾聴する。

かねてより和議親睦の申し出のあった隣国トラキアと此度こたび、正式に不可侵条約を締結する運びと相なった。これにより我らが帝国の版図はさらに拡大することとなる。ひいてはこの条約を強力に裏打ちするものとして、当家が公子の一人、このナルキアをトラキア第三王子の花嫁として遣わすこととなった。寿ことほげ、しんよ」

 絶句。

 家臣も、総督府の文武官も、その他の貴顕も言葉をなくす。…当然、私も。

 しかし暫くのちにそれは、奥の間の天井に渡された千年杉の梁をも振動させる歓呼となった。

「帝国万歳!総督万歳!公子の未来に栄光あれ!トラキアと帝国の友誼ゆうぎ永遠とわの幸あれ!」

 続く拍手は耳を弄し、壁を突き破り空駆ける精霊にまで聞こえていきそうなほど。

 やがてどよめきが静まったのを見計らい、祖父は重ねての下知を告げる。私と───オークの大将に。

「されば、我が孫よ。これよりそなたは男であった全てを捨て、忘れよ。もはやそなたは姫の身分。そして他国にすればその将来さきは夫たる者に従い、夫婦の誓い有る限り共に生き共に死すべし。───オセロウよ」

 自分のこの場に居る意味が掴めず若干目が泳いでいたオークが、己が属するイリリア総督府陸軍の最高責任者に名を叫ばれてかしこまる。

「はあ…ははっ!」

「そなたをナルキアの騎士に任ずる。姫であれば、まして花嫁の道中ともなれば従者は必須、更に騎士と姫とは相即不離のものなれば」

 オークの目が丸くなる。そしてまた私をふり仰ぐ。

 それはそうだろう。この者───大将とはいえ一介の兵であり爵位も覚束ぬ人外のものが、一足飛びに騎士に叙されたのだ。

「ああ…は!か、かしこまりましてございます!このオセロウめが、姫君を無事にトラキアの王子の許へお送り致します!」

 オークは私の容貌をしげしげと見つめている。この典雅にして簡素な貫頭衣も、事ここに至るまで想像だにしなかったのだが、確かに婚礼に旅立つ高貴の子女の礼装と同じだ。

 私は強く舌を噛んだ。苛立ちに私の騎士となったオークから目を逸らしてしまう。

 このような蛮族の、それも将とはいえ愚かな輩に好奇の眼で見られるとは。嘲笑よりもなお悪い。恨みます、お祖父様───

「他国に嫁すれば帝国にとってはもはや土塊同様ともなるが、それでも我が孫だ。こののちは貴様が身命を賭して庇護せよ。…宜しく頼むぞ」

 私は微笑み、その柔和にして清楚な表情で参集した臣下達の胸を温めてやった。

 心は裏腹に屈辱に満ち、背後では根元から血が出るほど尻尾をねじっていたのだが…


 🏰一日目:午後


「…婚礼の支度に親族の方々へのご挨拶。出立の神事に総督閣下との面談と、心労のかかる仕儀しぎが山と重なったのだ。お小さい姫にあらせられては、緊張でお疲れだったのだろう。もう少しこのままで休ませて差し上げたい」

 低く響く声。かつて兵士に飛ばす檄のひとつでも大木の幹を割ったというお祖父様の残酷な斧を思わせる声と違い、ベルベットの寝椅子のように鼓膜に柔らかい。

 いや、本当に、私を包んでいるこれは天国の雲棉か。

 宮殿の一隅にある自分の部屋で寝椅子に丸くなり、羽毛をたっぷり詰めたクッションに鼻先から突っ込んでいるように心地よく安心できる。

「てか、百戦負け知らずの悪鬼っちゅー二つ名のある大将の腹枕で寝るとか、ガチ有り得ないっしょ。見た目ゲロ可愛らしーくせにクッソ豪胆なとこありますね、ナルキア様は」

 ツンツンと尖った陽気な声。けたたましいが、けれど気に触るところがない。

「あれれー、ホルスもやってみたいのー?気持ち良さげだもんね、オセロウ様のフカフカお腹枕。お願いしてみればー?優しい僕らの大将に」

 くぐもった声。だが距離は近い。甘ったるく媚態しなを作っているような喋り方だ。

「馬鹿を申すなネフル!大将閣下は今やナルキア様と主従として最も緊密な関係を構築しておられるのだ。騎士と姫。姫がお眠り遊ばすならば、その枕とも布団ともなるのが騎士の務めであろう!」

 堅い口調。堅い声。選ぶ文言もどこか武張っていて、とにかく堅苦しい。

「セト、貴方はいちいち真面目にツッコみすぎなの。ねぇ、ゲブ」

 これはなんとも不思議な声だ。歌を歌いすぎて嗄れたカナリアのようとでもいうのか、優雅にして知的な棘のあるアクセントがかなり耳に残る。

「…………」

「て、どうせゲブは返事しないのよね。おまけにいっつも無表情ですし、ホントに何を考えているのか分かりませんね貴方」

 ゲブというのは、誰だか分からないが、フシューとかコフォーとかいう吐息を漏らしている人物だろうか。

「あー、静かにしてくれないかお前たち。シュウもゲブをあまりつつくな。かわいそうじゃないか」

 ん?分からない?誰が?

 私は一体、誰といるのだ…?

「ううん」

 と蠱惑的な睡魔の引力に瞼を引っ張られながら、なんとか私は起き上がる。何か柔らかでほこほこと温かい物の上で転寝していたようだ…

「おお…お目覚めになりましたか、姫。御気分はいかがですか?」

 あの、ベルベットの声の主だ。私は気を抜くとまたうつらうつらとしてしまいそうな目元をこすり、大きく伸びをした。

「あらー、でっかい穴ボコだあー。ハイつかまって皆さん!」

 あのネフルとかいう者の言葉と同時に、世界が大きく揺れた。

「きゃっ」

 床に倒れそうになって、つい小さく漏らす私を、宴席に供される特大ハムより太く弾力のある腕が絡めとる。

「あーっと…」

 びっくりして完全に目が覚めた。ハタハタと瞬きする私の顔のすぐ上に、猪豚そのものの顔がある。

「あー、大丈夫ですよ。ただの道の毀たれです。都市外の街道にはよくあることですので」

 私の肩と腰に回された逞しい腕。でっぷりと肉がついて樽のような腹。筋肉の強固さと脂肪の柔軟性が合わさりもちもちしている太い大腿。

 私はオークの膝の上に抱き抱えられ、その腹と胸をベッドにして安らいでいたのだ。

 台詞とともに顔に吹き寄せる息は意外にも生臭くはなく、桃でも食べたばかりかと思わせる爽やかな芳しさがあった。

 だが、それでも私は。

「───ッ!は、離せっ!」

「あー、はい」

 慌てて相手を突き放し、立ち上がろうとしてしかし裾の長い貫頭衣が邪魔をしてよろめいた。そんな私を、今度はオークの反対側にいた背の低い(子供の私より少し頭が上にある程度の)鶏人が抱きとめる。

あーぶないっしょナルキア様!こんなクッソ狭い輿ン中でいきなり立ち上がっちゃあいけませんって」

 これは、このキンキンした声は確かホルスといったはずだ。

「したら、ナルキア様の専用座席に戻りますか。それとも腹が減りましたか?便所とか?」

 ほぼ円と丸と球体で形作られた福々しい面構えの鶏人。鎧無しの衣服の上から、これぞ法術師といった黒の高帽子に黒のマントを纏っている。

「ここは…?」

「ここっすか?関所を二つ越えて、もーすぐ隣国との緩衝地域に入るとこっす。ギリでイリリア領土内ってわけっすね。窓開けましょか?」

 テカテカになるまで油を塗ったくった朱丹色のトサカを誇らしげに頭頂に戴き、それごとせわしなく首を巡らせて喋くる。

 私も己の四囲に視線を巡らした。ほぼ正方形の輿の中のようだ。

 それも純白の壁には金箔押しで月桂樹の葉の模様が散らされ、天井近くには棚、座席はクッションつきで、御簾のついた窓が両側面にある。超のつく高級な輿じゃないか。

「あー、ナルキア様はお目覚めー?大丈夫でしたー?ダメでしたー?頭とか打っちゃいましたー?おっかしー…じゃない、おいたわしー」

 輿を引く馬は四頭。その御者席との間にある小窓から振り返ってクスクス笑っている、弓矢を背負った小さな背中が見える。簡素な肩当てと胸当てのみの軽装。横顔からするにレッサーパンダ人だ。これがネフルか。弓兵は木や岩によじ登るため小柄な者が多いと聞くが、それは正しいようだ。

「どうぞこちらへいらせられよ、ナルキア様。故郷との別れ、竹馬の友や御係累の方々との想い出ゆかしき風景も見納めでございまするぞ」

 進行方向に座る鶏人の隣にいた目つきの鋭いコアラ人が、黒々と尖る爪で御簾を上げて私を招く。この硬さは間違いなくセトと呼ばれていた者だ。オークをそのまま縮小したように筋肉太りをした体型で、カッチコチに甲冑を着込んでいるが、この陽気に暑くはないのだろうか。

 何かガチガチ鳴っていると思ったら、股の間に立ててある大剣クレイモアの鍔が輿の振動に合わせて鞘と打ち合う音だった。すると荒剣士バーサーカーなのだろう。

「ちょっ、あの、ナルキア様に気遣いするのは貴方にしては上出来ですけどッ!私を押し潰しているんですけどセト貴方この野郎、いい加減自分のガチムチ体型の操縦感覚掴みなさいよッ!」

 コアラ人から身体を寄せられて窮屈がっている胴体のひょろりとしたラッコ人。えーと…オークからやんわりと叱られていたシュウという者だろうか。つぶらな瞳が幼く見えるが、睫毛の長さはやや神経質ばった性格を表している。これは白装束に白頭布を被っていた。我が国では主に医師がする出で立ち。

 ということは、進行方向に対して後部の中央に仰々しくうず高く作られた私自身の座るべき席、円いケーキのような貴賓台を挟んでオークと反対側に腕を組んでどっしりと腰掛けている眠たそうな目許をした象人が無口なゲブか。これは大きな革の前掛けをしている…職人だろうか?

 以上五人と怪物一匹は、私の花嫁道中の従者に選ばれた者達だ。確か。全員がオークの部下で、それぞれ腕の立つ生え抜きだと聞かされている。

 窓辺に顔を寄せると、水平に流れていく景色は人家もまばら。というか、炭焼き小屋や猟師小屋といったものばかり。山岳地帯の交通の要衝に構えられた都市イリリアの支配圏外とすれば、このわびしさは当たり前だ。

 とりあえずおぼろげながら状況を思い出してきたので、私はカホンと咳払いをして貴賓台に腰を下ろした。足を組んでもみたが、いかんせんスカートと変わらぬ長裾なのでやりにくい。

 気だるげに見えるように肩肘をつき、顔を斜めに傾げてオークを見やる。シャリンと鳴るのは、額の銀鎖。

「いつから眠っていた?」

「あー、城を出て門前町を過ぎるまで群衆に手を振っておられましたが、その後すぐにですな」

「どれほど眠っていた?」

「あー…2時間ほどでしょうか?」

 象人が長い鼻でふさがった口元をもごもごさせながら指を三本立てる。

「おお、そうかゲブ。あー、正確には3時間きっかりだそうです。このゲブは完璧な時計を腹の中に収めておりましてな、作戦遂行時には調理そっちのけで我輩の陣内にて働かせておりました。とにかく色んなものを物差しなしで測ることに長けておりまして、およそ計量や計測ごとでしくじったことはありません!」

 するとこのゲブは、料理人か。言われてみればコロコロとよく肥っており、顔と同じく淡い桃色の手もぷっくりと丸っこく器用そうだ。

「ふむ。よろしい」

 沈黙。轍が街道を進むゴトゴトという音のみ。

 と。

「っだーっ!しんみりすんの止しましょうよぉ!ダンマリ決め込むのガチ気まずいっすよぉ!誰かなんか話せっちゅーの!もーもーもー!」

 鶏人の法術家がジタバタと暴れ、黒高帽が飛び上がった。

「何か話せって言われてもねぇ貴方。まずゲブは問題外でしょう?それじゃ、セトは?」

 水を向けられたコアラ人は、腕をこまぬいて考え込む。

「話…話か…どんな話が良いのだ?拙者にはとんと分からぬ」

「えー?や、だからそんな深刻になんないでさあ。何でもいっすよ!な、ネフル!」

 壁を隔てて「んー、僕もあんまり静かだと眠くなって手綱引き間違えちゃうかもしんないからー、なんか話しててくれた方がいいねー」とレッサーパンダが返す。

「だって!な!」

「だから何が『な!』なのよ。そんなにいうなら自分こそ話しなさいよ。何か皆の興味を引きそうな、胸に刺さる感動の抱腹絶倒のとっときの秘話を貴方」

 ラッコに指をさされた鶏はグッとひるむ。きっとこういう軽薄なおしゃべりにはありがちの、「自分で脊髄反射的に話すのは得意だが意図的に語りを組み立てるのは苦手」というタイプなのだろう。

「そうだなホルス。ここは一つ、言い出しっぺの貴様が責任を持って座を沸かすべきだ」

 コアラまでがそう重々しく断定して顎をしゃくったものだから、いよいよ鶏は話すより他に立つ瀬がなくなり、白い羽毛が青くなるようだった。

 しようがない。

「ならば私が語ろうではないか。退屈で呆れ果てて座が白けるかもしれんがな」

 私の言葉に、うっ…と皆が固まった。バツが悪そうに下を向いている。

 オークは、これは興味深そうというか少しの微笑みをまぜた様子でこちらを伺っている。…余裕あるその態度がまた、気に食わない。

 やはり嫌いだな。こういうやつは。

「お前達、ごく自然に聞いているのか聞き流しているのか知らないが、男である私が『花嫁』として輿入れすることを不思議に思わないのか?」

 オーク(と、外にいるレッサーパンダ)以外の面子が視線を交わし合い、同じタイミングで頷く。

「だろうな。私でさえこの時代に、しかも自分にその白羽の矢が立てられるとは思ってもいなかったが…文献によれば、帝国の成立初期には散見される事例なのだ」

 男の、より正確には少年を他家に嫁に出す、或いは家に迎え入れるということは百年ほど前には別に珍奇でも異様でもなかった。

 例えばとある国同士が敵対とは呼ばずともあまり融通のきかぬ関係にある場合。その領主に妻があれば、そこに娘を贈ることはすなわち側室を強制する行為、ともすればその妻の座を脅かすものとして領主と妻の双方の親族から恨みを買いかねなかった。

 しかしそれが『子を産まぬ存在』であれば?───話は違ってくる。

「はじめは薬湯や法術で子宮に縛りをかけた娘や、いわゆる石女うまずめと認定された女を使っていたらしいがな。それでも何かの拍子に子を授かってしまうことが度重なり…ならば少年を、という結論に至ったのだ」

 その少年も、若い男ならなんでもいいというわけではない。まず高貴な家門の出であること。次に知識教養ゆたかであること。さらには見目麗しくあること。最後に───

「これが最大の条件であるらしいが…その者が所謂いわゆる生少年 きしょうねん』であることだそうだ」

 しばし静寂。

「キショーネン?って何すか?」

 はじめにその質問をしたのはやはりホルス。セトを挟んで反対側からホルスに噛み付くシュウ。

「ちょっと、想像力を働かせなさいよバカね。花嫁の条件っていえば決まってるじゃないの貴方」

「えー?てかお前分かんの?皆も?俺全然わかんないっすけど!」

 セトもしかつめらしく唸る。

「うむ。拙者も分かるぞ。なんとなくな」

「ねー!ここまで来て分かんないとか鈍いにもほどがあるよねーホルスはー!あっはははははは」

 と、ネフルの笑い声。

「そうくさすな、お前達。ホルスは純粋なのだ」

 口先に拳を当て、くつくつと笑うオーク。

「え、なんなんすか?なんなんっすかぁ⁉︎めっちゃ感じ悪いっすけど!」

「まぁ我慢しろ。あとで教えてやるから」

 ぶっすりとむくれる鶏人は置いておいて、私は話を続ける。

「この、いわば『少年花嫁』には様々なしきたりがある。ざっくりまとめてしまえば、婚約が決定した瞬間から男であることを捨てること。まぁ公子であった私の場合は公女の扱いとなるわけだな」

 男のように馬に乗ることも、伴を連れずに出歩くことも、髪や鬣を勝手に切ることも、男と気軽に話すこともできなくなる。

 着る物も女物になり、化粧をし、裁縫をしなければならない。

「それって…オカマになるってことっすか?」

 言った途端ホルスは隣のセトから張り飛ばされる。

「あ、貴方ねぇ、畏れ多いとか礼儀とかホンット知らないのね!」

 とシュウが叫ぶ。ゲブは起きているのか寝ているのかわからない。ネフルは相変わらず外で笑っている。

「それより酷い」

 私は自分でも知らぬ間に仮面を脱いでいた。このざっかけない連中のやりとりが、自然と身につけていた表面を取り繕う演技を忘れさせたのだ。

「女の姿を好んでする者にはその者なりの意志がある。矜持もあろう。男で男が好きな者も、別に強制や依頼によってそういう性質になるわけでもない」

 しかし。

 しかし私は。

「望んでもいないのに無理矢理に、女として生きていかねばならぬと命じられたのだ…それも実の祖父から。公子として生まれた総ての権利と将来とを奪われて、隣国の顔も知らぬ男の愛人になれと」

 私はハッと息を飲んだ。舌の動きが、言葉が止まる。

 オークの掌だった。私の横から差し伸べられた五本の指持つ厚い筋肉が、私の手の上に重ねられて…

「あー…心中お察し致します、姫」

 鳥肌がたった。恐怖や嫌悪ではない。

 怒りだ。これは。

「───『心中を察する』?」

 思わず調子が裏返ってしまった。ギッとオークを睨みつける。例の、深い藍色の瞳が私を映している。

「何か変でしたか?貴人の方々の作法にはとんと疎いものですゆえ、ご無礼がありましたら」

「そなたのような奴に私の心中など解るものか!ふざけるな!」

 気色ばむ私とオークを取りなそうと、他の従者が動いた瞬間だった。

「───まずいよー!襲撃だー!」

 あっ、と誰もが前方を見た。

 御者台をのぞむ小窓。その向こうでネフルが立ち上がる馬達を宥めようとしている。一瞬遅れに急停止する輿。とっさに踏ん張る従者達と、柔弱なせいでよろめく私。抱きとめるオーク。

「御免!」

 真っ先に降りたのはセトだった。それに続いてホルスも開いた扉から身を躍らせる。

「敵の数は!」

 オークの怒号。

「見たとこー、一個中隊ですねー!剣と槍使いが中心みたいですー!」

「しからば!」

 オークは私を(こんな事態だというのに)しっかりと貴賓台に座らせると、シュウを連れて外に出た。そのすぐあとに小窓からラッコ人の後頭部が見えた。馬に鞭が打たれ、輿は走り出す。

「姫をお守り申しあげろ!我輩らもすぐに追いつくぞ!」

 私は立ち上がり、窓辺に縋りつく。ゲブが象人の鼻を揺らして後ろから支えてくれる。しっかり座っておけ、馬を飛ばすぞ。という仕草をしているが知ったことか!

 街道には兵がひしめいていた。一体どこからこんなに集まったのかと思うほど。恐らくネフルの言った人数は正確なのだろう。

 ヒン、と風切りの音が頬をかすめた。

「…………!」

 ゲブが声にならない叫びを上げて、私を引き倒す。そのまま床の上で前掛けの中に包まれた。

 頬に痛痒いものを感じて触ってみる。血だ。何人か手練れの弓兵も加わっていたのだろう。

「ちょーっとちょっとナルキア様!今ピュンって矢が飛んできましたけどピュンって!無事ですか貴方⁉︎」

 ゲブは者も言わずにひたむきに私をすっぽり抱きしめて護っている。私は代わりに少し頬を切っただけだから平気だと返す。

 それよりも。ああ、それよりも!

 眼に残る光景が頭の中にぐるぐると回っている。

 甲冑を閃かせ、大剣を振るい敵を切り裂いていくカマイタチのようなセトを。

 両手で複雑な印を結び、呪文を唱えて火球や雷球を宙に並べて解き放つホルスを。

 そして───

 徒手空拳ながら、あの巨体でトンボを切り、回し蹴りで敵をまとめて吹っ飛ばしていくオークを。


 🏰一日目:夕方


 どうやら、私は命を救われたらしい。

 緩衝地帯を逃げてしばらく行った先に橋があり、それを渡ったところで輿を停めてもらった。ここなら何かあった時、橋を落として退路を確保できるからだ。

「ナルキア様、内側にいませんか?これから外は冷えますよ貴方」

 袖を引かれて我に返った。心配げに眉を曇らせたラッコ人が御者台から私の顔を覗き込んでいる。

 輿から地面に伸ばした折り畳み式のきざはしに座りながら私はかぶりを振る。御者台にいるシュウと馬の脇に突っ立っているゲブとは顔を見合わせてため息をつく。

 そうだ。本来ならこんなところで長居すべきではない。従者を待つなどせず、さっさと旅路を急ぐべきなのだ。

 第一、待っていたところで彼らがやってくるとは限らない。私を、主人を守るために散華しているやも…

 そこまで考えて、顔を上げる。これをずっと繰り返して、もう何時間だろう。考えるほど胸の中は暗く沈み、心は重くなっていく。

「───あ…」

「どうしたのっ⁉︎」

 ラッコ人が大袈裟に反応する。

「夕陽が…綺麗…」

 シュウもゲブもずっこけた。

「あのですねナルキア様、びっくりさせないでもらえます?てっきりまた襲撃かと思いましたよ貴方」

「あ、ごめんなさい」

 私は素直に謝り(シュウが「あらま」と言いたげな顔をしていたのにも気付かず)、土色に空を遮る山並みの向こうにとろとろと沈んでいく夕陽を、そしてそれに照らされて色彩を変えていく空の風景を眺める。

 例えようもない。宝石でいえば群青色の瑪瑙の濃淡に橙の差し込みが入ったような複雑な色合いだ。

 城の中にいる間は、こんな風に外を出歩いて空をしげしげと眺める夕暮れ時など無かった。常に勉学し、芸事を習い、食事と入浴に多くの時間が割かれ…

 残りの時間を占めた睡眠と、もう一つの習慣…と呼ぶのは忌々しいが…のことに考えが及びそうになって私は顔を覆った。

 ああは言ったが、私は完全な清い身体などではない。穢れてはいないだけで、綺麗ではない。それは心も同じではないだろうか。

 祖父に与えられたあの習慣が、私の心を清らかでなくした。その確信がある。

 今こうして残った従者達を待つのは、それに逆らっているだけだ。いわば意地だ。さっさと見捨てて、切り捨てて道中を続けるのは祖父に負けてしまった気がするからだ。

 あのオークの瞳が蘇る。

 黝く澄んだ瞳。

 なぜあの怪物の眼差しが胸をざわめかせるのだろう。飲み込みかけた魚の骨のように、喉の奥で、心臓の近くでにぶく疼く…

 川のせせらぎの音が濁った。

 いや、ちがう。その音の濁りは、別のものが重なって聞こえてきたせいだ。

 私は顔を上げ、立ち上がった。

 私たちがやってきた方角から、橋の向こうから、夕陽を背に受けて真っ黒い影が四つつ。

 ゆっくりと揺れながら、何かを高くかざしている。

「───ぃ…。…ぉぉーい…」

 腕。荷馬車の脚のように太い腕が、高々と揺れている。

 鈍色に輝く兜。ピンとした猪豚の耳。髪のような鬣。樽に手足が生えたようなシルエット…

「…っ!」

 私は叫ぶこともせず駆け出した。じっと動かず立って待つ。そんなことなど、できはしない。

 だって、この目から流れる涙をこらえようがないから。本当に女のように、女々しく泣き崩れてしまいそうだったから。

 だから、私は。

 四人の…コアラ人の荒剣士と、鶏人の法術師と、レッサーパンダ人の弓兵と…そしてオークの拳闘士の顔かたちの輪郭がはっきりしてきても走る速度を緩めない。

「おおー、姫に追いつけましたな。シュウもゲブも無事で何より!我輩、長距離を走るのはいささか苦手でしてな、夜通し歩いてでも追いかけようと思っておりました!」

 子供がふざけて砂山に旗を刺したように、背中に何本も矢を受けている。それでもなお鷹揚に笑むオーク。

 その彼の、ざっくりと十字に生々しく切り裂かれた跡がある胸元に。

「お、姫?そんな顔をしていかがなさ」

 トッ───爪先で大地を打つ。貫頭衣の裾がはためいて。

 もとから軽い私の身体が、オークの胸元に飛び込んで。

「おおっ⁉︎お、おおおおっ‼︎ひ姫、こ、これは、我輩、その、我輩の血で汚れてしまいますが!」

 構わない。こんな衣装がいくら汚くなっても、そんなことはどうでもいい。

 そう言いたいのだけれど、まるで宮廷を訪れる旅役者のように泣き声が喉をついて喋らせない。

「こ、婚礼の装束にございますぞ、姫、それは!あ、あああー…どうしたものやら…」

 彼は両脇にいる部下に助けを求めた。しかし彼ほどではないにしても戦いにあちこち傷をこさえたホルスとネフルはニヤニヤと顎を撫ぜて眺めるばかり。セトに至っては腰に手を当て仰け反って、からからと大笑している。

 やがて輿をほっぽらかしてきたシュウとゲブも加わって、五人の従者は己の命を見事守ってみせた騎士をひしと抱擁する姫と、しどろもどろの汗みずくになって困惑している騎士とを盛大な苦笑を持って囲むのだった。


 🏰一日目:夜


 総督であるお祖父様と暮らしたイリリア城のいと高き処、大理石の後宮にしろ。

 イリリアの城下町の、私はよく知らないが平民達の暮らす日干煉瓦造りのにしろ。

 そしてここ、生まれ育った国を離れた山野にしろ。

 夜の空を埋め尽くす星の光に変わりはない。いやむしろ、こうして人里離れた街道から見上げたほうがその宝石は照りと艶を増すかに思える。

 橋のすぐたもとに停めた輿。その屋根に折り畳まれていた天幕をスルスルと広げれば、簡易だが立派な陣幕テントが出来上がった。

「傷の手当てはまず洗浄から!ほらちゃっちゃとそこの川で洗ってきちゃいなさい貴方達!歩けないほどの怪我じゃないんだから!」

 幼年院の教師よろしくパンパンと手を叩くラッコ人に「うぇーい」と返事し、ダラダラと川に降りて行くオークにコアラ人にレッサーパンダ人に鶏人。敵に法術師がいなかったため火傷のたぐいは負ってはいないが、前衛で奮闘していたらしいオークとコアラ人はかなりの深傷もある筈だった。

 シュウは医者としての本領発揮だとどこからか薬箱を取り出し、天幕の中で組立式テーブルに嬉々として瓶を並べている。ゲブは簡単な食事を作るからと煮炊きの薪を拾いに行った。

 そして、私は。

 泣きすぎてベトベトになった顔と手、それにオークの傷口からの体液(深い紫色をしている)でまだらの染みを作ってしまった貫頭衣を見下ろして…

「私も行く。川へ」

「ナルキア様⁉︎ちょっとなんでついてくんです貴方!」

 シュウの言うのも尤もだ。しかし私は、今自分にできること、そして自分にしかできないことを試してみたかった。

 そう、彼らが私に付き従うことが彼らに与えられた使命とするのなら、私にも彼らに対して果たすべき義務があるはずだ。

 従者達は橋の下で衣服兵装を解き、下着も外した赤裸になってドヤドヤと流れに入っていく。

「ひゃー、冷て!縮こまっちまうっす!」

 赤いトサカをビリビリと震わしながら内股で股座を抑えているあちこち槍傷だらけのホルスに、赤茶けた毛皮にさほど目立った傷もないネフルが鼻白む。

 さすが弓を扱って自然に鍛えた肉体。毛並みの色が真っ黒な胸と腹はホルスと同じくぽっちゃり出てはいるが、背筋たるや相当なものだ。

「見栄張らないー。冷水で縮むぐらいにご立派なモン持ってないでしょー?このバカ鶏はー」

「なっ?ンなこたねーっすよ!ちょっと歳上だからってイイ気んなってっとキャン言わすっすよ⁉︎」

「へーえ?前も後ろも使ったことない童貞のくせにー?いーよなんなら試してあげようかー?お尻の穴引き裂かれて泣き叫んでも知んないぞー?」

「るっさいっすヤレるもんならヤってみろっすよクソエロレッパン野郎!」

 追い回す鶏人と逃げを打つレッサーパンダに、我関せずと黙々と身体に水をかけるコアラ人。大剣を振るう膂力がどこから生み出されるのかよく分かる、灰色の短毛に覆われた筋肉質の太い腕に太い太腿。まさに筋肉ダルマだ。

 セトの顔の右半面は南瓜のように腫れていた。棍棒の一撃を受け止めたらしい。恐らくその相手は右手左手が永遠に別れた状態にされたのだろう。

 あらかた傷の汚れを落とすと、まるで風呂にでも浸かるかのようにザブリと一息に首まで沈ませ、黒い延べ棒状の鼻を鳴らして眦を緩める。

「ううむ、火照った肌に川水の冷たさが心地よい。軽い運動の後の沐浴は最高であるな」

「さすがセト、あのえげつない殺し合いが『運動』の範疇なんすね…」

「ほぼ鏖殺おうさつだったはずなんだけどねー。二、三人逃げたほかは捕虜にもできなかったもんねーグチャミソすぎてー」

「うぇっぷ…思い出しちったじゃないっすか。俺、もうこの先三年はトマト煮込みとか食えそうにないっすよ」

 ホルスとネフルは夏早い海岸で波に入るときのようにジリジリと膝から太もも、腰、腹と沈めていく。

 ようやっと胸まで喫水できたところで、二人同時にふー…と奥深いため息をついた。

 そしてふと岸を見上げて、そこに私の声をかけあぐねている姿を認めて。

「わーっ!何してんですかー、ナルキア様ーっ!」

「ウッソでしょ⁉︎ちょマジでやめてくださいっすヤバいっす!」

 と一気に喉首まで水に入ってしまった。

 コアラ人は冷静かと思いきや

「あわあわあわ慌てるな、そこもとら、よく考えろ拙者らの姫は男であらせられるのだ、だから大丈夫だ裸を見せても、いやダメだ?ど、どちらになるのだこの場合」

 とあたふたと水をかき回しホルスとネフルから

「知らないっすよっ!」

「どっちでもダメー!」

 と水飛沫をぶっかけられた。

 私は何の気なく、先ほど三人が生まれたままの姿になってから水に浸かるまでしっかりと眼に焼き付けたモノを声に出してみた。

「人参」

「えっ⁉︎な、なんで俺の方見て言うっすか⁉︎何を見たんすか何だっつうんですかぁ‼︎」

 鶏人は羽毛に覆われた腕をジタバタさせる。

「ははーん、なーるほどねー。うんうんホルスは人参…と」

「納得すんなっすネフル!」

 私はおとがいに指を当てて意味深な表情をしているネフルを次に指差した。

小花梨マルメロ

 無心な私に指さされ、レッサーパンダ人の顔がひきつる。

「は?はぁぁー⁉︎」

 一拍遅れに今度はホルスとセトが爆笑した。

「マ、マルメロっ!マルメロっすかネフル!てことは短太…」

「わぁー言うなバカー!」

 怒りのネフルにしきりに水をかけられ逃げまくるホルス。

 そして私には悟られないよう徐々に気配を薄れさせ遠ざかっていたコアラ人の背中に向けて指をさし、そこを動くなとばかり…

「双子の椿桃ネクタリン

「っ!」

 ギクリとセトが静止し、波が立つ。

 私の確定にホルスがゴクリと唾を飲み込み恐れをなした。羽毛に覆われた掌を上に向け、「椿桃二つを持てばこのくらいのズッシリ感っすね」と想像しては戦慄わなないている。

「マ、マジっすか…!どんだけ重量感あるタマキンなんすか…」

 ネフルは合点がいったとばかり両掌をポンと合わせる。

「道理で!そーゆーお店で遊ぶとき相手の子がゲッソリしてると思ったよー。おー、多量遅漏、大玉様様だー」

「ちええいっ!やめろネフル、ホルス!感心するな感動するな拝むな笑うな!」

 子供のように恥ずかしがって目を吊り上げるセトではあるが、同輩から「まーまー」「オトコとしては尊敬するっすよ?」と苦笑がてら肩を叩かれ憤懣やる方なく鼻先までブクブクと水面に沈んだ。

「オークの姿が見えないな。あれは?あれはどこへ行った?」

「オセロウ大将、っすよ」

「何?」

 ホルスが険のある眉付きで私をひたと見据えて、同じようにもう一度繰り返した。

「俺らの大将の名前っす。オセロウっすよ。姫もオセロウ大将を騎士にしたんすから、そこはきちんと名前で呼んでもらわなきゃ。『アレ』だの『コレ』だの物じゃねっすよ」

「私が自分の騎士をなんと呼ぼうが私の権能の問題だろう。それともそなた、私に意見するつもりか?」

「ケンノーだかイケンだか知らんっすけど、ジョーシキの話っす」

 ネフルがキリッと直立不動になる鶏人の嘴を塞ぎ、セトが立ち上がって非礼を詫びろとばかり頭から押さえつけた。

 が。

「ふむ、常識なのだな。ならばそうしよう」

 私が素直に受け入れたのを見て、三人は目を丸くする。

「自分で言うのも恥だが、私は城外の常識に疎いのだ。宮廷のならいならば指南を受ける必要はないが、それ以外の無知を婚家に晒すはたとい望まぬ婚儀であろうが無様というもの。であるからして、これからも私にそなたらが常識の薫陶を垂れてくれれば有難い。臆さなくともよいぞ、そなたら。ホルスを放してやれ」

 荒剣士と弓兵は恭しく聞き入れ、非力な法術師を解放する。

「てゆーか、ナルキア様はー、何をしに来たんですかー?僕らの裸が見たかったわけじゃー…ないですよねー?」

「無論だ。そなたら、皆こちらに来て一列に並ぶがよい」

「え!」

 三人ともどうしたものかと顔を見合わせる。これも何かの常識に反するのか?だが時間が勿体無い。手間を省こう。

「ならば私がそちらに行く」

 どうせ水浴したいと思ってもいたのだから。私は細い肩を揺らしながら貫頭衣を脱ぎ下ろし、額にかけた飾りの銀鎖を布だまりの上にそっと落とした。

 またもやここでひと騒動である。

 ホルスは「ひゃっ⁉︎ヤベッ‼︎」とそっぽを向き、尻からおっ立った尾羽をふるふると緊張させる。

 ネフルは「わー、ダメですー、いけませんよー」とあまり真に迫らない困惑を口にしながら、目許に隙間を開けた指をかざし。

 セトは「眼福がんぷくっ!」と一声、起き上がり小法師のような仕草で私に向かい直立し、頭から一本の芯が入ったごとく不動のものとなって。

 私はそんな彼らの反応の意味も分からないまま、浅い岸辺から爪先を清流に浸して正直に

「ああ、これは確かに水浴には若干温度が低すぎるかな」

 と微笑んだ。

 月の灯りが煌々として、水面に映った自分の裸身は目に痛いほどくっきりとしている。

 狐人の特徴として、耳と肘先膝先は栗の渋皮色で、その他の毛並みは鬣も顔も胴体も二の腕や太腿も黄金に輝いている。

 水の中から逆さまに見返してくる私。女のように伸ばした豊かな鬣。まだ全く男らしくない母様譲りの整った面ざしに開く、ぱっちりとした琥珀の瞳。紅く小さな妖花の唇。

 身体つきも我ながら従者の誰に比べても引けを取るか弱さ。それは武器を手にするまでもなく、撫で肩に、首筋の細さに、浮いた鎖骨に、少女のようにややふっくらしている胸に、くびれた腰に、そして只管ひたすら桃型に丸いだけの尻に露呈している。

 普段から従僕にかしずかれ、湯浴みの際にも脱衣から着衣まですべて彼らに任せている私にとって、他人に肌を見られることなぞ別段恥でもなんでもない。

 しかし、昼間にまざまざと勇姿をみせつけてくれた従者達の逞しさと己の身体の貧弱さを自分で弾き比べてしまうことは、生まれて初めての羞恥を私にもたらした。

 全く筋肉の付いていない胸元を隠しながら、サラサラと水に入り、三人の方へ。鶏人もレッサーパンダ人もコアラ人もおしなべて背の高さは一緒で、腹から下は水の中だ。彼らよりも背の低い私ではちょうど乳首の下あたりで喫水する。ぴょんぴょんと飛び跳ねるように水を掻かねばならず、進むのも一苦労だ。

「まずホルス、そなただ。傷を見せよ」

「え、えぃっ⁉︎」

「暴れるな。水滴が散って目に入る」

 鶏人の肥満体は、夜目には分かりづらいが擦り傷や打撲うちみ、細かな切り傷が山とこさえていた。私はゆっくりと両掌をかざし、そこに全身の気を集中して───

 ネフルがあ、と小声を立てた。

「…光ってるー…」

 私の渋皮色の手首から先に、青い月光が粒になって集まるように仄かな輝きが宿り始めている。それをそのまま、生まれて初めての歯医者にかかる子供のようにギッチリと目を瞑っているホルスのタプタプとした二の腕に重ねれば。

「ひゃうっ」

「わー、びっくりしたー!いきなり変な声出すなよーバカ鶏ー!」

「い、いや、え?これ、え?ウソ、ええっ⁉︎」

「どしたのー?」

 私は集中しきっていた。周りの声も相手の体動も気にならないほどに。

 ホルスはそんな私を伺いながら、傍に寄ってきたネフルに一層低くした音量で教えた。

「なっ…なんか…気持ちイイっす…!」

 今度はレッサーパンダ人も白い眉毛をハの字に下げて声も出さずに

(ハァー⁉︎バッカじゃないのー⁉︎ナルキア様に触られて頭おかしくなったんじゃないのー⁉︎)

 と唇を動かした。

「ホルスをそしるな、ネフル。この能力ちからを私が使うと、誰しもこうなる…終わりだ」

 私が手を離すと、鶏人は「え!もうっすか」と残念そうな顔をする。が。

「え、えええええっ⁉︎」

 今度は水鏡に映し出された我と我が身を眺め、グルグルと回り出した。

「なんなんだよーもー。今度はなんだってのー?」

「傷が…無ぇっす!」

 その通り。刀傷や棍棒の打ちつけた痕は影も形もなくなり、いまや輿に乗り込んだ状態にまで巻き戻っているのだ。

 私は嘆息した。問題なくいつも通りに自分の能力を発揮できたことに安堵する。

「ナルキア様、一体どうやったんすかコレ⁉︎」

「えっと…端的に言えば、治癒させたのだ…な」

「えっ、そんなことが出来るんすかっ⁉︎」

「何を驚いてんのーホルスー?ホルスも法術士ならさー、そーゆー術があることも知ってんでしょー?」

 私に詰め寄らんばかりのホルスの横で何を騒ぐのかこの鶏はと言わんばかりに耳に指を突っ込みながら、ネフルが尋ねる。

「実はナルキア様もホルスみたく法術が使えたんですねー。すごいっすねー、どこで修行なさったんですかー?」

「ちっがうっすよネフルのバカ!こんなの、不可能なんすっ‼︎」

「…はー⁉︎馬鹿に馬鹿って言われんの、すっごーくムカつくんだけどー⁉︎」

 これはまた喧嘩になりそうだ。私は二人の間に割って入り、次にネフルの脂肪で盛り上がった乳房のような胸に掌を当ててやる。

「百聞は一見に如かずだ。受けてみるがよい」

 瞼を下ろす。集中。私が接触しているレッサーパンダの被毛の上から、またも青白い光が立ち昇る。距離を取って射術で戦う弓兵らしく、身体のあちこちに小さいが深く抉るような矢傷が意識できる。さらにそこまで届くよう、深く意識を開放して…

「あにゃー…」

 ダラリと舌を出して蕩け顔になるネフルに、少し落ち着いたホルスが説明する。

「いや、こう見えて俺、結構優秀な法術師っすからね?その俺が不可能っつってんす。断言してもいいっすけど、今のこの世に回復の法術なんてもんは存在しないっす!」

「えー…?そうなのー…?」

 レッサーパンダ人はすっかり脱力し、私のなすがままになっている。

「今の今までこんなことできる人がいるなんて知らなかったっすよ。てか、この世にそんな便利なもんが存在するだなんて、法術学の先生からも聞いたことないっす。てか、むしろ法術は本来破壊したり変化させたりするのに特化してるから、生き物を元気にしたり治したりとかは出来ないっすよ。それこそ医師のシュウの分野っす」

「それもそうかー…。法術で人が治せるならお医者さんの意味がなくなるもんねー…」

「てか、じゃあナルキア様のこれって…なんなんすか?」

 他意のない質問。私は喉を詰まらせた。これがなんなのか、どうして自分にそんなことができるのか?それこそ私自身が答を探し続けている問いなのだ。

 法術は、この世界において破壊や変性、またそれによる防御のわざとして発展してきた。実際、ホルスが軽傷で済んだのはマントにかけた攻撃回避の法術のためだろう。

 そしてそれは、人間の健康や病・怪我からの回復といったためには存在しないものでもある。何故そうなのか、それは神々や精霊が人間が不老不死に近づくことを恐れたからではないか…少なくとも、個人的な私見ではあるがそう思う。

 傷もあらかた見えぬようになり、私が掌を離すとネフルはさも残念そうに嘆息した。

「気持ちよかったー…。なんてーのー…?あれ、これ言っていいのかなー…?」

 私はそこから先は素知らぬふりで、今度はセトに近づいた。コアラ人はもう期待満面、紅潮した様子で生唾を飲み込む。

「セトは…手酷くやられたな。顔に、腕に、肩か」

 まず後ろに回り込み、両肩を挟むように掌を当てる。セトの灰色の毛並みがぞわり、と逆立った。

 光が、今度はより一層強く放たれる。コアラ人の腫れ上がった片頬、砕かれた骨がミリミリと肉々しく鳴きながらくっついて元の位置に戻り、たちまち腫れがしぼんでいく。

「はあ、うっ、これはっ───」

 腕の毛皮を削り取る刀傷。これも、傷口の内側から新たな肉が盛り上がり、失われた毛並みがゾルンと生え揃って。

「うぉ、く、クる───感動ッ!」

 紅潮したまま遣る瀬なく仰け反り、コアラ人は叫ぶ。既に同じめくるめく感覚を味わった鶏人とレッサーパンダ人は、赤面しながら苦笑している。

 やがてセトの肩の打撲(実は左が脱臼しかけていた)まで治癒し、全身がも元通りになると私も少し息を切らしていた。

 なぜか前屈みになったコアラ人は、せわしなく己の身体の手の届く範囲を隅々までまさぐり、すっかり傷が消えてしまったことに驚愕を隠せない。

 額に浮いた汗の玉を手の甲でぬぐい、私は呼吸を整えた。───まだ、大物が残っている。

「これは古くから私の血族に受け継がれてきた能力で───そもそも法術のたぐいではないのだ、恐らくな」

 私ですら、この能力ちからの本質や来歴は知らないのだ。唯一はっきりしているのは、私の母様も同じようなことができたということだけで…

「父方の血族、お祖父様達にはこれはできない。私の母様はお祖父様が攻め滅ぼし占領した、旧イリリアの竜の神殿に仕えし巫女の一族。その最後の一人だった。美貌の為に虐殺を免れ、父様の正妃として総督府に召し上げられたのだ」

 父様は侵略者の息子。母様は旧イリリアの誉れ高き巫女の最後の一人。本来なら添わぬ心の二人が、なぜか性格が合い、愛し合って生まれたのが私だ。

 しかしその治癒の力も、お祖父様の目には別のものに映っていた。

 だからあんな、瀆神とくしん的な行為を母に、そして私に強制したのだ。父様は母様と私を守ろうとしてお祖父様と反目し、したがための心労で命を縮めた…

「───さあ、次は…」

 深く息を吸い込んだ。

「オセロウ、私の騎士よ。何処いずこへ隠れたか」

 実は。もうとっくに気づいていた。

 私達から少しく離れた清流の淀み。水底が深くなっており波が弱いそこに、猪豚の耳が水面を突き破って生え、ヒコヒコと揺れている。

「オセロウ様ー、いつまでそーしてるんですかー?いい加減出てきてくださいよー」

「最初っからずっとああっすね」

「ナルキア様がお出ましになったのだ、赦免あるまで跪いておられるのだろう───流石、大将閣下」

「…ということは、息継ぎもせずずっと水の中に身を屈めているのか⁉︎」

 暢気な従者達のやりとりに、私は慌ててそちらに向かった。

「愚直者っ!そのままでは溺れてまうだろう、ただでさえそなたは一番深傷を負っているというのに───きゃ、あっ?」

 足元が滑った。深くなっているせいで均衡が保てない。

 と、太い安定感のある腕が私の腰を支えてくれた。

 そのまま離れたところに据え置こうとするので、私はじたばたと悶える。

「そんなことはしなくていい!そなた、私の騎士となったのであろう⁉︎何を遠慮することがある!」

 猪豚の耳の前からゴボゴボ、と水晶玉のように大きな泡が浮いてくる。

「喧しい!姫だからとかそんなことを言っている場合では───」

 違う。この言い方では、ダメなのだ。この愚鈍で愚図で愚直なオークめは、忠誠を盾にしなければ一晩中でもこうしているつもりなのだ。

 私は勢いよくこうべを振りかぶり、生まれて初めての音声おんじょうで一喝した。

「我が騎士オセロウよ、主命にあらがうとは何事であるか!この姫がたっての望みを不服と申すか?違うというのならく出でませい!」

 ボカン、と一際大きな気泡が立つ。

「主従の絆は既に結ばれてあろう、その証を今こそ見せよ。我が騎士オセロウよ、不敬の誹りを受けたくなくばな!」

 騎士、不敬。思った通りこの二つの単語が功を奏した。ドドオ、と水が山のように盛り上がり、照れがちな顔をしたオークがむっくりと立ち上がる。

 恵まれた体格のオークに生まれ、拳闘士として成長し、戦働いくさばたらきで鍛造された鋼の肉体───それ以外に形容のしようがない裸だった。

 改めて裸身にてまみえると、つい口をついて出てしまう。正直な言葉が。

「そなたは…私とは全然違うのだな…」

 自分とあまりにかけ離れた巨獣のごとき骨格。

 私の股間かくしどころが空気に触れぬよう腰を優しく掴む両手は私の軽く三倍。その両腕は木の切り株のようで。

 突き出た腹も脂肪ではなくドームのような筋肉に鎧われ、大胸は毛深く厚い羽座布団クッションを並べたようで。

 ベッド1台ぶんはありそうな肩幅は僧帽筋と猪首で山型になっていて。

 無言で見下ろしてくる鷹揚な困り顔には、武骨な口許にのぞいた猪牙とあの深い青の瞳とが奇妙なコントラストになっている。

 この眼差し───これが、初めてこのオークと会ったときからずっと胸に引っかかる。

 その瞳の底にあるもの。このオークの、魂ともいうべき輝きが。

 けれど。今はそれについて想いを巡らす時ではない。私はもっと引き寄せろと身振りで示した。

 オークは私の指示に不承不承従う。

 勘のいいネフルがホルスとセトの二の腕を指でトントンと叩き、他の三人は静かに岸に上がって消えた。

 オークの胸から腹にかけてざっくりと、戦斧トマホークによるものと思われる十文字のきず。どくどくと鮮やかな紫の鮮血が下腹へと流れ落ちている。

 恐らく背中には同じように深い矢傷がダースで口を開けているのだろう。

「痩せ我慢しおってから…」

 私は彼の肉体にピッタリと自分の身体を張り付けた。

 熱い。体温と、ぬめる体液の熱さ。

「あー…姫の御前にて、何ほどの苦痛もありません」

 柔和な声。苦痛がないはずがないのに、穏やかな色の声だ。

「そういうのを、要らぬ気遣いというのだぞ。この…暗愚めが」

 太すぎる胴体に私のかいなでは足りない。抱きしめるには広すぎる身体に精一杯かじりつき、ありったけの集中を込める。

 私の全身が仄かに、やがて強く光り始める。

「お、おお…おおおおおおお………」

 彼の嘆息が頭の上から吹き下ろす。その生温かい風を、快く感じながら。

「私は…厄介な騎士を得たらしいな…」

 彼はゆっくりと、私の腰を支えていた手を、背中と臀部に移した。私の能力がもたらす快楽に劣情を催して…

 では、ない。

 あくまで騎士らしく、騎士と姫に相応しい抱擁をするために。私の身体がより安定するためにそうしているのだ。

 小憎らしい。本当に、こいつはオークの中でも小憎らしいやつだ。

 私の治癒の輝きはついに月のそれを凌駕した。水面に、蛍の化身のような光の塊となった狐人と、その細身を抱きしめる猪豚の頭の怪物が静かに重なって映る。

 オセロウは、治癒に伴う快楽に息を荒くしながら、凝固して。

 夜空を彩る星々が、私達を見守りながら天球を滑っていく。

 時間のかかった治癒が終わり、私の体の光が薄れていき…

「…あー、もうあらかた回復したようですな…」

 オセロウがそう切り出した時、私はかなり疲労していた。暴れがちな馬で城内の馬場を限界まで周回したような心持ちで、くってりと彼の腹にもたれて。

「おお、姫!お疲れですな、これはいかん、早く上がりましょう」

「うるさい…」

「おお、肩が冷えてしまっていますぞ。風邪でも引かれては一大事、ただでさえ婚礼に遅れそうだというのに、これはいけませんな。さあ、我輩にしっかりつかまってください。岸へ」

「喧しいと言っておるのだ、理解もできんのか?」

「あー、しかしですな」

「あと少しでいいのだ。こうしていたい。そなたと」

 オセロウはきっと困り顔をしている。しかしそちらを一瞥だにせず、私は無視してしがみつく。

 息を整える間。それだけでいい。

 しばらくして私は気がついた。

「おー…もうよろしいですかな、姫?」

「うん…この川、生き物が多いのだな?」

 私の身じろぎで声をかけてきたオセロウに、反対に問いかける。

「あー、生き物ですかな?」

「うん。私の尻の下に何か居る。先程からモゾモゾする。尻尾の下に触れるのだ」

 私は手を伸ばした。水の中、見えない角度だが確かにヌルヌルとした何かの鎌首を手の内にとらまえた。

「これは大変だ!そなたの股間に何かいる、太い魚の…あっ、判ったぞ!ウナギだ!城で食したことがある」

 勢い指に力を込めて掴む。と、それは脈動しながらビクリと跳ねた。同時にオセロウも泡を食って呻く。

「おおふっ!姫、それは、あー、それは…」

「大変だ、鰻は噛むぞ。厨房の膳部が申しておったから間違いない!毒を持っているから捌くときも気をつけると───ちっ、そなたの股間に絡みついているのだなっ‼︎」

 なんとか捕まえてはいるものの、首の先からヌルヌルと粘液を出していてともすれば逃してしまいそうになる。

「おおおっ!姫、姫、それは触ってはいけませぬぅ!どうかそのままに、収まるまでは───」

「何を抜かすか!こんなもの、いつまでもそなたの大事な部分に絡みつかせておけるものか。即刻引っこ抜いてやるからな!…えいっ!」

「ほぅ⁉︎」

 ヌルヌルしてうまく抜けない。私は後ろ手に強く握りしめ、何度かしごくように引っ張り続ける。

 すると。

「う、おおおっ⁉︎」

 オセロウの様子がおかしくなった。鼻息も呼吸も滅茶苦茶になり、口から涎が糸を引く。

「苦しいのだな!待っていろ、すぐに楽にしてやる…!」

 えい、えい!とその長い鎌首を掴み、引っ張り、扱いていると…

「ぽぅ」

 オセロウが変な声を出すや前屈みになった。

 猪豚の鼻からプシューと湯気を噴き出して、ガックリと膝から崩れ落ちる。私諸共だったので、水中に放り出されてしまった。

 と同時に何かヌルヌルしたものが私の手の中に一瞬溢れて。

 そしてすぐに指の隙間を通り抜け、川水に流されていった。

 水面に上がり目を光らせた。鰻の、あの特徴的な姿はない…

「…居なくなったようだ。良かったな、オセロウ。私のおかげで命拾いしたのだぞ、感謝するを許してやろう」

 えへん!と胸を張る私に、オセロウは

「……あー…恐悦至極…ですな…」

 何か呆けたような、スッキリしたような、それでいて後ろめたそうな苦笑を漏らしていた。

 一方、輿の脇に張った天幕では。

 残った従者五人がテーブルにつき、携帯食料の干し杏入りの堅パンを齧りながらランタンに顔を照らされていた。

「あのまま放っておけば、大将閣下は本当に一晩中でもああされていただろうな。敵の城の堀に潜入したときなぞ、三日相手にバレなかったというぞ。まさに騎士の鑑だ」

 セトの台詞に、オセロウ幕下の武人として戦に出た事のあるホルスとネフルも頷いた。

「しかしっすよ…」

 鶏人は誰に言うともなく、大きに感動した余韻のこもった調子で吐露する。

「ヤバかったっすね…」

 ネフルも杏子を全て焼き締めたパンからこそぐ作業に没頭しながら(果物嫌いらしい)追従する。

「ねー。なんなのあのー、えもいわれぬ魅力のハダカはー?あれでホントに男の子ー?」

「流石は姫となられたナルキア様。そこいらの稚児や小姓など及びもつかぬ、凄まじいまでの色気であったぞ」

「俺…触られただけで童貞喪失するかと思ったっす」

「バカだー。ホンモノのバカのクソ童貞がいるよここにー。どうしようセト?」

「なんだよお前ら童貞を馬鹿にすんなっすよ⁉︎初夜がどうして『はじめてのよる』って書くか知らないっすか!あれは、お互いに童貞とか処女だからこそ成り立つんっす!もーお前ら、一生結婚できなきゃいいんすよ!」

「別に喪失してたってー、そんなの建前なんだから関係ないってー」

「そうだぞホルス。それにネフルもその辺にしておけ。我らがナルキア様は清童、それこそ『生少年』であらせられるのだぞ。童貞には違いないのだから」

 あまりに下品な会話に、シュウなどは辟易して参加しない。医術による治療の準備をしていたのが無駄になって機嫌が悪いのだ。ゲブはもともと喋らない。

「…それにしても遅くねっすか?大将とナルキア様…」

「そーいえばー、そうだよねー」

「そういえばっすけど、今夜もある意味じゃ『初夜』にあたるっすよね?」

「騎士たる大将閣下と、姫たるナルキア様の初めて過ごす夜、という意味でならそうであろうな」

 呵々大笑のコアラ人。それに乗っかり笑う鶏人とレッサーパンダ人。そして。

「あ」

 と、降りる沈黙。誰かの顎の先からテーブルの上に滴った汗、一滴の音。

「ヤバいっす!もし大将がナルキア様をっすよ、てってってっ、手篭めにしちゃったらっ」

「まーさかー!あのオセロウ様があのツンツンしたナルキア様とー?あり得ないありえ得ないー」

「よしんば閣下の手がお付きなったとしても、姫様は男であるからして大丈…いやダメなのか?判らぬ!拙者にはそんな羨ましい、いや難しいことは判らぬッ!」

 三銃士ならぬ三馬鹿の、仮定の上に妄想を乗算し悶絶する姿を冷めた目で眺めながら、

「なんなのこいつら。結局オセロウ様とナルキア様を信用してるの?してないの?」

「………」

 と顔を見合わせて呆れ果てているシュウとゲブであった。



続く

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オークトークス 鱗青 @ringsei

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