第5話 そうなんだ


オープンスクールのあの日からずっと探していたあの人は、探しても探しても見つからなかった。もしかして私は、幽霊とかが見える体質にでもなったのかもしれないなどと、大それたことを思う程には、先輩は姿を見せなかった。


ある日の学校帰りに、なんとなく海のある方に寄り道したとき、見つけたんだ。



「クラゲに刺されますよ。」



やっとの思いで先輩を見つけ出した頃には、私はもう春なんてすっかり通り越した夏の入り口に立っていた。



「わ、びっくりした…クラゲはまだこっちに来る時期じゃないよ〜…」



探していた横顔がそこにあった。

私は何でもよかった。

ただ先輩の視界に入れて欲しい一心で、特に意味の無いことを言った。

でも先輩は、私がつむぎ出した無茶苦茶な言葉を受け止めて、くすりと笑った。


その瞬間に6月の風が吹いてきて、肌を撫でる生温さにぞくりと鳥肌が立った。




「冗談に決まってるじゃないですか。」

「そうなんだ。」



私は少し恥ずかしくなって俯くと、ローファーと靴下を脱ぎ捨てて先輩の元へ走った。



「冷たくて気持ちいね。」

「ぬるい、です。」



嘘をついた、なんとなく。

海水が温くなるほど気温は高くない。先輩だってそんなことには気がついてたんでしょ。



「君はきっと暑がりなんだよ。」



やっとの思いで見つけた先輩は、やっぱり綺麗だった。

私なんかよりずっと肌が白くて髪もさらさらで。



「先輩が寒がりなんですよ。」



皮肉にも、学校ではなく海で再会した。

学校以外の場所で見つけるなんて思ってなかったのに。


先輩とはいつもこうだったんだ。

七瀬先輩は、私が全速力で先輩を追いかけていることにも気が付かなくて、諦めようとした時、素知らぬ顔で鼻歌を歌いながら空を飛んで私の元へやってくる。そんなところが少し苦手だった。






「あ、鈴菜ちゃん。」

「何で先輩が委員会にいるんですか。」


私に向かって「やっほー」なんて呑気に手を振っているが、意味がわからない。今まで先輩のクラスは他の人が委員会に出ていたはずだ。


「代理だよ、でも鈴菜ちゃんいるならこれからも来ちゃおうかな。」

「どうしたの、七瀬君の知り合い?」



なんかすごいこと言われたな、と思ったが、七瀬先輩は多分誰にでもそういうことを言ってしまうタイプなのだろうと思った。そうでなければ、ただ私をからかっているのだろう。もしもそうだとしたら私は先輩の【可愛い後輩】という立場にいるということなのだろうか、いや、それは違うな。何せ私は「クラゲに刺されるよ」なんて先走りすぎた発言をするような奴だ。ただの頭のおかしなやつにしか思われていないだろう。


七瀬先輩のことを、まるで自分の人生だけの登場人物だと思っていたわけではないが、あまりにも今まで姿を見なかったせいで麻痺していた。七瀬俊は、ものすごくモテる。



「うん、友達。」



友達だなんて、言わないで欲しい。先輩の横にいる女の人が、「そうなんだ」と小さく呟いたのが少し怖かった。失礼だな、でも事実である。そんなときに、ちょうど委員長がやってきたので私は自分の席に着いた。


私の隣にはクラスのもう一人の美化委員、深海 怜也だった。深海は私の方をじっと見たかと思うと、黒板に向き直って何事も無かったかのように、【1-6保健委員会】と黒いマジックで書かれた委員会ファイルに、その日の分のプリントを綴じた。


その頃の深海は私に話しかけたりなんてしなかった。どちらかと言えば、私のことを蔑んでいるようにも思えた。でもそれは、今となってしまえばただの被害妄想だったのかもしれない。



私は七瀬先輩の背中を眺めて、少し頬を緩めた。


「あの、」深海が私に向かって何かを言いたそうにしていた。まさか、委員会の最中に、七瀬先輩を見つめていたことを怒るつもりなのか、そう思い身構えると、すぐにそれが杞憂であったことが分かった。

深海がおもむろに差し出した手のひらに視線を移せば、そこには私の消しゴムがあった。

いつの間にか落としていたのだろう。「ありがとう」と一言言って受け取ると、深海は態とらしくそっぽを向いた。なんなんだ。


委員会も終わって、カバンを持つとすぐに廊下へ出た。疲れた、そんなふうに呟いてみると、少しだけ気分が晴れた気になる。



「お疲れ様。」


こんな独り言に反応してくるなんて思ってもみなかった。しかもその相手があの七瀬先輩で、少し戸惑いながら「お疲れ様です。」と返した。特にそれ以外話すこともなく、気まずさを感じたが、七瀬先輩は笑顔を崩さなかった。相変わらずその顔は綺麗だと思ったが、ずっと笑っている先輩に不信感も抱きつつあった。



「おい七瀬ー、なに一年にちょっかい出してんだよ。俺も呼べよな!」

「あはは、ごめんごめん。」



七瀬先輩の肩に手を回したその人は、私の方を見て「あ、星川先輩の妹?」と言ってきた。



「そうですけど…」

「やっぱり!!俺星川先輩が三年の時に一年だったんだよ、その時に妹の写真見せてもらってさ!やっぱりそうだと思った!」



饒舌だなあ、と思ったが、そんなことよりも兄貴が勝手に私の写真を見せびらかしている方が問題だ。名札で名前を確認すると、南と書いてあった。先輩はそんな私に気が付いて、自己紹介を始めたが、猫より犬派だとかピーマンが嫌いだとか聞いてもないような事もベラベラと語り出したのでほとんど聞き流していた。



「俺苗字女みたいで嫌いだから、海斗先輩って呼んで!」



そういえば、七瀬先輩も中性的な響きの苗字だ。別にどっちでもいいが、本人がそう呼ばれるのが嫌なら、そう呼ばないのが妥当だろう。

結局海斗先輩は、一方的にべらべらと喋ったかと思うと、「あっ、俺部活だから行くわ」と走って行ってしまった。



「海斗、よく喋るでしょ。」



そんな先輩の言葉に頷く頃には、もう昇降口に着いていたので、頭を下げて自分の学年の靴箱に向かった。

そこには、靴を履き替えている七海ちゃんの背中があったが、大して仲も良くないので、なるべく気が付かれないように、そろりそろりと近づいた。それでも、小さくスリッパと地面の擦れる音が鳴り、七海ちゃんが私の方を見た。




「あー、鈴菜ちゃん。」


いつもみたいに、ふにゃあっと笑った彼女は、一度立ち上がって、ローファーのつま先をコンコンと軽く打ち付けながら私に話しかけた。



「鈴菜ちゃんももう帰るの?」

「うん」



彼女の笑顔を見ると罪悪感を感じてしまうが、先程まで、あわよくば自分の存在に気が付くことなく、早くここをあとにしてくれればいい、と思っていたことを、微塵も感じさせないように返事をした。



人と関わるのが苦手なわけではないし、コミュニケーション能力が乏しいわけでもない。

だからと言って、海斗先輩のようにお喋りが大好きなわけでもないのだ。



「じゃあね」と次こそ去っていった七海ちゃんに手を振って、私も靴を履き替えて歩き出した。



「一緒に帰ろ」



正門に来たあたりで、自転車傍らに立っていた先輩に驚いて、私は「はぁ?」と可愛くない声を漏らした。



「あ、ごめんなさい。私バスなので。」

「でも同じ方向でしょ?自転車乗せてあげる。」



冷静になって断りを入れても、まるで意味のわからないといった様子の先輩は、自転車に跨った。



「僕こう見えて脚力あるよー」



自転車のベルを連続して鳴らす先輩が信じられなかった。私とは全く違う価値観を持っているのかもしれない、と思うことにしても、やはりこれはさすがに無いんじゃないかな。

そりゃあ私は正直、その状況がおいしくないわけじゃないけれど、まだ知り合ってそんなに経っていない先輩の自転車の後ろに乗って家まで送ってもらうなど、出来るわけがない。



「そういう問題じゃないです、それに先輩の家と同じ方向かなんて分かんないじゃないですか。」

「だって鈴菜ちゃん、星川先輩の妹でしょ?」

「そうですけど」

「僕もバスケ部だからお邪魔したことあるよ。」

「えっ、先輩部活サボるんですか。」

「やだなぁその言い方、気分転換だよ。毎日ボール追っかけてられないからさー。」




適当に会話を繋いでみたものの、先輩が家に来たことがあるということが胸に引っかかる。

妙に焦って、頭をフル回転させてその日を思い出してみようとするが、「変なとこ見られたかもしれない」という思いが脳みその大半を陣取ってしまったせいでうまく思い出せない。



「早く乗って、先生来るら。」



先輩は私の鞄を取ってカゴに入れると、私のほうを見てまたふわりと笑った。

私は耳が熱くなって、先輩の方を見れなかった。恐る恐る自転車の後ろに腰掛けると「ちゃんと掴まってないと落ちるよ」と脅されたが、それ以上くっついてしまえば何かが崩れ落ちて、取り返しがつかなくなるような気がしたので、「大丈夫です」と断った。



自転車の荷台をぎゅっと掴んだ。少し微妙な雰囲気になってしまった。それも私の思い込みだったのかもしれないが、とりあえず居心地が悪い、なんともむず痒い感じがしたので、慌てて言葉を付け足した。



「私の腹筋強靭なので、大丈夫です。」

「あははっ、そうなんだ。」




走り出した自転車は、心做しか少しゆっくりだった。私が先輩に掴まっていなくても落ちないくらい、ゆっくりだった気がした。







それからの先輩は、私に言った通り、委員会にいつも【代理】で出るようになった。

先輩は今まで見つけられなかったのが嘘みたいに、私の行く場所行く場所に現れるようになった。

立ち入り禁止の屋上に続く階段で、居心地の悪い昼休みを潰そうと思った時、先輩はそこに座ってパンをかじっていた。



「友達は?」

「今日は部活の友達と食べるらしいです。」

「そうなんだ。」



本当はそんなの嘘で、ただその【友達】とやらの話について行くことが出来なくなり、逃げてきただけだ。



「せっかくだから一緒に食べようよ。」



先輩が少し壁によってくれたから、私も隣に座った。距離が近くて恥ずかしかったけど、居心地がよかった。あの教室で、知らないアイドルの話に笑って相槌を打ち続ける何倍も。



「僕卵焼き好きなんだー。」

「なんですかその顔。」

「察してよ!」

「私察してちゃんは苦手です。」

「卵焼き食べたい、ください。」



どちらともなく吹き出した。



「いいですけど、美味しくないですよ?」

「鈴菜ちゃんが作ったやつ?」

「そうですけど。」

「だったら尚更食べたい。」

「好きにしてください。」




先輩は、私の箸で躊躇いなく卵焼きを食べた。



「ちょっと、」と先輩を咎めようとしたが、そうだ、七瀬俊だ。と変に納得してしまう。それにこの状況で箸を持っているのは私だけだから、仕方がないのかもしれない。



「うまぁ」


目を細めてそれを咀嚼する先輩を見て、私も頬を緩めた。




ある日は保健室にいた。


「失礼します。」

「あ、鈴菜ちゃん。どうしたの?」

「突き指しました、七瀬先輩こそどうしたんですか?」

「保冷剤取ってくるから、そこ座って保健カード書いててね。」




近くにあった椅子に座ると、先輩も隣に座った。私は怪我をした左手を膝に置いて、右手でペンを持った。



「熱出ちゃった。」

「え、寝てなきゃ駄目じゃないですか。」

「そうよ七瀬君、お迎えくるまで寝てなさい。あっ、これで冷やしてね。」


七瀬先輩は真っ赤な顔で、私に向かって「やぁだ」なんて小さい子みたいに口を尖らせながら言ってきた。この人、熱が出たら幼児退行するんだな。


ただの突き指だったから、そこまで長居するわけにもいかず、私は椅子から立ち上がった。



「もう行っちゃうの?」

「授業中なので。先輩もちゃんと寝てくださいね。」

「んー、たぶん。」

「ちゃんと寝て、ちゃんと治してください。今週末委員会ですよ、先輩が代理しないとクラスの人困っちゃいます。」

「そうかなぁ。」

「そうですそうです。」

「そうなんだ、じゃあ寝るね。」



私は保健室を出て、少しの間そこに立っていた。先輩の前では喋りすぎてしまう。その割には素直になれない。本当はただ先輩に元気になって欲しかっただけなのだけれど、それをまっすぐ伝えるには恥ずかしいから、私は委員会を言い訳にした。



ある日は食堂で、ある日は体育館裏で、ある日は正門で。




「今日部活ないから一緒に帰ってよ。」

「…しょうがないから、一緒に帰ってあげます。」

「ちゃんと掴まっててね。」

「はい、最近運動不足で腹筋が行方不明になってしまったので。」

「あははっ、そうなんだ。」






そんな風にして、私は先輩のことを、段々好きになっていったんだ。重ね着の枚数が増える毎に、私の想いも積もっていった。

自分はみんなと違って、先輩のこと好きになんてならない、ただの憧れの人だ。そう言い聞かせていたけれど、私もどうやらその【みんな】に含まれていたらしい。




春、私は二年生、先輩は三年生になった。



「鈴菜ちゃん委員会何入るの?」

「美化委員会です。」

「じゃあ僕もそうしよっかなぁ。」

「先輩はそういうのが多いです、何かにつけて私が何々だから自分もこうしようって。そういうの、誤解を生みますよ。」

「えぇ、そのままなんだけど。」

「先輩はただでさえ何考えてるか分からないので、勘違いしそうになります。」

「…してもいいよ。」



またむず痒い空気になったので、私は何か言葉を紡ごうとしたが、餌を求める金魚のように口をぱくぱくさせることしか出来なかった。

先輩は、何事も無かったかの様に新しく公開する映画の話を始めたが、私はそれに適当に相槌を打つしかなかった。












_____






レバーが好きな深海にレバーが嫌いな弟がいて、私のお皿にレバーをどんどん増やしていったり、枕の高さが私のと違って少し高くて眠れなかったり。昨日は無駄に気疲れした。

おまけに今日は昨晩の余りのレバーが弁当に入っている。



自分が始めた事だが、あまりにも疲れた。自分以外の人の体、しかも異性の。用を足したくなったり、一日一度は入浴しなくてはならなかったり。


元の世界に戻った時、深海に向ける顔がないではないかと思った。


ところで、当たり前に元の世界へ戻れると思って疑わなかったが、本当のところはどうなのだろう。元の世界へは戻れるのだろうか。





1人教室の隅で弁当箱のレバーをつまみ上げながらふと考えた。


レバーはやっぱり食べられない。



レバーを残して弁当箱を片付けると、鞄にしまい込んでいた例の本を取り出して、パラパラと捲ると、〈差し出した代償について〉といういかにもと言った感じのページにたどり着いた。







_______





差し出してもらうのは貴方の時間だ。

貴方とその相手の間の最も濃い所から今日に至るまでの時間。

忘れたい相手との記憶を消すのだ。それなりの代償をいただかなければ、こちら側の世界の釣り合いも取れぬ。


もし、過去や未来を大幅に変えようとしている者がこの儀式を悪用するようであれば、その者は一生、時の狭間をさまよい続けることとなるだろう。儀式を最後まで執り行うことができなかった場合も同様である。


貴方がやり直した時間が現在に追いつく新月の日の夜、儀式を執り行った場所に行くこと。

その日の行動についての詳細は本書246ページを見るように。尚、そのページはその日の前日まで決して読んではならない。

もし読んでしまえば、その場合もまた、誰にもその存在を認識されること無くただ独り、その命尽きるまで時の狭間をさまよい続けることとなるだろう。




________






ぱたん、と勢いよくそれを閉じた。濃い所、というのは多分、私達の関係が名前を変えた所という意味なんだろう。

それにしても随分と脅すな、当たり前か。

独りで何十年も過去と現在の間にいるなんてどんな拷問なのだろう、私には全く想像がつかない。



そんなことより、今日は先輩が私に告白をする日だった。

早速、大幅に過去を変えてやりたいと思ってしまった。

でもそんなことしたら、私は独りでその辺をさまよい続けることになるんだ。

もしかするとそれは、死んでしまうことよりも苦しいのかもしれない。


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