第4話 君は誰だ



先輩はもう卒業している筈なのに制服を着ている。やはり、少しだけ時間が戻っているんだろうか。


先輩は私の方を向くと、吹き出した。



「りょーくん、渾身の演技だね。笑っちゃうよ。」

「は…」

「本当に記憶がなくなったみたいな顔しちゃってさ。」




先輩は時々、本当に時々、形容し難い目を向けてくることがある。

無理に表現してみるとすれば、心の内側を覗き込むような目。そのくせその目から先輩の心の内側を見ることは出来ない。

厄介だ。




「お、俺こういうごっこ遊びは真面目にやる方だから。」



先輩は、「へぇ」と呟くと右側の口角を上げた。こういう顔の時はなんだかいつもより鋭いんだよなあ。

ぽわぽわした空気が飛んでいくんだ。




「君は、誰だ…?」

「何言ってんだよ、俺は」



隣を歩いていた先輩が、正面に回り込んで立ち止まったかと思うと、徐々に顔を近づけてくる。


近い、心臓の音が聞こえそう。

目をぎゅっと瞑ると、耳に先輩の息がかかって体が強ばった。



「なんか、変わったね。」





唖然とする私を置いて、先輩はもう一度歩き始めた。




「あのっ…」

「俊、でしょ。いつもそう呼んでた。よそよそしくしないで。」




俊だなんて、私は一度も呼んだことが無い。だから私には全然関係ない、先輩と深海が共有した記憶のうちのひとつなはずなのに。どうしてこうも、「よそよそしくしないで」というフレーズが、私の胸を刺すのだろう。




変なの、私この人のこと嫌いなのに。

あんなに酷いことされたのに。

本当はまだ好きだから、息が詰まってしまうのかな。それとも、この人のことが嫌いすぎて苦しいのかな。

もういっぺんに色々起きすぎて、私のちっちゃな脳みそじゃ処理しきれないよ。






「記憶喪失だから、ごめん、覚えてない。」

「うん、僕もごめんね。」




七瀬先輩はいつもみたいに笑った。

嫌だ、もう先輩とは居たくない。

嫌いなんだよ、大ッ嫌いなんだよ。

でも先輩に対して強く出られないのは、私がまだ弱いからなのだろうか。





その後は、特に先輩の様子がおかしくなることは無かった。

どうやら今私がいる世界は、ちょうど一年前の今日らしい。


私が先輩への憧れを恋に変え始めた頃だった。


皮肉にも、私は私としてここへ戻ってくることは許されなかった。あと何日、ここにいなければならないのだろう。


仕方が無いのかもしれない。

先輩の分の記憶、全てを消す代償だ。

それなりの大きさが必要なのであろう。

セピアの色をした瞳をはっきりと捉えられるこの距離で、私はただひっそりと、深海怜也という人間を演じるしかないのだ。




「りょーくんさぁ、星川鈴菜って子知ってる?」




それでもやっぱり、あの日には着々と近づいている自分達を傍観することになるこの位置は、良いものではない。



知ってる、と言ったらどうなるんだろうか。〈星川鈴菜〉の悪口を言うかな、それとも自分のことを好きかもしれないと言って笑うかな。

そのくらい言ってくれた方が、心置き無くこの儀式を成し遂げられるかもしれない。



「知ってる、一年の時同じクラスだった。」

「へぇ、りょーくんも人に興味とかあったんだね。」





なんなんだ、この人は深海をなんだと思っているんだ。そこまで人に興味が無いと…あ、あぁ、確かに深海は最初私の名前をまともに覚えちゃいなかった。




「星名さんおはよう。」

「深海、私は星川さんだって。覚えるつもりあんの?」

「え、あー、そっか。ごめんごめん。」



そう考えたら余計に意味が分からない。なんで深海は私に近づいたんだろう。




「明日その子と委員会の仕事があるんだ。」




えっ、もしかして。

嘘でしょ、嫌だよ。いざ直前になると、覚悟が決まらない。




「僕ね、」




やめて先輩、夢でも幻でも、そんなことは聞きたくない。

受け入れることなんて、無理なのかもしれない。

いくら後で綺麗さっぱり忘れられるとしても、今を耐え抜く力なんて。

私には、ないのかもしれない。




「明日告白しようと思ってる。」






始まるんだ、またあの目を開くことが出来ないほどの眩し過ぎる日々が。





「緊張しちゃってさ、りょーくんに話したくて。」

「そっか。」

「うん、ありがとう聞いてくれて。」

「ううん、聞いただけだよ。」

「じゃあね、りょーくん。」




深海という表札の目の前で別れを告げ去っていくその背中が、あの時と重なる。



「俊、その、やっぱりそれはやめた方がいいんじゃない?」



ぴたりとその背中が止まって、こちらに顔を向けた。



「なんで?もしかしてりょーくんも好きなの?鈴菜ちゃんのこと。」

「…そういうことじゃない。」



勢いで言ってみたけど、どうすればいいのかなんて分からない。



「じゃあいいよね。」

「なんで、なんで告白したいの。」



図々しいだろうか、でももう取り返しはつかない。



「えー、それ聞いちゃう?」



またそうやってふざけて。

私に告白したのだって本当は、先輩のいつものおふざけだったんでしょ。







「もう我慢できそうになくてさ、好き過ぎて。」






…は、何よその顔。なんで私の前では見せてくれなかったの、そんな真っ赤な顔。





「馬鹿じゃないの…」

「あれ?次は女の子ごっこ?」

「っ、違う!!せいぜい頑張れば良いよ!じゃあね、俺腹減ったから!」





先輩は大笑いした。


振られてしまえばいいのにこんな人…あぁ、でもこの時の私は今の私じゃないんだもんな。

なんだ、すごくモヤモヤする。





「ただいま。」




少し緊張しながら玄関の扉を開けると、リビングから母親らしき人の声が聞こえた。



この家で上手くやっていけるのか、正体がバレてしまわないか。不安にはなったが、まさか自分の家族の中身が赤の他人だとは思わないだろう。



だから多分だいじょ、





「おかえり、今日はレバニラよ。怜也この間食べたいって言ってたでしょ。」




ばないかもしれない…



「レ、レバニラって、レバーとニラのレバニラ…?」

「なぁに、それ以外何があるの?ほら、早く着替えてきなさい。怜也の分のレバー多めにつけとくから。」




深海、私には理解ができません。

あの独特な臭みを持つ臓器の炒め物を好むあんたの気持ちが、どうやったって理解できません。

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