3
毎日自室に引きこもり、落ち窪んだ瞼から除く殺気めいた眼光に、僕はいつも怯えていた。
また暴力を振るわれるのではないか、罵詈雑言を浴びせてくるのではないか。
最悪――殺されるんじゃないか、と。
僕は枕元に包丁やサバイバルナイフを隠し、深く眠れぬ夜が続く。
だけど仕事は忙しかった。
寝るために帰ってくる家。休みもほとんどなく、ひと月の残業時間は100を越えていた。
それでも奨学金や生活費のために転職も考えることが出来ず、ふらふらの体に鞭打って仕事へ。
限度を超える疲労。
家に帰っても安らげず、時折聞こえる母と兄の怒号に耳を塞ぎ、大きな物音が響く恐怖の夜をじっと堪えながら過ごす毎日。
その頃からだ、ときどき息が苦しくて心臓の脈がおかしくなったのは。
それが動悸であることを知ったのは、これが病気なのか携帯で調べたときだ。
でも息苦しくなるだけだし、と放っておくようになったら、寒くもないのに耳に激痛が走るようになった。
寒い日に自転車漕いでるとなる、耳がキーンと痛くなるアレが、もっと痛くなったやつだ。
夜も眠くても寝れず。
車での通勤中、涙が溢れて腕に爪を立てた。血が滲んだ。
家ではこっそり肩にハサミで傷をつけた。切れ味が悪いから深く切れずに痕も残りにくいから。力をこめて自分に傷をつくる。
痛い。けど、この衝動を誰にも向けたくなかったし、物に八つ当たりは出来なかった。
誰にも気付かれたくなかった。
この痛みも、涙も。
助けて、と小さく漏らした声。もうヒーローが助けにくることなんてないのに。
残業が多くても貰える給料は少ない。
なけなしのお金を借金と生活費に使い、趣味につぎ込むことも出来ず、そもそも読書に費やす時間もなくて。
頑張って働いてもお金は消えて、休みの日も部屋の隅で耳を塞いで縮こまって。
僕は枕にナイフを突き立てて、何度も何度も何度も刺して切り裂いて。
母に「何してるの!?」と声をかけられたとき、我に返った。
泣きながら枕をボロボロにしていた僕に、母は眉を顰めていた。
ドン引きしてるな、と冷めた僕が心の中で言う。
そしてもう限界だな、とも。
自分がうつ病なのかどうか、正直僕はずっと判断しかねていた。
だけど物に当たった時点で、僕は理性の箍が外れていると思った。もしまた同じように箍が外れたとき、今度は「物」ではなく「人」に衝動を向けてしまうかもしれない。
僕はそこで自分が正常ではないと考えて、ようやく精神科へ行くことを決めた。
薬を貰った。だけど飲み続けても環境が変わらなければ、意味が無かった。
いっそ兄を殺してしまおうかと思った。
何度も兄を殺す夢を見た。
精神的に弱い母は、常に兄の前では気丈だった。
でも僕は知ってる。母は友人や自分の親に電話し「私の育て方が悪かったのかな」と泣いていたことを。
僕は己の非力さに泣いた。
兄の暴走が日に日に大きくなり、ついに警察を呼ぶ自体になった。
これで少しは懲りると思ったが、兄は変わらなかった。
何度か警察を呼ぶようになってしまった。
捕まればいいのに、と僕は思っていた。
仕事から帰り、食欲もなくベッドへ潜る。
風呂に入らないと、とぼんやり考えていると部屋の外でまた兄と母が対立していた。
叫ぶように言い合う二人の声。
バタンッ、ドタンッとドアを力強く開ける音や壁を殴る音。
またか、と震える体を縮こませ、手元に携帯と包丁を携える。
怖くて怖くて堪らない。
吐きそうだった。
怖くて震えるってこういうことなんだなと、どうでもいいことばかり考えて。
でもその日は違った。
母がドア越しに「警察呼んで!」と叫んだ。
痛い、という母の声が聞こえた。
僕は無我夢中で警察に電話した。
声が震えてうまく話せない。
明日も仕事なのに寝れないなと冷静な僕が心の中で言う。
ずいぶんと遅く感じたけど、時間を見ればものの数分で到着した警官。
兄は母を突き飛ばしただけだったようだけど、警察署に連行されていく。
とりあえず一晩は署で預かりますと言われた。
僕は母と話した。
どうする、と。
僕は兄と縁を切ろうと言った。被害届出して、少しでもいいから拘留してもらおうよ、と。
でも母は大丈夫と笑った。それでも私の息子だから、縁は切りたくない、と。
そっか、と言いながら。僕は「じゃあ、僕たちの人生はどうなるの」とは言えなかった。
仕事は休みにしてもらった。
馬鹿正直に上司には話した。母が働きに出られなくなってから、一応相談はしていたので理解してもらえた。
仕事はツライけど、上司には恵まれていた。
僕は警察署に出向いた。兄を迎えに。
署で兄と少し話した。警官もいたので、僕は震える体と声で必死に何かしゃべった。
正直何を話したのか覚えていない。兄は泣いていた。
一緒に家に帰る。
これで家族が元通りに戻ればいい、と淡い希望を抱いて。
兄には少しだけ玄関で待ってもらい、ひとまず母と話そうと先に家の中へ。
探せど探せど母の姿が見当たらない。
嫌な予感。
お母さん、お母さん、と呼びながら不安に駆られる。
一度見たはずの母の部屋をもう一度開けると、紐で己の首を絞める母の姿。
なんとかそれを阻み、僕は引き攣る笑みを浮かべて母を宥めた。
―――――もう無理だ。元に戻るなんて、なんて馬鹿げた理想を抱いたのだろうか。
この家族はもうとっくに終わってる。
辛うじて「家族ごっこ」してるだけなんだ、と。
兄が家に戻ってきて、だけど兄はやはり何も変わらなかった。
痛い痛い痛い からつぽ @kara0
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