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 毎日自室に引きこもり、落ち窪んだ瞼から除く殺気めいた眼光に、僕はいつも怯えていた。

 また暴力を振るわれるのではないか、罵詈雑言を浴びせてくるのではないか。

 最悪――殺されるんじゃないか、と。

 僕は枕元に包丁やサバイバルナイフを隠し、深く眠れぬ夜が続く。


 だけど仕事は忙しかった。

 寝るために帰ってくる家。休みもほとんどなく、ひと月の残業時間は100を越えていた。

 それでも奨学金や生活費のために転職も考えることが出来ず、ふらふらの体に鞭打って仕事へ。


 限度を超える疲労。

 家に帰っても安らげず、時折聞こえる母と兄の怒号に耳を塞ぎ、大きな物音が響く恐怖の夜をじっと堪えながら過ごす毎日。

 その頃からだ、ときどき息が苦しくて心臓の脈がおかしくなったのは。

 それが動悸であることを知ったのは、これが病気なのか携帯で調べたときだ。

 でも息苦しくなるだけだし、と放っておくようになったら、寒くもないのに耳に激痛が走るようになった。

 寒い日に自転車漕いでるとなる、耳がキーンと痛くなるアレが、もっと痛くなったやつだ。


 夜も眠くても寝れず。

 車での通勤中、涙が溢れて腕に爪を立てた。血が滲んだ。

 家ではこっそり肩にハサミで傷をつけた。切れ味が悪いから深く切れずに痕も残りにくいから。力をこめて自分に傷をつくる。



     痛い。けど、この衝動を誰にも向けたくなかったし、物に八つ当たりは出来なかった。

     誰にも気付かれたくなかった。

     この痛みも、涙も。

     助けて、と小さく漏らした声。もうヒーローが助けにくることなんてないのに。



 残業が多くても貰える給料は少ない。

 なけなしのお金を借金と生活費に使い、趣味につぎ込むことも出来ず、そもそも読書に費やす時間もなくて。

 頑張って働いてもお金は消えて、休みの日も部屋の隅で耳を塞いで縮こまって。



  僕は枕にナイフを突き立てて、何度も何度も何度も刺して切り裂いて。

  母に「何してるの!?」と声をかけられたとき、我に返った。

     泣きながら枕をボロボロにしていた僕に、母は眉を顰めていた。

     ドン引きしてるな、と冷めた僕が心の中で言う。

     そしてもう限界だな、とも。



 自分がうつ病なのかどうか、正直僕はずっと判断しかねていた。

 だけど物に当たった時点で、僕は理性の箍が外れていると思った。もしまた同じように箍が外れたとき、今度は「物」ではなく「人」に衝動を向けてしまうかもしれない。

 僕はそこで自分が正常ではないと考えて、ようやく精神科へ行くことを決めた。



     薬を貰った。だけど飲み続けても環境が変わらなければ、意味が無かった。

     いっそ兄を殺してしまおうかと思った。

     何度も兄を殺す夢を見た。



 精神的に弱い母は、常に兄の前では気丈だった。

でも僕は知ってる。母は友人や自分の親に電話し「私の育て方が悪かったのかな」と泣いていたことを。

 僕は己の非力さに泣いた。



     兄の暴走が日に日に大きくなり、ついに警察を呼ぶ自体になった。

     これで少しは懲りると思ったが、兄は変わらなかった。

     何度か警察を呼ぶようになってしまった。

     捕まればいいのに、と僕は思っていた。



 仕事から帰り、食欲もなくベッドへ潜る。

 風呂に入らないと、とぼんやり考えていると部屋の外でまた兄と母が対立していた。

 叫ぶように言い合う二人の声。

 バタンッ、ドタンッとドアを力強く開ける音や壁を殴る音。

 またか、と震える体を縮こませ、手元に携帯と包丁を携える。

 怖くて怖くて堪らない。

 吐きそうだった。

 怖くて震えるってこういうことなんだなと、どうでもいいことばかり考えて。



     でもその日は違った。

     母がドア越しに「警察呼んで!」と叫んだ。

     痛い、という母の声が聞こえた。

     僕は無我夢中で警察に電話した。

     声が震えてうまく話せない。

     明日も仕事なのに寝れないなと冷静な僕が心の中で言う。



 ずいぶんと遅く感じたけど、時間を見ればものの数分で到着した警官。

 兄は母を突き飛ばしただけだったようだけど、警察署に連行されていく。

 とりあえず一晩は署で預かりますと言われた。

 僕は母と話した。

 どうする、と。



     僕は兄と縁を切ろうと言った。被害届出して、少しでもいいから拘留してもらおうよ、と。

     でも母は大丈夫と笑った。それでも私の息子だから、縁は切りたくない、と。

     そっか、と言いながら。僕は「じゃあ、僕たちの人生はどうなるの」とは言えなかった。



 仕事は休みにしてもらった。

 馬鹿正直に上司には話した。母が働きに出られなくなってから、一応相談はしていたので理解してもらえた。

 仕事はツライけど、上司には恵まれていた。


 僕は警察署に出向いた。兄を迎えに。

 署で兄と少し話した。警官もいたので、僕は震える体と声で必死に何かしゃべった。

 正直何を話したのか覚えていない。兄は泣いていた。

 一緒に家に帰る。

 これで家族が元通りに戻ればいい、と淡い希望を抱いて。



     兄には少しだけ玄関で待ってもらい、ひとまず母と話そうと先に家の中へ。

     探せど探せど母の姿が見当たらない。

     嫌な予感。

     お母さん、お母さん、と呼びながら不安に駆られる。

     一度見たはずの母の部屋をもう一度開けると、紐で己の首を絞める母の姿。

     なんとかそれを阻み、僕は引き攣る笑みを浮かべて母を宥めた。




 ―――――もう無理だ。元に戻るなんて、なんて馬鹿げた理想を抱いたのだろうか。

 この家族はもうとっくに終わってる。

 辛うじて「家族ごっこ」してるだけなんだ、と。




 兄が家に戻ってきて、だけど兄はやはり何も変わらなかった。


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痛い痛い痛い からつぽ @kara0

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