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 痛みに強くなったことは、純粋に喜ばしいものでもあった。

 兄に殴られても蹴られても、今までのような恐怖心が芽生えることがなくなったから。

 恐怖心がなくなると、僕は前よりも強くなれたような気がした。

 僕は言った。「もうお小遣いは渡さないよ」

 そのとき、何故か兄は怒らなかった。ふーん、と。ただそれだけ。

 身構えていたぶん肩透かしに面食らったが、殴られなかったことには安堵した。


 僕は、そのときから――“勇気”を持てるようになった。

 勇気を持つと、本当になんでも出来た。

 兄と喧嘩したときも、いつもビクビク怯えて泣いていた僕は、反論するようになった。


「いつも殴るよな! それしか出来ねーのかよ!」

「殺したければ殺せばいいだろ! どうせ出来ないくせに!」

「言い返してみろよ! なんだよ、結局また暴力で解決するつもり?」

 反論というよりは「煽っていた」のかもしれない。

 でも、僕は言いたいことが言えて嬉しかった。

 僕は強くなれた、気がしていた。



     僕が強く言い返すようになって、兄が暴力を振るう回数が減った。

     でも、その度に家の壁に穴が空いた。

     僕は呆れていた。

     兄は感情を抑制出来ない人間で、本当は臆病な人間だった。

     僕はそのことに、やっと気付いた。



 僕が高校生に上がった頃、僕と兄は、きっと少し歩み寄れた。

 喧嘩以外でも話をするようになった。

 でも、元々話が合うわけではなかったので、本当に挨拶とか、連絡事項みたいな感じの程度。

 それでも今までに比べれば大きな進歩だった。



     だけど僕は兄がどんな気持ちで殴っていたのか聞かなかった。

     兄も僕に何かを問うことはなかった。

     歩み寄れた、と思っていたのは、

     もしかしたら僕だけだったのかもしれない。

     上っ面の関係。

     僕らは、――最初から接し方を間違えていたのだろう。



 兄が高校を卒業して、自衛隊へ入隊した。

 それからはもう、僕と兄は連絡することはなかった。

 母伝手づてから聞く兄の様子。

「もう辞めたい」とほぼ毎日、電話がきていたそうだ。

 どうやら自衛隊自体、入隊を渋っていたらしかった。

 本当は大学に行きたかったそうだが、残念なことに兄の学力では偏差値が底辺大学でも、難しかったらしい。

 元来、バイトも長続きせず転々としていた兄が、まともに就職出来ると母も思っておらず、それで自衛隊を勧めたそうだ。


 しかし、時々家に帰ってきた兄は、けっこうハメを外しているように僕には思えた。

 大きい画面のテレビや、何かのアニメのフィギア、パソコン、ブランド物のスーツや私服。

 どれだけ給料が入っていたかは知らないし、どれだけ本気で「辞めたい」と言っていたかは知らないが、僕には満たされた生活を送っているように見えた。



     自衛隊に入隊してから、兄は優しくなった。

     「糞ババア」と怒鳴っていた母に対しても気を遣い。

     何故か僕に対しても「昔は悪かった」と謝るようになり。

     僕は、ようやく『普通の家族』になれたんだと思った。



 僕は高校を卒業し、専門学校へ通うことを選んだ。

 勉強はそれほど好きではなかったし、資格とって就職し、念願の一人暮らしをしたかったのだ。

 奨学金も自分で払いながら、せっせとバイトし、専門学校で調理を学ぶ日々。

 あの頃、僕は充実していた。

 大雑把ではあるが人生の未来設計もしており、貯蓄もしていた。

 僕は、初めて未来をどう生きるか、考えることが出来るようになっていたのだ。


 ―――――でも、僕の考えは甘かったのだ。



     僕が就職して1年目の冬、一人暮らしする部屋を色々調べていた時期だ。

     兄が自衛隊を辞めて帰ってきた。

     そこから僕のどん底は始まる。

     そう、―――今までの「痛み」なんて、まだ序の口だったのだ。


     僕は知らなかった。

     「痛み」にはこんなにも種類があることを。

     僕は知らなかった。

     「絶望」が、どういうものかを。



 兄は家に帰ってきて、自分もなにか資格をとりたいと、僕が通っていた専門学校へ入学した。

 お金は退職金があるから大丈夫だと、心配する母に笑って言っていた。

 専門学校へ入ってからも、バイトをすることもなく。

 大丈夫大丈夫、お金あるから。そう笑っていた。

 でも、兄は学校でクラスメイトの女の子と恋に落ちた。

 毎週毎週ディズニーランドへデートし、交通費もデート費用も、全部兄が支払っていたらしい。


 そして兄は、唐突に彼女と駆け落ちした。

 駆け落ち。

 最初聞いたとき、僕は失笑したことを覚えてる。

 そんな漫画やドラマの世界じゃあるまいし、と。

 ――付き合い始めて3ヶ月の、その彼女。どうやら地主の家のお嬢様だったそうだ。

 彼女の家族から交際を反対され、二人は自棄を起こしたようだ。


 正直、僕は彼女の家族の意見が正しいと思う。

 何故なら兄も彼女も専門学生で、無職だ。二人ともバイトすらしてない。

 結婚を考えていたらしいが、まるで中高生の恋愛漫画のような計画性の無さに、僕は感服した。――いや、今時の中高生の方がもっと現実的かもしれないが。


 閑話休題。

 兄と彼女は駆け落ちし、行方不明となり。

 毎日のように彼女の親から母の携帯に連絡が来るようになり。

 元々精神が弱い母は、仕事に行けなくなり。

 家と母を支えるべく、僕は一人暮らしを断念した。



     駆け落ちから一ヶ月後、二人は戻ってきた。

     お金がなくなり、車も事故ったらしく足も無くなったからだ。

     ――事故は、人身じゃなくて良かったけど、弁償金は僕が払った。

     そして、もう一つ発覚したこと。

     兄が専門学校の入学金を払ってなかったらしいのだ。



 当時、兄が入学する際、どうもまだ退職金が入っておらず、実は頭金だけ母に借り、それを学校に払ったそうだ。

 お金が入ったら必ず払います、と約束して。

 しかし、兄は退職金が入っても支払わず、駆け落ちし、兄とも連絡とれなくなった学校が母に連絡し、そこで初めて母も知った事実だった。

 駆け落ちから戻り、お金の話をすれば「金があるわけねーだろ!」と逆ギレ。

 結局、兄と彼女は破局。

 学校からも長期の無断欠席と入学金の問題で退学を言い渡され、それでも入学金は請求されたので分割で支払うことを約束し、この件は落ち着いた。



     金は働いて返すから。

     そう言った兄は、仕事を探すだけで就職しない。

     ようやく職に就いたと思いきや、一ヶ月保たず、辞める。

     それから半年後――兄はニートになった。





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