2
痛みに強くなったことは、純粋に喜ばしいものでもあった。
兄に殴られても蹴られても、今までのような恐怖心が芽生えることがなくなったから。
恐怖心がなくなると、僕は前よりも強くなれたような気がした。
僕は言った。「もうお小遣いは渡さないよ」
そのとき、何故か兄は怒らなかった。ふーん、と。ただそれだけ。
身構えていたぶん肩透かしに面食らったが、殴られなかったことには安堵した。
僕は、そのときから――“勇気”を持てるようになった。
勇気を持つと、本当になんでも出来た。
兄と喧嘩したときも、いつもビクビク怯えて泣いていた僕は、反論するようになった。
「いつも殴るよな! それしか出来ねーのかよ!」
「殺したければ殺せばいいだろ! どうせ出来ないくせに!」
「言い返してみろよ! なんだよ、結局また暴力で解決するつもり?」
反論というよりは「煽っていた」のかもしれない。
でも、僕は言いたいことが言えて嬉しかった。
僕は強くなれた、気がしていた。
僕が強く言い返すようになって、兄が暴力を振るう回数が減った。
でも、その度に家の壁に穴が空いた。
僕は呆れていた。
兄は感情を抑制出来ない人間で、本当は臆病な人間だった。
僕はそのことに、やっと気付いた。
僕が高校生に上がった頃、僕と兄は、きっと少し歩み寄れた。
喧嘩以外でも話をするようになった。
でも、元々話が合うわけではなかったので、本当に挨拶とか、連絡事項みたいな感じの程度。
それでも今までに比べれば大きな進歩だった。
だけど僕は兄がどんな気持ちで殴っていたのか聞かなかった。
兄も僕に何かを問うことはなかった。
歩み寄れた、と思っていたのは、
もしかしたら僕だけだったのかもしれない。
上っ面の関係。
僕らは、――最初から接し方を間違えていたのだろう。
兄が高校を卒業して、自衛隊へ入隊した。
それからはもう、僕と兄は連絡することはなかった。
母
「もう辞めたい」とほぼ毎日、電話がきていたそうだ。
どうやら自衛隊自体、入隊を渋っていたらしかった。
本当は大学に行きたかったそうだが、残念なことに兄の学力では偏差値が底辺大学でも、難しかったらしい。
元来、バイトも長続きせず転々としていた兄が、まともに就職出来ると母も思っておらず、それで自衛隊を勧めたそうだ。
しかし、時々家に帰ってきた兄は、けっこうハメを外しているように僕には思えた。
大きい画面のテレビや、何かのアニメのフィギア、パソコン、ブランド物のスーツや私服。
どれだけ給料が入っていたかは知らないし、どれだけ本気で「辞めたい」と言っていたかは知らないが、僕には満たされた生活を送っているように見えた。
自衛隊に入隊してから、兄は優しくなった。
「糞ババア」と怒鳴っていた母に対しても気を遣い。
何故か僕に対しても「昔は悪かった」と謝るようになり。
僕は、ようやく『普通の家族』になれたんだと思った。
僕は高校を卒業し、専門学校へ通うことを選んだ。
勉強はそれほど好きではなかったし、資格とって就職し、念願の一人暮らしをしたかったのだ。
奨学金も自分で払いながら、せっせとバイトし、専門学校で調理を学ぶ日々。
あの頃、僕は充実していた。
大雑把ではあるが人生の未来設計もしており、貯蓄もしていた。
僕は、初めて未来をどう生きるか、考えることが出来るようになっていたのだ。
―――――でも、僕の考えは甘かったのだ。
僕が就職して1年目の冬、一人暮らしする部屋を色々調べていた時期だ。
兄が自衛隊を辞めて帰ってきた。
そこから僕のどん底は始まる。
そう、―――今までの「痛み」なんて、まだ序の口だったのだ。
僕は知らなかった。
「痛み」にはこんなにも種類があることを。
僕は知らなかった。
「絶望」が、どういうものかを。
兄は家に帰ってきて、自分もなにか資格をとりたいと、僕が通っていた専門学校へ入学した。
お金は退職金があるから大丈夫だと、心配する母に笑って言っていた。
専門学校へ入ってからも、バイトをすることもなく。
大丈夫大丈夫、お金あるから。そう笑っていた。
でも、兄は学校でクラスメイトの女の子と恋に落ちた。
毎週毎週ディズニーランドへデートし、交通費もデート費用も、全部兄が支払っていたらしい。
そして兄は、唐突に彼女と駆け落ちした。
駆け落ち。
最初聞いたとき、僕は失笑したことを覚えてる。
そんな漫画やドラマの世界じゃあるまいし、と。
――付き合い始めて3ヶ月の、その彼女。どうやら地主の家のお嬢様だったそうだ。
彼女の家族から交際を反対され、二人は自棄を起こしたようだ。
正直、僕は彼女の家族の意見が正しいと思う。
何故なら兄も彼女も専門学生で、無職だ。二人ともバイトすらしてない。
結婚を考えていたらしいが、まるで中高生の恋愛漫画のような計画性の無さに、僕は感服した。――いや、今時の中高生の方がもっと現実的かもしれないが。
閑話休題。
兄と彼女は駆け落ちし、行方不明となり。
毎日のように彼女の親から母の携帯に連絡が来るようになり。
元々精神が弱い母は、仕事に行けなくなり。
家と母を支えるべく、僕は一人暮らしを断念した。
駆け落ちから一ヶ月後、二人は戻ってきた。
お金がなくなり、車も事故ったらしく足も無くなったからだ。
――事故は、人身じゃなくて良かったけど、弁償金は僕が払った。
そして、もう一つ発覚したこと。
兄が専門学校の入学金を払ってなかったらしいのだ。
当時、兄が入学する際、どうもまだ退職金が入っておらず、実は頭金だけ母に借り、それを学校に払ったそうだ。
お金が入ったら必ず払います、と約束して。
しかし、兄は退職金が入っても支払わず、駆け落ちし、兄とも連絡とれなくなった学校が母に連絡し、そこで初めて母も知った事実だった。
駆け落ちから戻り、お金の話をすれば「金があるわけねーだろ!」と逆ギレ。
結局、兄と彼女は破局。
学校からも長期の無断欠席と入学金の問題で退学を言い渡され、それでも入学金は請求されたので分割で支払うことを約束し、この件は落ち着いた。
金は働いて返すから。
そう言った兄は、仕事を探すだけで就職しない。
ようやく職に就いたと思いきや、一ヶ月保たず、辞める。
それから半年後――兄はニートになった。
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