痛い痛い痛い

からつぽ



 痛みは自分だけのものだ。

 自分以外の人が同情したところで、その痛みがどれだけ強いのか、どこが痛いのか、完全に理解出来るわけがないのだ。

 同じように殴られた人がいても、その人の体格や痛みに対する耐性も、誰一人として「全く同じ」なんて人はいないだろう。


 痛い。


 物理的な痛みも。精神的な痛みも。

 どちらにせよ痛くて苦しいものだ。


これは―――僕の痛みの、単なる愚痴の話である。




短編 「痛い痛い痛い」



 僕が殴られるようになったのは、実際のところ“いつから”だったのか。正直言って僕はあまり記憶してない。物心ついたときには殴られ、蹴られ、罵声を浴びせられていたから。

 僕には兄がいる。

 今なら分かっていることだが、兄は愚鈍で血の気の多い、しかし臆病な人間だった。

 でも当時――小学低学年生の僕に分かるはずもなかった。

 二つ上の兄は、まだ小1の僕に足し算引き算、かけ算を楽しそうに教えてくれたことがある。俺はこんなこと知ってるんだ、と自慢げに言っていたが、僕は兄を天才でも見るように尊敬してた。

 近所の悪ガキから守られたときもあった。

「お前、あいつの弟だろ!」

 がたいの大きい年上の少年に怒鳴られるように近づかれ、痩せたチビだった僕は怖くて震えていた。彼の言葉に何も返せず、逃げたいのに追いかけられて殴られることへの恐怖があって、僕は縮こまって蹲ることしか出来なかった。

 でも兄が来てくれた。「お前は逃げろ」と言ってくれて、そこで僕はようやく逃げることが出来た。

 家に着いて、少し後に息を切らした兄も戻ってきて――僕はたぶん、あのときから兄は強い存在なんだと思っていた。



     頭を殴られると、全身がジーンとして痛みよりもぼんやりしてしまう。

     一番痛いのは「腹」と「背中」だった。

     息が詰まるような痛いと。

     キリキリズキズキと持続する痛みは、耐えるのがツライ。



 兄とは部屋が一緒だった。

 僕の家庭はいわゆる母子家庭で、家もアパートだった。

 母はいつも仕事でいなくて、兄といつも一緒にいたけど……兄はよく僕を殴っていた。

 僕は泣き虫だったから、いつも泣いていた。

 嫌なことがあれば泣いて、怒られれば泣いて、殴られて泣いて。

 ……兄からすれば、うざい弟に違いなかった。

 喧嘩して殴られ、泣いた僕に「泣くんじゃねえ!」とまた殴る。僕は泣き止まない。

 そこに母が帰ってきて兄が怒られて、兄が更に腹を立てて隠れて蹴る。そんなことの繰り返し。

 それでも僕は兄が好きだった。ひっつき虫の如く、くっついて行動していた。

 暴力を振るう兄は嫌いだ。けど、いざというときは助けてくれる。僕にとってのヒーローのような存在だったのかも知れない。



     罵声はいつものこと。

     「ばか」「あほ」「お前は世界のクズだ」「人間のクズだ」

     「お前なんかいなければ良かった」

     「お前のせいで俺が怒られた」

     「お前なんか生まれなければ良かった」



 お小遣いはいつも兄に奪われていた。

 殴られるのは痛いから、「お小遣い貰ったよな」と言われたら渡すようにしていた。

 幸いそこまで物欲なかったし、兄がプレイしてるゲーム眺めているだけで楽しかった。

 たまに見られているのが嫌だったのか、学校サボってゲームしてたりしてたらしく、僕が見るときにはストーリーの内容が進んでることが多かった。



     兄は母から優遇されていた。

     誕生日だって僕よりも高価なもの買って貰い。

     家庭教師だってつけてもらったり、習い事だって。

     僕は母に言っても「お金がないからごめんね」って言われてたのに。

     なのに家庭教師も習い事も、兄はサボっていた。



 中学に上がり、僕は地元の学校には行かず、奨学生として私立に通うことにした。

 ――というのも、小学高学年になって兄の知り合いに結構絡まれることが多くなり、このまま地元にいるのが嫌になったのだ。実際殴られたこともあり、怖かった。

 母には理由を言わずとも、察してくれたのか……快諾してくれた。お金ないのに、申し訳なかった。

 僕は私立に進学し、勉学に励むことにした。でもその学校は想像以上に偏差値が高く、僕は小学生の頃では見たこともなかった点数を見て、愕然した記憶がある。



     「お前が私立行ったせいで、家に金がねぇんだよ」

     「お前がいなければ、俺も母さんも幸せだったのに」

     学校も家庭教師もバイトもサボってた兄。

     でも僕は知ってる。

     母が家に隠していたお金を盗んでいたことを。

     そして、兄が学校で何度も問題を起こして、母が何度転職したのかも。



 僕は、自分が自分で思っている以上の出来損ないで、兄の言うとおり家計を圧迫してるんだと打ちひしがれ、その頃から僕は「死にたくて」たまらなかった。

 死にたくて、でも死にたくなくて。

 自殺サイトを巡り、楽な死に方を探し、でも実行出来ず。

 勉強にも身が入らず、本当に落ちこぼれになって。

 家にも居場所が見いだせず、僕は部活なんて入ってないけど、寂れた公園で時間を潰しては母の帰宅時間前に帰るようにしていた。



     エアガンを向けられることもあった。

     最初は脅しだけで、見せびらかして終わりだったけど。

     改造したエアガンの弾は痛い。服の上でも痛い。

     殴られたり蹴られる方がまだマシだった。

     部屋の窓の外にいた鳥に狙って試し撃ちしてることがあった。

     鳥は痛そうに悲鳴をあげ、木の上から落ちたような音がした。

     怖い。



 中3のとき、僕は自殺未遂をしたことがある。

 何度か携帯の充電器で首を絞めたことがあったけど、いつも本気ではなかったので途中で止めていた。

 その日は、本当に突発的だった。

 死にたかった、というよりも楽になりたかった。

 カーテンレールに延長コードをくくりつけ、そこに己の首を差し出した。

 圧迫された首が気道を塞ぎ、痛みはなかったけど苦しくて。

 視界が暗いのに、なんか眩しくて。

 体がどんどん重くなって、意識があるのに体だけ眠ろうとしているような感じ。

 これで僕は楽になる。

 兄の言うとおり、この家からいなくなれる。

 それで兄と母も楽になる。



     僕はそのとき、思い出したのだ。



 僕は気付いたら床に転がっていた。生きていた。首が痛い。咳き込む。

 どうやら縛り方が甘かったのか、延長コードが解けてぶら下がっていた。

 体が重い。

 僕の自殺未遂は、誰にも気付かれずに終わった。

 でも、今でも思うことがある。

 僕はこのとき、自殺未遂をして良かった。

 こんな、命を無駄にする行為、人によっては不愉快かもしれない。

 けど、僕はそのとき――きっと初めて《欲》を掻いた。



     生きたい。

     死にたくない。



 きっと、理由なんてそれだけで良かった。

 やり残したことはない。でも、後悔してることはある。

 僕は本を読むのが好きで、好きな作家先生に一度は会ってみたいとか。

 僕も小説書いてみたいとか。

 本の続きが読みたいとか。

 友人たちのような普通の人生を僕だって送りたいとか。

 僕があのとき死ぬかもしれなかったあの瞬間、思い出したそんな、それだけの《願い事》。

 不思議なことに、僕は自殺未遂をして――ようやく目が覚めたのだ。

 暴力に抗うこと。

 罵声に反論すること。

 境遇を変えること。

 自分のことを諦めず、しかし過信しないこと。

 出来ることをすること。

 一人でも、ある程度のことは対処出来るように強くなること。



     それから僕は、あまり表情が表に出なくなった。

     その代わりというのも変だが、思考は冴え渡り、視界も広くなった。



 そして僕は、不思議なことに痛みに対して強い耐性を持った。


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