祝福

スヴェータ

祝福

 不穏な風の音が耳をかすめる。ここは荒野。生きるか死ぬかを決めるだけの場所。目線の先には息を潜める男たち。彼らの運命は、俺が握っている。


 我が国も、相手国も、同じ神を信仰する者たちがほとんど。信者は朝起きたら天を仰ぎ、請い願う手と目付きで言う。「神の祝福のあらんことを」と。


 しかしどうだ。祈りを捧げても死ぬ奴は死ぬ。つまり、神は生死の運命を決めていないということだ。まさか神ともあろうお方が、死ぬべき人間がいるとは言うまい。


 結局、死ぬことも殺すことも恐れているだけなのだ。俺は違う。死ぬことはもちろん、殺すことだって恐れていない。この銃口を向けている先の男を殺すのは俺。俺が僅かに人差し指を動かせば、アイツは死ぬのだ。


 隣を見る。仲間が血走った目で向こう側の敵兵を見ていた。葛藤しているのだろう。奴は殺したくないのだ。覚悟のないまま、こんなところまで来てしまっている。


 右ポケットに入れていた薬を差し出す。気持ちを楽にする薬。俺には必要ないものだ。仲間は無言で受け取って口に放り込むと、バリボリと噛み砕いた。


 しばらく互いに銃を構え、ただ見つめ合うだけの時間が過ぎた。しかし日が落ちる寸前、乾いた音が荒野に響いた。辛抱足らなくなったかな。実に無策な発砲だった。


 発砲した当人は仲間に任せ、残りを俺が撃ち殺す。1人、2人、3人。おっと、まだ立つか。もう一発。今回俺は、3人の男たちの運命を決めた。


 向こう側を入念に調べる。どうやら全員死んだらしい。一方こちらも無傷ではない。薬を渡した男は死んだ。神の祝福がこの男に届かなかったのではない。敵兵の誰かに運命を握られてしまったのだ。


 戦場では常に運命の握り合い。一瞬の気の緩みが命取りとなる。それを心得ているから、いつだって俺は敵の生死を決められるのだ。


 翌日。狙撃部隊へ新たに1人が加えられた。男は敬虔な信者。いついかなる時でも祈りを欠かさなかった。俺は何となくそれが鬱陶しく思えたが、それ以外は申し分ない働きをするから黙っていた。


 日が傾き始めた頃、荒野は騒がしさを極めていた。大軍同士がぶつかったのだ。もう鉛も、火薬も、血も、においが全く分からない。一瞬、天を仰ぐ。少し暖色が溶け始めた青空。そこに神は見当たらなかった。


 視線を戻すと、その先には先程の俺と同じように天を仰ぐ者がいた。補充された狙撃兵だ。胸に手を当て、何かブツブツ呟いている。そして言い終えたか、親指と人差し指を2回擦り合わせた。信者の作法だ。


 確信している。こんな時に神頼みする奴は、既に運命を握られている。生死の決定権は自分にない。そしてこの戦況だ。奴は間もなく死ぬだろう。


 そう思った矢先、あの敬虔な男は銃を構えたまま前線へと向かった。駆けるでもなく、隠れるでもなく、一歩一歩踏みしめながら、堂々と戦場のど真ん中を歩いた。


 おいおい、冗談じゃない。神の声を聞きすぎて気でも狂ったか。俺は前線から少し離れた高台の木陰に潜み、双眼鏡で男を追った。


 信じられない。男は極めて冷静で、銃弾が頬を掠めても表情ひとつ変えない。一発も撃たないまま、間もなく敵の陣地。どうするつもりか。何が狙いか。全く先が読めなかった。


 敵は当然、動揺している。まずはこの異様な光景を消し去りたかったか、銃弾のカーテンを男にぶつけた。土煙で何も見えない。しばらくして収まると、男はまだ銃を構えたまま歩みを進めていた。


 もう誰も外さない距離まで迫っているはずなのに、敵兵は男を撃ち殺せずにいた。こうなるともはや敵味方は関係ない。俺は男に照準を合わせ、引き金を引いた。


 ところがどうか。外してしまった。俺は我が軍屈指の狙撃の名手。こんな距離の標的を外すなんてまずない。その後、数発撃ってみる。丁寧に狙ったはずだが、どういうわけか当たらない。


 気が付くと、戦場は静まり返っていた。皆があの敬虔な男に注目していたのだ。男の影がのびている。日は随分傾き、辺りは真っ赤に染まっていた。


 影は敵陣の始まりからのびていて、男の現在地である敵陣の最奥まで途切れずに続いていた。軍帽が柄に、銃が剣先のように見え、まるで大きな剣が荒野に描かれたようだった。


 敵陣が影の剣で貫かれたところで、男は天に向かって一発の銃弾を放った。乾いた音が空を裂く。俺は思わず双眼鏡を覗いたままで銃弾を追った。僅かに空が揺れた気がした。


 いや、気のせいではない。空がまだらになっていく。少しずつ裂け、ぽたり、ぽたりと何かが零れた。赤い雫だ。熱い。煮えたぎった湯が荒野に降り注ぎはじめた。


 フードを被り、高台を降りる。屋根はないから、兵営に戻るしかない。しかしそれも遥か遠く。辿り着く前に茹ってしまいそうだった。


 もう一度高台へ戻り、敬虔なあの男を探す。まだ同じ場所にいた。赤い雫を受けながら天を仰ぎ、何かを呟いている。そしてまた指を2回擦ると、空はさらに大きく裂けた。


 どれくらいの時間が経っただろう。どうやら俺は生き残ったようだ。皮膚が数か所爛れたが、動けないほどの重症ではなかった。


 結局ずっと高台でフードを被ったまま下を向いていた。なすすべなくそうしていただけだったが、それがかえって良かったのかもしれない。粗方眺めた限り、生き残った人間はいないようだった。


 双眼鏡を覗く。熱のせいで左は使用不能になった。右だけで覗くと男はまだ同じ場所にいたから、俺は銃を構えてゆっくり男の元へと向かった。


 声をかける前に引き金を引く。やはり当たらない。その距離、僅か10メートル。不気味だ。俺は唾をごくりと飲み込んでから、男に話しかけた。


「これはどういうことだ」


「……あなたは神の祝福を受けたのですね」


 男は柔和に微笑み、そう言った。背筋が凍る。手元を見ると、親指と人差し指を合わせたままだった。


 思えば、祝福とは縁遠い人生を送ってきた。両親は無実の罪で処刑され、病気で苦しむ弟妹をどうしてやることもできずに殺した。16になるとすぐに軍へ入り、汚い手を使いつつのし上がった。


 神だけではなく、あらゆる不確かなものに人生を預けずここまできた。信じる、信じないの世界は全て嘘。そう考えてきたから自分の行動に責任が持てたし、強くなれた。


 そんな俺が、神の祝福を受けたと言う。神はいない。望んだ全ての運命は、俺が握ってきた。しかしあの影は、あの空は、あの雨は、どう説明する。


 混乱する俺を見て、男は小さく笑った。


「神は全てをご存知です。最期に祝福をお受けになったのは、そのためでしょう。痛みも、嫌なものも、薄汚い光景も、あなたの前にはもう何もありません」


 辺りを見渡す。いつの間にか兵士たちの遺体は消えていた。日は暮れたのに、ぼんやりと明るい。見上げると、満月が煌々と輝いていた。満月から目を逸らすと、満天の星空。俺は思わず深く息を吸った。


 空と大地に優しく包み込まれているような心地がする。こんな穏やかな気持ちになったのは初めてだ。神。祝福。あるのかもしれない。そんな気さえしてきた。


 遠くから声が聞こえる。俺の名と、しっかりしろという叫び声。何だ、誰か生きていたのか。しかし今少し、この心地良さを、今少し……。




「ああ、神よ。私の願いをどうかお聞き届けください。願わくは、神を信じることのできない哀れなる者にこそ、神の祝福のあらんことを」

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祝福 スヴェータ @sveta_ss

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