3
午後から雨だった。
おれは早いうちにスタジオに戻り、久保木にまた無理を言ってD室にこもった。
駅前にひと稼ぎしに出かける気力もなく、だらだらと作りかけの曲をいじる。コードを鳴らしては鼻歌でメロディーを歌い、そして同じ場所で止まる。何度やっても同じだ。もう二か月も三か月も同じ場所で行き詰ったまま、先の展開が思い浮かばないのだ。近頃では、このまま二度と曲が作れなくなるのではないかという気さえしはじめていた。
――気持ちが変わったの。大人になって。
スタジオ内にいると雨音など聞こえなかった。リサの言葉が、他のすべての言葉を堰き止めるみたいに頭の中でこだました。この曲が完成したら何か乗り越えられるかもしれない。そんな気もしたが、もはや自分が何を言いたいのかさえ分からなくなっていた。
ふいに、ひろしがアップライトピアノの椅子にひょいと飛び乗った。背伸びするようにして鍵盤を覗き込んで座る。どうするつもりか見ていると、やつはおもむろに右の前足を上げ、それを鍵盤に振り下ろした。ぽろんと音が漏れる。もう一つ、ぽろん。
思わず頬が緩む。ピアノを弾く猫とは物珍しい光景だ。動画を撮ってネットにアップすれば、軽くバズるくらいのことはするかも――。
ひろしはおれのつまらない打算を見抜いたかのように、こちらを振り返って頭を振った。眉根を寄せて見返すと、やつはもう一度前足で鍵盤を叩く。ぽろん、ぽろんと音が鳴る。
――ん?
何か引っかかるものを感じて今の音をハミングする。んー、んー。さっきと同じ音か? 二回続けて同じ音を弾いたのか? それともただの偶然――。
様子を窺うようにこちらを見ているひろしを見て、あっと気がついた。まさかと思いながら再びギターで作りかけの曲を弾く。メロディーが途切れたところにその二つの音を続けると――。
ぴたりとハマった。
これだ。これこそおれがずっと探していた音だ。
その二つの音に連れられてきたかのように、あとに続くメロディーが自然と流れ出した。まるでずっとそこにあったかのようで、おれはただ書き留めるだけでよかった。
曲は一気に完成した。
夢から覚めたような思いでひろしを見ると、やつは椅子の上に伏せたまま気だるげな眼差しをこちらに投げかけていた。お前、まさか――。言いかけて言葉を飲み込む。そんなばかな話があるはずがない。こいつはただの猫なのだ。
うみゃあ。ひろしは腹が減ったと一声鳴いた。
近くのスーパーまで買い出しに出ると、雨はもうやんでいた。ビニール袋をぶら下げながら、不思議な高揚感に包まれて夜道を歩いていると、思わずあっと足が止まった。道端の電柱に「猫を探しています」という貼り紙を見つけたのだ。
写真に写っている猫は、ひろしだった。
やけに大きな家だった。
表札を確かめると貼り紙にあったのと同じ貝塚という名字がある。予想外の豪邸にためらっていると足元でこーさくが鳴いた。こーさく。本当はそういう名前だったのだ。ひろしはいい線いっていたのかもしれない。
貼り紙にはこーさくがやはりアビシニアンブルーという種類で十二歳のオスだということも書かれていた。気ままな性格で音楽が鳴っていると寄ってくるという特徴もだ。駅前で弾き語りをしていたおれに近寄ってきたのは偶然というわけでもなかったようだ。
出迎えてくれたのは八十にはなろうかというばーさん、貝塚夫人だ。こーさくは、ぱあっと顔を輝かせる飼い主の胸に飛び込むでもなく、足元をすり抜けて家の中に入っていく。
「あなたは相変わらずね」
貝塚夫人は少し恨みがましく猫の背中に投げかけると、おれににこりと笑いかけて家に招き入れた。
「年寄りの一人暮らしはさびしくてダメね。半分諦めてたんだけど、あの子が戻ってきてくれてよかった。今のわたしには唯一の家族なの」
夫人はお茶を出してくれる間も口を休めるということがなかった。室内にはおれには一生縁のなさそうな年代物の家具や装飾品が並び、余裕のある暮らしぶりが窺われた。
「一年くらい前に夫が亡くなって、それからあの子と二人きり。もともと夫の方によくなついてたから、あの子もさびしかったのかもしれない」
本当は少し迷ったのだ。ひろしを、いや、こーさくを連れてくるかどうか。猫を客寄せにすれば、一人で歌うよりずっと効率よく稼げそうだったからだ。結局は連れてきてしまったが、貼り紙には謝礼が出るとも書いてあった。これだけの家なのだからと、おれはそちらに期待することにした。
いい香りのする紅茶に口をつけると、廊下の方からこーさくが何か催促するように鳴くのが聞こえてきた。
「あ、いけない。あなたがいないから閉めてたのよ」
腰を下ろしたばかりの夫人は、こーさくに向かって声を張りながら再び立ち上がる。
「夫の仕事部屋があの子のお気に入りでね。いつもは開け放してるんだけど、ほら、あの子いなかったから」とおれに補足してくれる。
様子を見に一緒についていくと、こーさくは急かすようにドアに爪を立てていた。
「はいはい」
貝塚夫人がドアを開けるのと同時に、やつはすっと中に消える。
「よかったら覗いていく?」
言われるままにおれも中に入らせてもらうと、中央にグランドピアノがどんと置かれているのが目に飛び込んできた。驚きながら見回すと、他にもクラシックギターや管楽器が数本スタンドに立てかけてあり、壁には一面を埋め尽くすようなレコードコレクションがあった。ちょっとした音楽室だ。
「あの、旦那さんのお仕事って?」
「音楽を作ってたの。作曲とか編曲とかそういう仕事ね。わたしよりあなたの方が詳しいかもしれないけど」
「え?」
「ギターを持ってたでしょ」
「あぁ」それで案内してくれたというわけだ。おれのギターは玄関を入ったところに置かせてもらっていた。
おれは壁に写真や何かでしか見たことがないゴールドディスクのようなものが飾られているのに気がついた。そのすぐ近くには、亡くなった旦那さんであろう年輩の男性と恰幅のいい初老の外国人が肩を組んで写っている写真もある。外国人は音楽雑誌で見たことがある顔のような気もした。
「夫が仕事をしてる間、あの子はいつもこの部屋にいたの」
貝塚夫人は猫用ベッドに寝そべるこーさくの頭を撫でながら言う。猫用ベッドがあるのはグランドピアノの屋根の上、猫にはもったいない場所だ。
「いつも二人でここにこもって、夫もこの子は曲作りのパートナーだなんて言ってね。たまにそばにいないと仕事がはかどらないって」
「この猫、音楽が好きみたいですね」
貝塚夫人は大きくうなずく。
「夫なんて完成した曲でもこの子が気に入らないとボツにしちゃうんだから。迷ったときも、こーさく、どっちのフレーズがいい、なんて選ばせたりして。やーね、死んだ人の話ばかり」
「いえ」
「でも、こーさくは我が家の作曲家だって、いつも笑い話にしてたの。あの人、この子は本当はピアノが弾けるんだなんて言うのよ。猫にそんなことできるわけないのにね」
おれは合わせて笑ったが、昨夜の出来事を思うと冗談では済ませなかった。
猫がピアノを弾くふりをするだけでも珍しいのに、偶然作りかけのメロディーの続きを鳴らすなんてことがあるだろうか。この猫はもしかして本当に作曲をしたのではないか。あるいは、亡くなった飼い主の魂がこの猫に乗り移ったとか――。
「こーさくなんて名前をつけたからかしらね」
「え?」おれは意味が分からなくて首を傾げる。
「知らない? 山田耕筰」
聞き覚えのある名前だった。音楽の教科書とかに載っていたかもしれない。
「夫の尊敬する作曲家だったの」
作曲家の名前をつけられて、いつも作曲家の仕事を傍らで見ていた猫が、自分も作曲をするようになる。いや、いくら何でも――。
「どうかした?」
「え? いや……」
「そういえばお礼をしなくちゃね」
貝塚夫人はそう言うとそそくさ部屋を出ていった。
一人になったおれは、改めてこーさくに目をやった。今のやりとりを聞いていたのかどうか、やつはグランドピアノの上で大あくびをかましていた。お前、本当に――。声をかけようとしたが、自分の考えがあまりにもバカげているような気がして結局何も言えなかった。
渡された封筒はこれまた予想外の厚みだった。おれはちらりと中を覗き、こんなに受け取れないと言った。貝塚夫人は「新しいギターケースでも買って」と言っておれの手を押し戻した。おれが貧しい音楽家だということはバレていたようだ。
こーさくについて想像したことは、どうせ笑われるだけだと思って夫人にはあえて伝えなかった。こーさくはというと、別れ際にじゃあなと言ってもこちらを振り向きもしなかった。
帰り道、おれは駅前の喫茶店に寄ってコーヒーを飲んで一息ついた。少し迷ったあと、佑太郎たちバンドメンバーに「新曲できた」とメッセージを送った。
ホーボーズ・ブルース つくお @tsukuo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます