少女マナについての話

津久美 とら

少女マナについての話

 これは地球の、中世と言われる時代によく似た世界の話。

 人間と植物、動物以外の生物がいる世界の話。

 知識と技術と論理だけでは説明のつかない現象のある世界の話。

 その世界の殆どの人々が創造主とその息子、そしてその母を【キリスト教】と称して信じ崇めている、そんな世界の話だ。


 現在のヨーロッパのとある国とそっくりな様相を呈したその町は、大きな港を構え、戦乱の世にあった国の中でも格別な繁栄を見せていた。その町の繁栄により、国そのものが貧困とは無縁であった。


 今日も船が入港する。

 全長五十メートルほどのその船は、コルベットによく似ている。

 甲板には二〇を超える砲台を載せ、その用途が商船護衛や沿岸警備などではないことを物語る。マストの先には母国の旗。水色の布地の真ん中に金の十字。それに被せて描かれた二本の真っ赤な対角線は、中心の金十字にバツ印を付けているようだった。

 その旗こそが、その国の象徴。人々の象徴。人々の思想そのものであった。

 船に一瞬、遥か上空を飛翔するドラゴンの影が横切った。


 この国は、諸外国からの布教や宣教は一切認めてこなかった。それに値する音楽や絵画なども決して受け入れなかった。

 この国の人たちは、この国独自の信仰を貫き、そしてその行為こそが人たる真実であると確信していた。その信仰心の強さ故に、国民はキリスト教について通暁つうぎょうしていた。

 この国に、キリスト教徒は存在しない。


 その閉鎖的とも言える、しかし人々の幸福に満ちた国キュアノエイデス。

 その首都ゴールダスチに少女が一人、一頭のドラゴンと共に暮らしている。

 肌はコエンドロの花のように白く、髪は鮮やかな緑色をしていた。その痩躯からは常にレモンに似た香りがする。右頬と両手の甲には、ザラザラと細かいうろこ状の皮膚が見えた。

 少女が食べるものは野菜だけで、肉や魚が手に入れば、それらはドラゴンの餌にしてしまう。

 そして少女は空を飛び、排水溝の金網を通り抜ける。


 現在キュアノエイデスに住む民衆は「魔法」や「能力」と呼ばれる力を持たない。力を持って生まれる人間自体が稀であり、そういった力を有する人間は、力を国と国民へ捧げるのが常識なのだ。英雄候補として戦地に赴くか、その身と能力を国王陛下その人のために駆使するか。

 そういった力を持つ人間のための学校も存在する。幼い頃より、国の役に立つための英才教育を受けることを、半ば義務付けられているのだ。

 しかし齢十三の少女はどこにも属さない。古びたアパートの裏で、体長百七〇センチほどの小さなドラゴンと日々を心の向くままに過ごしている。


「ドルーグル、今日はお肉も魚も無かったの。ごめんね。ちょうど船が港に返って来てて、もう街中お祭り騒ぎよ。きっと勝って帰ってきたのね。船体には傷が無かったし、船のずうっと上には青ドラゴンが飛んでたわ」


 青ドラゴン。その名の通りに青い体躯の、全長三メートルほどの野生のドラゴンだ。彼らは温厚な性格をしており、人間が行う祝い事の空気を好む。

戦地では勝利の気配を敏感に察知し、予見する。ゆえに兵士たちは、彼らを「勝利の吉兆」と呼ぶのである。


 ドルーグルと呼ばれたドラゴンはクルクルと小さく喉を鳴らし、少女に頬ずりをする。緑と黄色の混ざった鱗はガサガサと少女の柔肌を擦った。

 ドルーグルはアルビノである。この世界に生息するドラゴンは、本来全身の鱗の色が統一されて生まれる。その鱗が様々な色であったとき、そのドラゴンはアルビノ種と区分されるのだ。


 ドラゴンのアルビノ種は、どの動物のアルビノ種の生態とも大きく異なる。

 まず、生命力が非常に高い。ドラゴンは総じて生命力が高く身体の能力も高い。しかしその分消耗が激しく、一日の食物摂取量は人間の約二ヶ月分に相当する。

 転じてアルビノ種は生命力と身体能力は他種に劣らない。しかし食物摂取は一ヶ月に一度、人間の一日分ほどの量で良いとされている。必要量以外の食事は、アルビノ種にとっては「嗜好品」だ。

 しかし、アルビノ種のドラゴンは他種のドラゴンに比べて人間への恩恵が少なかった。戦闘に強いわけでも無く、幸運ももたらさない。最大まで成長しても二メートル弱と、荷物を運ぶのにも適さない。

 貧困に無縁なこの国では、ドラゴンのアルビノ種は役に立つ生物ではなかった。 


「マナ、あんたまたここに居たのかい! 全く勘弁しとくれよ! さっさとどっかへ行っちまいな!」


 こっそりと寝泊まりしていたアパート裏のねぐらも、とうとう大家のおばさんに見つかってしまった。こうなるともうここには居られない。

 少女は薄汚れたリュックを背負う。彼女の全所有物がそこには詰め込まれている。


 少女はこの町の人々から「マナ」と呼ばれる。誰が名付けたわけでもない。いつの間にかそう呼ばれるようになった。

 マナ。それは、創造主がモーセの祈りに応じて空から降らせた食べ物のこと。

 薄い鱗のような外見であり、コエンドロの実のように白い。葉は鮮やかな緑色で、レモンのような香りがするという。

 どれもこれも、まさに少女にぴったり当てはまる。

 マナ。それはキリスト教を受け入れないこの国で、一番忌み嫌われるための名前だ。


「さて、困ったねえドルーグル。これからどこへ行こうか」


 ドラゴンの中では小型のドルーグルを連れ、雑踏を行く。

 道行く人が、皆少女を見ては距離を取った。ひそひそとした声が少女の耳に届いてくる。


『見て、マナだわ』

『なんと汚らわしい』

『あの見た目。本当に人間かしら?』

『頬と両手に、キリスト教の聖痕だかなんだかがあるんでしょ?』

『産まれたときから異教徒じゃないか!』

『せめて能力を持っていさえすれば、国の役にも立つだろうに』

『戦地で死んでくれれば、そんなにありがたいことは無いね』


 民衆は、マナの力を知らない。知ろうともしてこなかったのだ。

 マナは空を飛び、排水溝の金網を通り抜けることができる。

 姿を何秒か消して見せたり、触れた物の大きさを変えたり、爆発を起こしたり。そういった力はよく聞くものだった。

 しかしマナの能力は、今までどこでも聞いたことが無い。どこかで拾い聞いた英雄伝説の中にも。


「ねえドルーグル。もういいかなあ?」


 自分の周囲だけ静まり返る雑踏に、少女は突然嫌気がさした。否、嫌気が溢れ出てしまった。ここに居るしかないと、慎ましくとも穏やかに、ドルーグルと生きていければそれで良いと。ついさっきまでそう思っていたのに。

 アルビノのドラゴンは、緑色の目で少女を見返した。


「ねえドルーグル。ドルーグルは一人でも大丈夫?」


 アルビノのドラゴンは、クルクルと鳴きながら少女の右頬に頬ずりをした。

 ドルーグルだけは、マナの味方だ。


「うん、じゃあ、一緒に行こうか」


 少女の身体がふわりと浮いた。アルビノのドラゴンが付き従うようにばさりと翼を広げた。

 民衆からは何も聞こえてこない。

 石造りの建物の屋根と同じ高さで、道を走る馬車と同じ速さで、マナは空を飛ぶ。アルビノのドラゴンが大きな翼を上下させて、右斜め後ろからマナを見守る。


『能力者だ!』

『行政に連絡を!』

『国に勝利をもたらす英雄だ!』

『早く、早く誰か捕まえろ!』

『空を飛んだ!』

『この国に空を飛ぶ能力者がいた!』

『これでまた勝てるぞ』

『建国以来の逸材だ! 早く捕まえろ!』


 マナとドルーグルはぐんぐんと高度を上げ、速度を上げ、もはや自動車でも追い付けない。

 追い付かれそうになったら、道端の排水溝へ逃げ込んだ。体に触れていれば、ドルーグルも一緒にすり抜ける事ができた。

 気の向くままに三〇分ほど飛んだころ、ゴールダスチの郊外へ降りた。街とは違う、山と畑のにおいがマナの肺を満たす。


「ねえドルーグル。ここならきっと、穏やかに自由に暮らしていけるかな」


 大きな瞳のドラゴンは、クルクルと鳴きながら少女の右頬へ頬ずりをして、右の手の甲を舐めた。ザリザリとしたその感触は、マナとドルーグルの親愛と幸福だった。



 翌朝、まだ日も昇りきらない時分。

 マナの前に二人の大人と、一通の封書があった。

 封蝋には、国の印璽いんじが捺されている。


<貴殿の能力を国と国民に寄与すべく、ゴビエルノ養術校へ入校されたい>


 少女とドラゴンの冒険は、一日と経たずに終わってしまった。

 少女とドラゴンのささやかな夢は、一日ともたずに崩れ去っていった。

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