第2話 枠の外

 さわさわと風に揺れて木の葉がすれる音が聞こえた。ゆっくりと目を開ければ、前に広がったのは青い空。多くの木に囲まれた森のような場所は、どう見ても僕の部屋ではない。


「夢か……」


 夢であるという自覚がある夢を見たことは過去にあったし、夢から覚めた先も夢であったという状況も経験したことがある。きっと今僕は自分の部屋のベッドで眠っていて、魔王と名乗る訪問者の夢の後に、森の中で目が覚めるという夢を見ているのだろう。だからこれほど体が軽く、痛みも感じないのか。


 地面に触れたらひんやりと冷たく、細かな土が詰めの隙間に入り込んだ。草の表面は想像よりもツルツルと滑る。今回の夢は随分と意識がはっきりしているらしい。ろくに自然と触れ合ったことがないのに、この手にはリアルな感覚が残った。


「目を覚ましたようだね。おはよう」


「おはよう……ございます……?」


「昨日のことは覚えているかな? 君はあのまま眠ってしまったから、勝手だが場所を移させてもらったよ」


「…………」


 にこやかな笑顔の男は、夢の中で魔王と名乗って僕がチェスで負けた相手だった。


「君には私の願いを叶えてもらわないといけないからね。思い出せるかな?」


「一緒に、世界を壊すことでしょう?」


 これは想像していたよりも愉快な夢のようだった。夢の中の夢で繰り広げられた出来事は、今意識があるこの夢の中に続いている。まるで物語のように作り込まれた夢に、僕は少し笑ってしまった。そして笑っているのに息苦しくはならない。感情の揺れに気を遣う必要のないこんな夢なら、ずっと覚めなければいいのに。


「覚えているようで良かった。ここがどこだかは、知っている?」


 その言葉を受けて、僕は立ち上がろうと慎重に膝を伸ばす。夢の中だからといって日頃の習慣は抜けない。しかしそんな配慮を無駄にするように、僕の体は一切の悲鳴も上げずに動いた。

 じっくりと見渡せば、そこにあるのは青い空に多くの木々。そしてその隙間から覗かれる先の景色を見て、僕は彼の質問の答えを見つけた。


「アフィルの街外れの森の中ですね」


 僕が住んでいる王都から、片道で二日はかかる町。この景色を、僕が見間違えるわけがなかった。


「部屋を出たこともない人間が、景色を見ただけでよく分かったね。ここは君の部屋から見える場所でもなければ、有名な場所でもないはずだが」


「…………」


 その言葉には口をつぐむしかなかった。彼の言っていることは正しい。僕の普段の生活なら、こんな場所を知っているはずがないし、知る機会が訪れることもないだろう。しかし僕がこの景色をよく知っているという事実は、誰にも話していないことだった。


「どうして知っているのかとでも聞きたそうな目だね」


「……はい」


「いつも思っていたのだけれど、私の城に入ることはそんなにも抵抗があるものなのかな? 生活の場をあちこち見回って飽きているようだったのに、君は頑なに入ろうとしなかったからね」


 彼はもったいぶることなく、僕にだけ分かるようにその理由を話してくれた。まるで僕の秘密を全て把握しているかのように。誰も知るはずのないことを、その目で見てきたかのように。


「私は魔王だから、それなりのことは一通りできてしまう。この世界のどこで何が起こっているのか知ることは、息をするように無意識下で行われる処理の一つにすぎない。ただ君の行動を見るのは、深呼吸のように特別だったけれどね」


 これが自分の夢であるとすれば、彼が僕の秘密を知っていてもおかしいところはない。ただこの力を使って見た世界を秘密にしておくことに、何らかの不満があるというだけなのだろう。

 しかし彼の僕を見つめる瞳が、不気味な光を湛えているように見えて仕方がなかった。


***


 僕は生まれた頃から体が弱かった。


 部屋から出ることさえも叶わなかった。


 ベッドの上で寝込む僕が、会うことのできる人物はたったの四人だけ。父と兄、そしてお抱えの執事とお医者様。

 三人っきりの家族の仲は、決して悪いものではなかった。ただ古くから王家の隣に立って国を支えてきた一族として、寄せられる信頼に応えようと忙しく働く二人の生活の中に、僕と話をするための時間はない。それはどうしようもないことで、ただでさえ何の役にも立てない僕が言えることなどなく、簡単に諦めがつくことでもあった。

 お抱えの執事は随分と年老いていて、曲がった腰は彼の身長を半分に縮めた。彼とは毎日顔を合わせるが、耳が遠くなってしまったために体調が良いときに定型の会話を繰り返すだけだった。お医者様は代替わりしたため、父よりも若い先生が三日に一度お昼の時間に様子を見に来てくれる。けれど長い会話は僕の負担になってしまうからと、世間話などする暇もなく彼は帰ってしまう。お医者様というのはいつも人手不足のようで、時折疲れた様子を見せる彼にわがままを言うことなどできない。


 だからいつでも僕は独りだった。世界という言葉はこの部屋のことを指し、部屋の外のことは世界の壁に描かれている絵画に等しかった。


 孤独というものは苦痛でしかない。


 膨大な時間の中で、義務も目的もなく時が経過するのを待ち続ける。何もすることがないから、ボーッと自らの意識を薄くしてやり過ごすしかない。何もしないというのは耐え難いもので、それで時間を無駄にすることもまた僕に罪悪感を植え付ける。

 でもそんな苦痛から、僕を救ってくれるものがあった。


 それは体の弱さだった。


 どれほど気を遣って過ごしても、僕の体は苦痛を訴える。何が気に食わなかったのか、罰を受けるほどの何か悪いことでもしたのか。訴えられたものから逃げることはできず、残された選択肢は受け入れること。苦痛に耐えているだけで、元気なときの何倍も速く時間は通り過ぎてくれた。

 体が弱いから孤独に苦しんでいるというのに、それを救うのがまた体の弱さだなんて誰が知っているのだろうか。僕以外にこの事実を知っている人がいるというのなら、その人が憐れで仕方ない。体の弱さが原因の問題を、また解決できるのが体の弱さであるのならば、それが存在する意味などあるのだろうか。僕が生きている意味などあるのだろうか――。


 いつも通り意識を薄めた。どこかを見ているようでどこも見ていない。何かが見えるようで見えない。堂々巡りの思考をやめて、僕はこの世に存在しない何かになろうとした。


 そんな日常が、ある時を境に変化し始めた。


 視界が飛んだ――。


 どこも見ていないはずの視界はせわしなく動く何かを捉え、聞いたこともないほど大きな音が僕の鼓膜を震わせた。空が高い。大きな建物が並ぶ。小さな人たちが道を歩き、その景色はどこまでも広がっている。


 これが本当の世界というもの。僕が諦めていた世界というもの。


 重なる音はいつまで聞いても飽きることがなくて、僕は不思議な匂いを辿って道を進んだ。街の歩き方なんて分からない。教えてくれる人など誰もいない。でもそれを咎める人もいない。だから気ままに歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。

 そしてこれまでの世界に帰った僕は、大きな負債を背負うことになった。


 久しぶりの高熱は、意識を失うことさえ許してくれなかった。珍しくそばで付き添ってくれている家族の顔さえ見ることも叶わない。息が苦しくて体が痛くて、自分が生きていることを何度も恨んだ。

 後で聞いた話だが、僕は三日も死の淵を彷徨さまよっていたらしい。目の下に隈を作って、ろくに休めていない様子の二人だったが、僕が無事だと分かるとすぐにこの世界から出て行ってしまった。

 普通の人ならば、こんなこと二度としなくなるのだろう。あの二人の顔を思い出すと、それが悪いことくらい理解できる。でも僕は、街を歩くことをやめられなかった。僕にとっての初めての本当の世界で、本当の自由だった。何度だって世界を見たかったし、この時間を奪われたくなかった。


 だからこれは僕だけの秘密。一人で繰り返して世界を見た。それを重ねるうちに僕の負担は小さくなっていって、いつの間にか世界を見て回る負債として寝込むことはなくなった。もう孤独な時間は苦痛ではない。孤独な時間は僕にとって、ずっとずっと広い世界を見るための時間に変わったから。


 水平線から昇る朝日は神々しく、満天の星空を独り占めした。お祭りを楽しむ人々は幸せそうだが、小さな子供にとっては毎日がそれに等しいようだった。酒場で起こった喧嘩は活力に満ちて、路地裏で行われる密会には心臓が飛び出そうだった。


 この国のあらゆる場所を見尽くした。僕の知らない場所はないと言い切れるほどに、その記憶は鮮明に焼き付いていた。


 そして次の場所を求めた僕は国の外にまで飛び出していた。この世界に存在する、人は到底入ることができない場所。魔族と呼ばれる生き物たちの生活の場だった。様々な種族が共存する魔族は見た目も住む環境も様々で、森だったり岩山だったり、川や砂でできた平原で生きている者もいた。


 子供は自然の中で悠々と遊び、大人は楽しそうに仕事を分担する。魔族だからと人を襲おうという様子もなければ、そんな考えさえも見せなかった。今まで伝えられてきた話と違うその様子に若干の違和感を覚えながらも、人々の生活とはまた違うその姿を見ることは僕の心にできていた隙間を埋めていった。


***


「城の中は無駄に広くてね。私には必要のないものだから、今ではみんなの憩いの場所になっている。君も遠慮する必要などない」


「どうりであんなにも明るかったわけですね。城というものはもっと荘厳で厳格で、大半の者は関わることのない天上の存在だと思っていました。子供が走り回って遊んでいる様子を見たときなんて、何かの幻覚かと疑いましたから」


「ではいつか、私の城にも来てもらおうかな」


「それは……」


 彼の楽しそうな声色を聞いて、どうしてもその後の言葉を続けられなかった。それを口にしてしまえば、この場の幸せな空気が濁ってしまう。


「大丈夫。何かあれば、遠慮なく話すといい。それが私に対する礼儀だと思ってくれていいから」


 彼は笑顔を崩すことなく、静かに語りかけてくれた。それはまるで僕の心を読むように、僕の心に落ちる影に光を当てるように。


「僕は人間であり、魔族ではありません。僕の生活は、彼らのそれとは違います。そこにははっきりと線引きがあって、僕はそれを越えることはできません」


「本当は……あなた方の生活を覗くことだって……」


「なるほど。……君は賢く、そして臆病でもあるようだ」


「えっ?」


「世界って広いだろう? それを君は知っている。……今はそれだけでいいかな」


 彼はそう言って小さく笑った。


「君はこれから私と共に旅をして、そして世界を壊して多くのことを学ぶといい。それで君が私たちの生活の場へ行ってみたいと願ったとき、来てもらえたら嬉しいよ」


 楽しそうに話す言葉の中に混ざっていた物騒な言葉を聞き逃すところだった。すっかり忘れていたことだが、彼は自分のことを魔王と名乗り、そして世界を壊すことを目的としていた。


「……申し訳ありませんが、僕はこの世界を壊したくありません。世界を巡るのは楽しそうですが、僕はこの世界を美しいと思ってしまったので」


「そうか……。それなら最後に、私の話を聞いてもらってもいいかい?」

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世界崩壊へのチェックメイト 雪鼠 @YukiNezumi

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