世界崩壊へのチェックメイト

雪鼠

第1話 魔王からの誘い

「君、私と世界を壊してみないか?」


 王城を取り囲むように栄える大都市の外れ。ちょうど街と森の間にあるような立派な洋館の二階にある、月明かりの差し込む一つの部屋。半開きになった窓辺に、美しい黒髪の男が佇んでいた。


「ちょうど退屈していたところでね、チェスのお相手を願えるとありがたいのだが」


 聞き覚えのない声の男は、まるで僕と以前からの知り合いであるかのように、躊躇いなくベッド脇へ近づく。逆光の中から少しずつ露わになるその端正な顔立ちは、依然として僕の記憶にない。


「僕にチェスができると?」


 目の前の非日常な光景に、僕は不思議と落ち着いていた。眠りを邪魔する咳も、生きる気力を奪う胸の痛みも今は息を潜める。ただ久しぶりの客人へ、久しぶりの会話を楽しむように、僕は一つずつ音を発した。


「君のことならよく知っているよ。もちろんチェスを好んでいることも」


 にこやかに微笑んだ男。世間の常識など分からないが、その笑顔は何人もの女性の心を奪うことができるのだろう。それを間近で拝謁できるとは、今日が僕の最期の夜なのかもしれない。


「お相手、願えますか?」


「もちろん」


 僕はベッドから半身を完全に起こし、その男の方向へ背筋をただした。僕の返事を聞いた男は嬉しそうに一つ頷き、その細い体のどこにしまわれていたのか、チェス盤の刻まれたテーブルと椅子を一組取り出してセッティングする。


「先攻をどうぞ」


「それでは、遠慮なく」


 僕はありがたくその申し出を受け取り、白のポーンに手を伸ばした。



「以前お会いしたことがありましたか?」


 コトコトと小気味よい音を立てて、互いの駒が動いていく。


「いいや。会うのは初めてのはずだ」


「では、今日は何気なくいらっしゃったということで?」


「いや、用件はある。君に最初に伝えただろう?」


 すこぶる体調が良いためか、滑るように出てくる言葉はそこで途切れた。世間話をするつもりでいても、慣れない会話は尋問のように変化してしまう。


「……あなたは何者なのですか?」


 沈黙の中でも続いていた盤上の静寂な戦いから視線を上げて、僕は対面に座る男に尋ねた。それは聞いてもいいことなのか、聞いたところでどうするのか、とくに当てもない言葉を今更取り消すことはできない。


「魔王……と言えば、一番分かりやすいのではないかな」


 想像を軽々と超える言葉を、その男は飄々と答える。せいぜい誘拐か強盗のための侵入者だろうと考えていた自分が馬鹿らしいほどに、彼の眼差しは真剣そのもの。侵入がバレてしまったことによる戯言であれば、この状況を気に留めたところでどうしようもなかったのだが、もし彼が本当に魔王であるのなら、その用件も現状も考えずにただ気ままにチェスを指してもいいのだろうか。


「これは夢ですか?」


「さあて」


 微笑む男の様子は、やはり魔王から程遠いもののように思える。話に伝え聞くような尊大さや苛烈さは感じられない。


「どうせなら賭けもしよう。敗者は勝者の願いを一つ叶えるなどいかがかね。もちろん無理な願いであれば、敗者にも断る権利はあるが」


 初対面の相手とのチェスではしゃぎ、その表情は賭け事への期待を隠すことができていない。きっとこの男は魔王ではなく、咄嗟にそう名乗ってしまった何者かで、僕が彼の嘘に騙されただけなのだろう。


「願いは何でもいいのですか?」


「構わないよ、私にできることであれば何でも」


「では賭けにのりましょう」


「いいね」


 男はこれまでで一番楽しそうに笑い、盤上に乾いた音を響かせた。


***


「チェックメイト」


 圧倒的な勝利を前に、僕は一部の隙もなく負けを認めざるを得なかった。


「では私の願いをいいかな?」


「どうぞ。僕にできることなら」


 きっと勝敗は対戦前から決まっていたのだろう。僕のチェスにおける知識も技術も経験も、彼の足元に及ばないことは明らかだった。この男は途中でそれを察して、わざと賭けを提案したのだろう。勝敗の分かりきったこの賭けを。しかし負けは負け。僕にできることなどたかが知れているとは思っていたが、彼はいったい何を願うのだろう。


「共にこの世界を壊そう。私の旅について来てくれないかな」


 それは彼が最初に告げた言葉。あのおかしな願いを叶えるために、彼は僕にチェスの勝負を挑んできたということだろうか。それともただ賭け事がしたかっただけで、ろくな願いがなかったために戯言を繰り返したというのだろうか。


「残念ですが、それは不可能だと思います」


 彼がその願いを口にした理由などと関係なく、僕にはその願いを叶えてあげられない。


「それは何故?」


 キョトンとした表情は、まるで純真無垢な子供みたい。僕が彼の願いを断るとは、僕には彼の願いを叶えてあげられないとは全く想像していなかったようだ。


「僕は覚えている限りで、この部屋から出たことがありません。というより、これまでの人生の大半をこのベッドの上で過ごしてきたと言ったほうがいいでしょうか」


 彼は驚くことも憐みの目で僕を見ることもなく、ただ黙って話を聞いてくれた。


「生まれたときから体が弱かったので、今まで何度も死の淵をさまよいました。僕がこの部屋を出るということは、自ら死を選ぶということと等しいのです。まあ、もしかしたらあなたは、それを望んでこの願いを頼んだのかもしれませんが、僕にはその願いを叶えて差し上げることはできません」


 彼の沈黙は心地よかった。ろくな経験を積んだことのない人間が語る話など、重さのない言葉の集まりでしかない。そんな軽薄な会話を握り潰すことも、軽んじることもなく聞いてくれた。言いたいことを最後の単語まで発音できたのはいつ以来になるだろうか。


「君が死ななければ、願いを叶えてくれるのかい?」


 相変わらずキョトンとした表情のまま、彼は僕にそう尋ねた。


「そうですね。まあ不可能なことではありますが、もし僕が外を出歩けるほど健康な体になれるとすれば、その願いを叶えましょう」


「それは良かった。これで契約成立だね」


 花開くように顔をほころばせ、彼はそっと僕の手に触れる。


「きっと後悔はさせない。約束する」


 その手はほんのりと温かく、親が子供に愛を注ぐように、恋人が相手にぬくもりを分かち合うように、まばゆい光の中の幸せを現しているようだった。

 静かな夜の殺風景な部屋で感じた幸福は、僕の瞼をゆっくりと閉じさせる。眠気に負けないように握り返した手も、狭まる視界の中では意味をなさなかった。

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