紫陽花寺の幽霊

かおり

紫陽花寺の幽霊

 からん、からん、といつもの音が聞こえてきた。下駄と石畳が突き当たる音だ。私は、慌てて墓石の裏側に隠れる。

 紫陽花が色彩豊かな花弁を開き、五月雨に見舞われる季節の或る日。その日も例外ではなく、石畳は雨に濡れ、どんよりとした湿潤な空気に灰色の空。雨の匂いが立ち込め、蛙たちは辺りで楽しそうに唄っている。そして藤色の着物を着た彼女は、紅の地に白の蛇の目という模様の番傘を差していた。

「貴方。私です」

 墓の目前に立ち、手桶を足元に置くと、この言葉から、彼女はいつも話し始める。まるでそこに私がいるかのように、墓石を見つめて。

「今週は二度目だね。どうしたんだい」

 彼女は、一週間に一度、墓を訪れる。初めは毎日。子どもが二人になりますます忙しくなってからは、数度。時が経つにつれ、年を取るにつれ、回数は減った。坂を登らねばならないため、身体に応えるし時間がかかるのだから、仕方が無い。

「大変嬉しいお話があるの。孫の、美幸がね、いよいよ結婚するそうなのですよ」

 彼女の弾んだ声を聞いて、私は微笑む。美幸。私と彼女の孫は、数年前から教師をしている青年とお付き合いをしているといい、彼女は度々彼らについて話をした。ようやく結ばれるのか。

「それで、貴方にご報告をと思いましてね。貴方も、動向を気にされていたでしょう」

「嬉しいよ。でも、あまり無理をするな」

 彼女は黙り込む。しばらくして、燐寸を擦る音、新聞が広げられる音が聞こえ、線香の香りが漂ってきた。線香を供え、手を合わせ、花の水を替え、気になる雑草を抜き、墓石に水をかけ、ひととおりのことを終えると、彼女は帰り支度を始める。番傘を差しながらしたのだから、なかなかに器用なことだ。

「貴方」

 去り際、彼女はふたたび墓石をじっと見つめて呟いた。

「もし、そこにいらっしゃるなら、我が儘ですけど」

 言いにくそうに口ごもる。

「なんだい」

「私を迎えに来るのは、もう少しお待ち下さいな」

 からん、からん、と音が離れていく。私は黙するしかなく、何故だか蛙も一瞬間黙りこんで、辺りがしんと静まり返った。

 確かに彼女は白髪になったし、だいぶ年を取ったが、一人で坂を登り墓参りに来るくらいなのだから元気であるように見えるし、私の元に来るのはまだ早いように思われる。だから大丈夫だろうと、そう思いたいけれども、夭逝した私に対する愚痴、息子や娘の言動に対する愚痴は、ここで吐き出すことがしばしばあったが、普段、自らのことについて、このような気弱なことを言わぬ彼女であったので、たいへん不安になる。

 願われぬまでも、私にそのつもりはない。彼女と話したいという思いはあれど、彼女には、子どもや孫たちとともに、現世で幸福に暮らしてほしいからだ。彼女の望まぬことをするなど、もってのほか。

 墓石の裏側から動きだし、表に回って、彼女が数日前に供えてくれた花々を見る。彼女が精出して育てている花の一部だ。供えられた花がしおれはしても、枯れ落ちるところを、私は見たことがない。このように死後も変わらず尽くしてくれる者がいるから、私は死して何十年経とうとも成仏しかね、現在もこうして自らの墓に留まっているのである。


(2019年05月31日)

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紫陽花寺の幽霊 かおり @da536e

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