雪にたんぽぽ
津久美 とら
雪にたんぽぽ
雪が舞っている。
この間、冬物をしまったばかりなのに。
雪が舞っている。
三月下旬の北海道。
内地ではもう桜の咲いているところもあるそうだけど、北海道民は大抵五月頃まで桜は拝めない。ようやく拝めた桜も、すっかり色付いた葉と一緒に咲くものだから何となくパッとしないし、ありがたみが減る。そもそも今の時期では桜はおろか、野花ですらまだ見かけない。
それどころか今日の天気予報は雪マークだ。なごり雪、なんて言えばとても詩的だけど、もう雪は勘弁してくれ、というのが正直なところ。
「まあ、内地の桜なんて見たことないけど」
窓の外を眺めて一通り落胆したら、さあ支度をしなければ。まず亮太を起こそう。
「リョウ、リョウ起きて」
「うん……」
「ちゃんと起きてよ」
亮太が完全に目を覚ますまではまだ時間がかかる。
歯を磨いて顔を洗って、洋服へ着替えて。ああ、朝のおかずはなににしたら良いだろう。
この生活ももう二年。毎日同じことの繰り返し。毎日がなごり雪のようだ。ちらちらと舞って、消えていく。
わたしはこの二年で、何か得られただろうか。何もかも消えて無くなっているんじゃないだろうか。頭の隅でぼんやりと思う。
身支度の流れはすっかり身体が覚えてしまった。
「リョウ、リョウ!」
「分かってるよ、うるさいな……」
心外だ。好きで口うるさくしているんじゃない。
「香菜子、新しいハミガキがない」
「買ってあるよ。棚の中探してみて」
アイラインを引いている時に、手は離せない。
「わかんないんだって。ちょっと来て!」
「ちょっと待ってよ、今手が離せない」
「化粧なんて大体でいいじゃん! 早く! 遅刻したらどうすんの!」
まるで子どものお守りをしているようだ。亮太は今年で二十八歳。私は三十歳になる。結婚もしていないのに子守りとは、これ如何に。
片目だけアイラインを引いた間抜けな顔で、洗面所へ向かう。新品のハミガキはシャンプードレッサーの下にきちんとあった。
「ほら、ここにあるじゃない」
「なんだそこか。ていうか、香菜子が出しておいてくれれば良くない?」
返事なんてしない。まだもう片方のアイラインを引かなきゃいけない。
「香菜子、靴下は?」
この生活が二年。私は今年で三十歳。結婚願望はないけれど、二年前の私が望んでいたのはこの生活ではなかったはずだ。
自分の身支度はそこそこに済ませ、今度は朝食づくりにかかる。
「あ、香菜子! 今日オレ米の気分だから!」
「え、お米炊いてないよ」
「え!? なんで?」
あなたが昨晩、明日の朝はパンが食べたいと言ったからです。
「今から炊いてよ」
「早炊きしても30分はかかるよ」
「は!? 遅刻するじゃん!」
「パンじゃダメ?」
「ったく仕方ないな……。しっかりしてくれよ」
ネクタイを中途半端に曲がらせたままの亮太は、さっさとテーブルに座ってスマホをいじっている。やたらと騒がしいワイドショーは、観ていないくせについていないと気が済まないらしい。
食パンをトースターにセットして、ウィンナーを焼く。目玉焼きと、少しのサラダ。二つのグラスにはそれぞれ牛乳とオレンジジュース。
これが亮太一人分の朝ごはん。
「オレこのウィンナー好きじゃないんだよね。次からシャウエッセンにして」
スマホを弄りながら朝食を済ませた亮太は、ジャケットを羽織ってさっさと出勤して行った。ネクタイは曲がったままだ、腕時計も忘れている。
テーブルに残された食器。かじりかけのウィンナーに、自分の姿が重なった。
私も出勤しなければ。
片付けを済ませて燃えるゴミの袋を持って、小走りにアパートを出た。駅までは早足で歩いて十五分。家賃は共益費込みで月五万三〇〇〇円。生活費は全てきっちり折半。
外に出ると、なごり雪はまだ舞っていた。
春物のコートにウールのマフラーを巻いて、雪と風を避けるように道路を見つめて駅までの道を急ぐ。
天気予報アプリによれば、現在の気温は2℃だそうだ。吐く息は白く、吸った空気はキンキンと肺を冷やした。
ふと、視界の端に黄色が見えた。
「たんほぽ?」
季節外れの雪に、季節外れのたんほぽ。
どちらも道理から外れている気がしたし、私だって、大概道理から外れている。
バッグからスマホを取り出して、実家の電話番号を呼び出した。このスマホも、使い始めて二年になる。
「あ、もしもしお母さん? うん、私。元気だよ。実は今のアパート引き払って、そっちに戻ろうかと思って。仕事? 大丈夫どうにかなるよ。少し通勤時間が長くなるだけ。――戻っても、いいかな」
たんほぽはなごり雪に冷やされて、冷たい風に更に冷やされて、それでもそこに根を張っている。
だけどこの子ももう少ししたら、種を飛ばしてどこかへ旅立つのだ。
雪が舞っている。
ちらちらと舞う春の雪は、私の足取りを軽くする。
雪が舞っている。
雪にたんぽぽ 津久美 とら @t_tora_t
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