第3章 (4) 箒と踊ろう
箒犬から逃げ回ること、二泊三日。無論、そんな長くはない。
やってて良かったパルクール。
相手が三次元的に動いてくるからには、こちらも二次元では対応できない。背中を見せて走り出す。ダムめいた壁を駆け上がり、途中で嫌な予感がしたから、跳ぶ。
ひっくり返る視界。
そのぼくの目の前を、箒犬が通り過ぎた。ものすごい速度。まるで茶色のブラシをザッとやったように見えた。箒だけにね。
「言うてる場合か」
着地して顔を上げると、石造りのダムが陥没している。砲弾か何か突っ込んだらあんな風になるんだろうか。わからない。ぼくの体がそれほど頑丈じゃないことは確かだ。当たって無事で済むか? それほど鍛えてたっけ?
しかしそれほどの衝撃を生み出した箒の方はどうなんだ、とぼくは息を飲む。
崩れた部分から、水が滝のように噴き出していた。水のヴェールが降りているように美しかったダムだけに、少し残念な気分になる。ダムが、無駄に。
「はい」
ちょっと反省。ぼくは余計なことを言ってしまう。
そこに隙が生まれた。
滝の裏側から爆発した。箒犬。かどうかは視認する間もない。水しぶきの最初の一雫が鼻の先に当たった瞬間、直感がぼくを突き飛ばした。横にゴロゴロと転がる。またも二転三転。その視界の中で、さっきまでぼくのいた辺りがクレーターになっているのを見た。土埃の合間に、箒が突き刺さっているのを見た。
「冗談じゃない」
と、立ち上がって、ぼくはわたわた走り出す。
ガウガウガウ! と箒犬。
体勢を立て直したのは奴も同じだ。
あの姿勢からどうやって復帰したのか、気になる。とてもなる。だってそうでしょ、魔法だぜ。あの爆発的な推進力にしても、耐久力にしても、それってぼくの日常にはなかったものなんですよ。
好奇心。これがぼくを殺す。いつかそうなるだろうって確信がある。でも今回は、生存本能がわずかに勝った。ここに葛藤があり、説得の要があった。生きなきゃ知れないこともあるんだぞ、頼むから今は協力してくれ、ぼくの好奇心。
いきなりトップギアで走り出す。
校則指定の革靴も改造済みだ。地面が多少濡れていたって、グリップ力は衰えない。いつ走りたくなるかわからないのが青少年。備あれば憂もなしとはどっかの誰かの座右の銘。
とはいえ、直線距離では勝ち目がない。
ゴールは蔓科の植物の垂れ下がってたあの回廊。
「語彙が足りないんだよなぁ」
生き残ったら図書館に行こうと固く誓った。レディセッゴー!
雄叫びの末、見えないゴールテープに飛び込んだ。
勝利の余韻? ありませんね、代わりに寒気なら。
ぼくが気の緩みから、脚のもつれから、それとも無意識の判断から、左の柱に倒れかかったとき、箒が数秒前のぼくを貫いた。幸運がなければ死んでいた。
遠くで旋回する箒犬。
慣性が働いているのか、それともそういうフリをしているのか。期待としては前者だが、魔法のものなら後者もありうる。
それまでの速度を緩めて、箒星はふわふわと浮きながら、こちらを見ている。グルルと唸っている。
腕にズキンと痛みが走る。
見ると、少し裂けていた。
でも一体いつの傷だろう、とぼくは思う。そうする間に血がぷくりと膨らんだ。新鮮――ということは、今、ついさっき。
箒犬は、口の片端を釣り上げる。
笑っているのか?
まさか、とぼくは笑わない。こっちとしては、ちょっと笑えなくなった。魔法の木工品に表情筋があるらしいとして、腹立つな、とは思う。一方で、マズい可能性にも気がついてしまった。ぼくは箒犬の攻撃を、しっかり避けたと思っていた。でも、それが意図的なものだとしたら?
この箒犬に知性があって、ワザとぼくを掠めるように飛んだのだとしたら。
直線距離なら負ける、直線距離ならあいつの勝ち――だからといって、その事実は、箒犬が真っ直ぐにしか動けない、ということにはならない。
いやまあ、砲弾にしても実際には放物線を描くらしいし、狙撃の際にも風速が云々って話を聞いたこともある。でも速度が十分大きければ、そいつにとってそれが”短距離”なら、無視できると思い込んでいたのだな。どうやら、ぼくも慣性の虜だったらしい。
「よし」
息をつく。
難しいことは考えないようにしよう。解明は後。
今の課題は至ってシンプルだ。勝利の要件は何か。生き残ること。あの箒犬をどうにかして、この庭園から出ることだ。まあここを出たとして、箒犬が追ってこないとも限らないけど。
出口はあいつの向こうにある。迂回するか? 蔓科の植物の垂れ下がるこの回廊は、左手側に石塀があり、右手側には、迷路のような生垣がある。どちらもNGだ。壁抜けスキルは持っていないし、迷路の背は高いから、お互い相手が見えなくなる。その方が怖い。
残る道は一つ。
最初から一つなんだから、結局戻ってきたことになる。
「やってやりますよ、そっちがその気なら」ということだ。
箒犬はいよいよ笑う。
ぼくもつられて笑ってしまった。わくわくしますね、魔法の箒と決闘ですよ。
多分このとき、ぼくとそいつは確かに通じ合っていたのだと思う。
おかしな気分だった。
合図もなく同時に動いた。
箒の尾に九つくらいの
まずは直線。ぼくはぎりぎりまで動かない。
そいつの余裕がちょっとカーブするくらいだったら、興醒めだからだ。
とはいえ、それはぼくのキャラではなかった。内心ちょっとビクついていた。
人間というのは、スーパー系かリアル系に分類できる。高い耐久力で壁になりながら、爆発的な火力を発揮するスーパー系と、高い機動力で相手を撹乱しながら、鋭い攻撃を放つリアル系。そこにくると、このルベシベ・ハタロウはリアル系の人間だ。壁役はラガ橋の十八番だ。
だけど、今この一瞬だけは。
ぼくは、スーパー系になろう。
「へし折ってやるよ箒犬!」
そう虚勢を張った。
これが箒犬の気に入ったらしい。もう接触直前だというのに、尾の後ろの炎が火力を上げた。通じてるからわかる。こいつは直情タイプ。こういうのが好きな性格だ。そしてそういう奴との付き合い方は、存じ上げている。ラガ橋がそうだし、毎朝鏡に映る男もそうだ。
だからぼくは、右足を引いて半身でかわす。
真の抜けた一瞬。舌を出すのは忘れない。
「グァ」と箒犬。
しかしさすがは魔法の箒。反射神経が良い。ぼくの回避に合わせて、捻ってきた。突然の出来事にぼくはバランスを崩す。昔こんな体勢を映画で見た。思いっきりのけぞってしまう。ともすれば致命的だったが、好奇心は満たされた。
速度に引き伸ばされた尾の
それがぼくの傷の正体だ。
一つ謎が解明されれば、次の疑問が浮かぶもの。
魔法の炎って掴めるのか? とぼくは思い、すでに手は伸びていた。そうとも、ぼくはチャンスを逃さない。もしも掴めるものなら、手綱を握ることだってきっとできる。できるはずだろ! しかしこれは望み過ぎだった。ぼくの右手は温かな感触を通り過ぎただけで、結局はなにも掴めなかった。
尻餅をつく。
しかしバランスを崩したのは箒犬も同じだ。そのままぼくの右側数メートルのところに着弾する。慣性の制御ができるとしても、どうやら繊細らしい。
「だんだんわかってきましたね?」
「グルル」
ぼくは立ち上がって、箒はふわりと浮かぶ。一人と一本が自分についた土埃を払い落とした。
仕切り直し。
ぼくの後ろに出口があるのはわかっていた。でもここで箒犬に背を向けてそちらに行くことはできなかった。追いつかれる、貫かれる、という理屈も確かにあった。ただ、一番の理由は、この箒犬のことを理解しはじめていたことだった。魔法がなんなのか、どういうものなのか、詳細な理論はわからない。けれどもその現象として、肉薄できるところまで来ている。拘ってしまうのは当然だった。
「そこまでにしてもらおうか、少年」
だから、そう言って、一人の女性が現れた時、ぼくはかなりがっかりした。
スマイリィ・ウィッチ、トナ村先輩 織倉未然 @OrikuraMizen
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