第三節 大人といふもの
赤子となる前のゆいは、成人を迎え自立をした大人として生きていた。
都内の名門私立大を卒業し、大手商社の受付嬢として働き、寿退社。側から見れば幸せでしかないゆいの人生。ゆい本人は自らの人生をどう感じていたのだろう。
寿退社してからというもの、ゆいはつわりに苦しんでいた。大学時代に出会った夫はIT企業でシステムエンジニアとして働いている。そんな夫との間に第一子を儲けたのだ。
夫は忙しい。残業も多く、会社で寝泊まりすることもしばしばあった。つわりで苦しんでいるのに、ゆいは家にひとりきり。夫に対する不満も募りがちではあったが、なんとか希望を持ち毎日を過ごしていた。
ゆいはポジティブである。
つわりの時は水分を多く摂ると良いけれど、水を飲む体力もないのなら寝たきりのまま一口サイズの氷菓を食べると良い。そうインターネットで見たので早速真似をしてみると、その氷菓でさえ身体が受け付けず戻してしまった。ウッと口いっぱいに溶けた氷菓を溜め込み、シュッとトイレに駆け込んだ。
あんなに起き上がれないと思っていたのに、吐き戻しそうとなると俊敏に動けるのだから、人間とは不思議なものである。ゆいは吐き戻した後、ひとり笑いながら夫にメッセージを送っていた。いくら体調が優れずとも、気分まで落ち込んでいるわけではないのである。
「ギャハハハッ!ギャーー!」
ゆいの笑い声は独特だ。
豪快に大口を開けて笑い、最後は悲鳴のようになる。最近のゆいはいないいないばあがブームであるので、母親がゆいの顔に毛布をかけ、勢いよく剥がして バアーー! とするのが楽しくてたまらない。ゆいが爆笑すると母親が少し心配そうな表情を浮かべるので、それも面白くて好きであった。
「パパ好き?」
そう問う母親の表情は暗い。ゆいは父親よりも母親が好きであったので、間抜けな表情で母を見つめていた。
「ママはね、ゆいが大好き」
上手く笑えていない母を本物の笑顔にしてあげたくて、ゆいは笑う。全力で微笑みかける。そうすればいつも、母の表情が少しだけ和らいだので、そうしていた。今すぐに声を出せたら、意味のある言葉を話せたらどんなに良いだろう。ゆいはそろそろもどかしさに殺されそうで、それでも今のままでしかいられなくて。赤子は難儀なものだと、ため息をつきたくなった。
鎹 川端月子 @kwbt_tkk
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