第二節 赤子の日常
ゆいは己の両手を天高く持ち上げ、グーにしてみたりパーにしてみたり、時には赤子らしく口へ運んでみたり。そんな風に毎日を過ごしていた。この行動をハンドリガードと大人は呼ぶが、ゆいには知ったこっちゃないことである。
物心がついていて、世の中のことをある程度知っているゆいも、赤子としての本能には逆らえぬらしく、実に赤子らしい赤子として生きていた。よその赤子に比べたら格段に育てやすい赤子であるが、それでも赤子は赤子。突然キャーーッと叫んでみたり、独り言を延々話してみたり、母親の長い髪を掴んでみたり、おむつを替えられている最中足を動かしてみて母親に少し怒られたり、よその赤子となんら変わった様子はない。
ゆいの入浴は、父親の担当であった。
仕事から帰宅した父親が先に風呂に入り、呼ばれたら素っ裸にされたゆいを母親が抱えて風呂場へ連行する。これがゆいの家での暗黙のルールとなっていた。
その日も例に漏れることなく、何時もと変わらなかった。帰宅した父親が風呂に入っている。なんら前日と変わらない夜であるが、何処かが違っていた。母親の元気がない。素っ裸のゆいの腹を優しく撫でているのは普段と変わりないが、母親の目線はゆいに向いていなかった。虚ろな目で、遠くを見つめている。
──ママ、どこ見てるの
──悲しいのとか、どうしたのとか、言いたいこといっぱいあるのに
ゆいはこの時初めて、己が赤子であることにもどかしさを感じた。普段の生活は、機嫌の良い母親に抱かれ世話をされ、至れり尽くせりであるが、こういった時に何も出来ぬ己に嫌気がさしてしまう。ゆいの物心がついているのは、母親を慰めるためではないのか。ゆいはそう思っているからこそ、何のアクションも起こせない赤子の己に、苛立ちを感じていた。
一体何分ほど、そうしていたのだろう。
長かったような気もするし、短かったような気もする。体感で言うと、七分ほど。
父親がゆいを呼ぶ声が風呂場から聞こえたので、母親はゆいを抱き上げて歩き出した。母親と触れ合えば安心する筈なのだけれど、この時のゆいは母親に抱かれていても、安心することは出来ずにいた。普段と様子の異なる母親が気になって仕方がない。ゆいは風呂場のお湯で遊ぶことが好きであったので、お湯をバシャバシャと叩いて遊んでいたが、母親が気にかかりすぎた故にその日は終始大人しくしていた。父親が嬉しそうに何かしら言っていたが、ゆいの耳には届いていない。ゆいはずっと、母親の暗い顔の原因が何であるのか、悶々と考えていた。
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