鎹
川端月子
第一節 物心といふもの
ものごころ。
この一言を聞いて大抵の人が思い浮かべるのは、記憶の始まりである。
物心がつく頃というのは、個人によってまちまちで、乳幼児期、幼児期、学に就く頃と多岐に渡る。道行く人に物心がついたのは何時かと尋ねれば、多様な返答が期待できるだろう。
して、この赤子。この世に生まれ落ちて四ヶ月と幾日かの、赤子。この赤子は既に、物心がついていた。
現代において赤子についての研究は、まだまだ発展しておらず、未開な事ばかりである。誰もが赤子であった筈なのだが、その時代を覚えていない。覚えていると不都合な事があるのか、脳の発達が未熟なのか、恐らく後者の意見が優勢であろうが、まあ、兎にも角にも赤子は記憶を事細かに維持することが難しいのである。
しかしながら、この世には科学で解明できぬ不思議な出来事というものがごく稀に発生している。この赤子はその不思議な出来事の該当者であった。
赤子は生まれ落ちた瞬間に、ゆいという名を母親から授けられた。ゆいの父親は、名に漢字を当てようと言い出したが、母親が断固として拒否した為に、ひらがなで出生届を提出する運びとなった。なんでも、ゆいという響きは好きだが、どうもピンと来る漢字がないらしい。かくして赤子の彼女は、ゆいという名で生きて行く事となった。
ゆいは己を見つめるふやけた表情の両親を見て、思案に暮れていた。何故赤子であるゆいに物心がついているのか、ゆいには皆目検討も付いていない。ふにゃふにゃ笑顔の母親に何かを伝えようにも、言葉が上手く出てこないのだ。どう頑張ったってゆいの口からは、あー だの、うー だの、赤子らしい言葉しか出てこなかった。
もどかしい。
母親に伝えたいことは山ほどある。訂正。山ほどとまでもいかぬものの、それなりに伝えたいことはあった。
ゆいは腹が空いている。前回のミルクの時間から3時間と少しが経過していた。ゆいは寝付きが良く、一度寝ると朝まで起きないので、夜間のミルクは生後三ヶ月で卒業していた。それが理由かどうかは定かではないが、昼間はとにかく腹が減る。ゆいは必死に右の三本の指を吸い、母親に空腹をアピールしていた。こうすると、母親はゆいの空腹を察するのだ。
「お腹すいたね、ミルクにしようね」
慌ててキッチンへ向かう母親を見送って、ゆいは安堵した。最近覚えたこの 腹減り三本指吸い は中々に効果があるらしい。
──ああ、やっとミルクが飲める
──対して美味しいわけじゃないけどこれしか飲めないしな 赤子ってヒマだなあ
相変わらず三本指をせっせと吸っているゆいがこんなことを考えているなど、母親は知らないし、知る日は恐らく来ないだろう。独立心の強いゆいは、生後四ヶ月にして寝返りを覚え、そのままごろごろと転がって移動することも出来るようになった。夜泣きもしない。あまりに手のかからないゆいに、母親は感謝しきりである。ゆいは母親がリビングへ戻ってくるのを大人しく待ち、天井を見つめていた。
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