縮まる距離と正体不明の敵(1)

 ハイドによって修復されたブーツ型の靴は、ルーシーの足にぴったりとはまった。


「ありがとうございます!」

「いや、応急処置だから激しい使い方はするなよ。ずっと裸足のままだと傷ができる、から・・・」


 ハイドが言葉に詰まり、不意に沈黙する。

 ルーシーの口元を見ていることに気付いた彼女がはっとして一歩下がった。ハイドはさっと目を逸らして続けた。


「とにかく、代わりの靴を買ってくるまで大人しくしていろ。明後日、町へ出掛けてくる。その時に旅に必要なものは一通り買ってくるが、男と女では必要な物も違うだろう?何か必要なものがあれば買ってくるから何かにメモしておいてくれ」


 口早に伝えたハイドは言い終えるなり、居間から出ていこうとした。その背に向かって、ルーシーが頭を下げる。


「はい、ありがとうございます」


 深々と頭を下げるルーシーをちらりと振り返り、ハイドは逃げるようにその場を離れて家の裏にある小屋に向かった。


 自然の匂いを深く吸いながら、それでもこびりついたように彼女の匂いがまた戻ってくる。

 ほとんど付かず離れずの距離にいることによって、ハイドにルーシーの匂いが移ってしまっていた。


 ルーシーを森で拾って家に連れて帰り、あまりの汚れ具合に髪や足などを綺麗に拭いた時から綺麗な少女だとは気付いていた。それが風呂に入って本当に綺麗さっぱりになってから、その度合いは増した気がする。

 青い瞳がハイドを映すと安堵したように微笑み、艶を取り戻した真っ白なさらさらした髪は肩口で揺れる。まるでお伽噺に出てくる妖精みたいだと、実在しているのか確かめたくなって思わずルーシーの頬を無言でつねった。自分の行動に驚いて慌ててその場を去ったけれど。


 そして、ルーシーが実は21歳のハイドとは4歳違いの17歳だと知った時は驚いた。もっと幼いかと思っていたからだ。身長差がありすぎたことも原因だろう。獣人という種族は背が高い者が多く、それに比べると一般的に人間は低い。しかしそれよりもルーシーは低かった。ハイドよりも頭2つ分くらいは小さいはずだ。

 1人でテタルトまで来ようとした度胸、ちょこまかと動き回ってはハイドを見つけると近寄りたそうにうずうずとする様子、一生懸命喋ろうとする様子、迷惑はかけられないと何かと力になろうと空回りしては落ち込むルーシー。

 そんな彼女に対して、放っておけないとどうしても庇護欲を掻き立てられてしまう。


 あの日以降、ルーシーに押し倒されて血を啜られることはない。ましてや普段のルーシーはひ弱で少し走ったくらいで倒れるくらいだ。その度にハイドは彼女をソファーに寝かせて休ませている。

 今は通常の食事の量を食べているはずのに、体力がつかない。これまでの過酷な旅路の疲れが出ているにしても、このままでは本当にルーシーの身は危険に晒される。


「・・・もう二週間、か」


 最初に二日間、次に四日間、ルーシーは眠ったまま目を覚まさなかった。どれだけ揺すっても抱き上げても起きることはなく、口にものを運んでも無理矢理入れなければ飲み込みもしない。飲み込んでも少量だけで、その間もずっと眠ったままだ。

 そんなだからハイドはルーシーを1人残して町に出掛けることができず、むしろ彼女を1人で行かせていいのかという迷いが生まれていた。


 テタルトには様々な種類の獣人がおり、数十年ごとに王が変わる。テタルトでも人間の国と同じように王がいて宰相がいて騎士団があって・・・とあるが、それは人間側から要求された時に必要だったから一応作っただけであってそれまではそれぞれ自由に生活していた。いさかいも絶えなかったが、それなりに上手く共存していたのだ。

 けれど人間と争うことになり、やがて平和協定が結ばれた。人間側は当然テタルトの内部のことを知らないので、当然のように国王と話し合うことを要求してきた。

 その時、テタルトで一番強かった者が王となった。しかし頭はよくなかったので王の友人だった口の立つ者がついていって、テタルトを国としてまとめる際にそのまま宰相になった。


 現在の王は獅子の獣人であるギルという男で、ハイドにとっては実の兄も同然だった。

 10歳上のギルは、ハイドが物心ついた時には王都の騎士団で働いていた。ならば自分も騎士団に入るのだとなんとなく思っていた。また、身体が屈強で頭に血が昇ると我を忘れやすい狼の獣人の性質から、彼は騎士団に入って働くしか選択がなかった。特にハイドは両親が他界していたから、食い扶持は自分で稼げるようにならなければならなかった。


 騎士団で割り当てられた仕事はハイドの、狼の獣人の性分に合ったものだった。


 例えば人間がまた攻め込んできた時、ならず者が現れた時、港での厄介事、違法な商売の取り締まり、国内の警備などを担当する騎士団にはやはり血気盛んな者が多い。そうでない者もいるが、仕事の担当は必然的に分かれる。

 ハイドは、狼の獣人は戦闘狂だなどと言い表される中にもちろん入っていて、12歳で騎士団に入った時から血が流れるような肉体労働ばかりしていた。

 実の子のように育ててくれたギルの両親は日に日に目付きが悪くなる義理の息子を心配していたが、ハイドは過激な戦闘に心酔していくばかりだった。


 19歳のある日、あの出来事があるまでは。


 騎士団を除隊して以降、ハイドは1人でローデンリニアに繋がる森に住んでいた。通称"緑の壁"と呼ばれる森にはテタルトの民も滅多に近寄ることはない。

 滅多なことさえなければ、テタルトの獣人たちはテタルトから出ることさえできないのだ。


 だから、ハイドはある一定距離は移動できるもののローデンリニアの土地に入ったことはない。ルーシーの匂いに気付いた時も、完全にテタルトの領土に入ってから追い返そうとして探しに出掛けた。逆に保護することになってしまったけれど。


 誰も近寄らない森の中で、自然を感じながらのんびりと自由気ままに過ごす日々に慣れるのは早かった。

 最初の1年は本当に誰とも会わなかった。食料さえも森で調達した。ハイドも森から出ることはなく、またハイドの行方を知っている者も奇異な場所に近付きたくないと思っていたからかもしれない。

 1年経ってからはもう昔の出来事だろうとギルや宰相が騎士団に戻れとか専属の護衛になれと勧誘してくるが、日雇いの仕事をいくつかこなすだけで一切を断っている。


 "緑の壁"で死ぬまで暮らし続ける。これからはずっと1人で生き続けるのだと、ハイドは決めていた。

 だから、安全のためにも自分がルーシーについていった方がいいとわかっていても、その選択だけは絶対にするわけにはいかない。それに、ついていけば何かとんでもない事態に発展するかもしれないと不安が渦巻いている。その不安が恐らく現実に起こりうる可能性が高いことを、ハイド自身が自覚している。


「・・・・・」


 思わず深いため息をつく。それから小屋に置いてある薪をいくつか手に取った。乱雑に拾ったせいでとげが指に刺さったが、血が少し滲んだだけですぐに止まった。


 もう夏になろうとしている春の季節ではあるけれど、ルーシーの体温が通常より低いことから家では未だに暖炉に火を入れている。本人は体質だと言っていたが、今までの不摂生な生活からの体調の異変だとハイドは思っている。本人が気にしないからこそ、こちらは余計に気をつけているのに。


 玄関の扉を開けようと取っ手を掴んだまま、ハイドは大きく息を吐いて目を閉じて自分に言い聞かせるように呟いた。


「一時の情に流されるな。ただの獣に堕ちるんじゃない」


 何度も何度も、その戒めを繰り返す。






 あ、血が流れた。


 ルーシーの鼻が微かなハイドの血の匂いを嗅ぎとっていた。彼女が気付かないところ、青の瞳の輝きが増す。


 ここで生活をするようになってからルーシーの体力は少しずつ戻ってきている。

 それがわかっているから、お腹が、脳が空腹を訴えてはルーシーは身体が擬似的に満腹感を得る魔法を自身にかけていた。そうすると暫くは飢餓状態を我慢できるからだ。

 極度の飢餓からハイドを襲ってしまってから、ルーシーは彼の血の味を覚えてしまった。素肌を目にするたびに噛みついてしまいたい、思う存分血を啜りたいという欲に囚われるようになってしまった。

 あの肌の下には極上の血が通っているのだと既に知っているから、駆け寄りたくてうずうずしては、それは駄目だと彼の見ていないところで何度も魔法をかけ直している。きちんとご飯を食べるようになってからは体力も回復したので魔力を使う余裕も出てきたが、日々の精神はこれまで以上に消耗していた。


 早く出ていきたいとは思っている。


 3日前、そう伝えた時にハイドはまだ駄目だとルーシーを諭した。


 まず、ルーシーの体力が完全には回復していないこと。そして、海を見たいということはほぼ反対側の土地まで行くということであり、直線的な道を選んでもかなりの日数がかかること。そのうえ、危険な道を避けると更に時間がかかること。人間の女性はただでさえ珍しく、嗅覚が優れている獣人はフードを被っていてもすぐに正体がわかるということ。そんな中、今の状態では一瞬で捕まってしまうこと。悪い奴らだったら酷い目に合うだろう、と。

 元騎士だからクズな奴らをたくさん知っていると、ハイドは懇切丁寧にルーシーに教えて説いた。


 確かにルーシーの体力はまだ万全とは言い難く、今は我慢できていたはずの飢餓状態を発症している。そんな状態で出歩けば、間違いなく最期に海を見ることは叶わない。運が悪ければ殺されるか殺すか、いずれにしろ近い内に死んでしまうだろう。


 それに、現在のルーシーは完全にハイドのお世話になっている。彼の服を借り、寝台を借り、お風呂を借り、食事をもらい、それらの用意もしてもらい、あまつさえ元気になった姿を見てもらおうと少し激しく動いただけで倒れるルーシーを毎回運んでくれている。

 そのお礼もしないで去るというのも気が引けて、1週間経ってもまだハイドの元を去ることができていない。もっとも、ハイドの為を思うのならば早く立ち去るべきだろう。


「明後日、町に出掛ける。これから必要なもの・・・なんだろう?」


 先ほど言われた言葉を反芻し、必要とするだろう物を思い浮かべるも服と靴とフードのついたマント以外にルーシーは何も思い浮かばない。これまで一応生活できていたから、女性として必要な物と言われても絶対に旅に必要なものはそれくらいだ。


「あ、でもお金なら少し欲しいか・・・でも、お金をくださいとはさすがに言えないかな」


 一人言とはいえ、彼女の口から聞こえる声はすぐに掻き消されるほど小さい。

 ルーシーとしては普通の声量で喋っているつもりでも、ハイドからするととても小さな声だそうだ。それからは意識して大きな声を出しているのだが、いつも眉を寄せて難しい表情をするのでまだまだ大きな声を出さなければいけないのだろう。


 ルーシーがハイド以外と最後に喋ったのは、1ヶ月前に湖畔の近くでお世話になった老夫婦とだった。そのあと、北の森に一番近い村にあった井戸で水を飲んだ時、よろけて後ろの人に当たってしまい、フードが取れたことで謝ることもなく無我夢中で逃げてしまった。

 それ以降、何かの音が口から出たことはあったかもしれないが言葉を口にした覚えはない。


 ソファーに座ってハイドを待ちながら足をぶらぶらさせていると、直してもらった靴が目に入った。


 昨日、少しは運動しろと言われたので、きっと運動させて体力をつけさせるために無理矢理直したくれたのだろう。

 けれど、今のルーシーには運動は無理だ。今でさえも最小限度の動きしかしていない。体力をつかえばエネルギーがそれだけ減るということで、それはつまりルーシーには飢餓状態を今よりももっと更に酷くさせてしまう。ある種の自殺行為にあたる。


 どうせ飢餓状態が暴走するなら、ハイド以外がいい。彼に、これ以上の迷惑はかけられない。


 明後日、彼が町で旅に必要な物を買ってきてくれたらすぐにでも旅立とう。

 お礼はきちんと言葉を尽くして。彼が何を言おう が早く去った方が彼の為なのだから。


 ルーシーはそう決意して、扉の前で一旦立ち止まったハイドがゆっくりと扉を開く音を背中越しに聞いていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わたしを囚える青い月 都築 はる @fdln007

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ