愛と呼ぶんだぜ

「誠くん……どうしよお……」


 クリスマスが終わればすぐさまやってくる年末ムード。真輝さんの部屋に導入された炬燵でくつろいでいると、左隣に座った彼女が死ぬ直前みたいな顔をして何かを訴えてきた。


「……どしたんすか」

「年末年始、実家に帰ってこいって言われた……」

「別に、よくないっすか? お盆帰ってなかったですし」


 僕は今熱燗飲むのに忙しいんすよ。

 なのでこの人にもちょっと幸せを分けてあげよう。僕は適量注いだお猪口を左へスライドさせた。すると、彼女は水みたいに一瞬で飲みきって口を開く。


「うあー……その、な。お、女になったの親に言ってないんだわ……」

「ほーん」


 なるほど。だからもだもだとしているわけだ。とりあえずもっと味わって飲んで。これ僕の地元のそこそこいい酒なんだから——。



「なんですってこのバカチン!?」

「ぎゃふん」



「あんた女になって軽く半年も経って何言ってんだ!?」

「ちょ、ちょっと、誠くん、落ち着いて……」


 はあ? まあ確かに僕が取り乱す必要はないけども。というか自分で蒔いた種が立派に育った状態で今更すぎる。


「はぁああ。……でも、自業自得ですよ。自分でここまで引き伸ばしたんだから」


 僕はため息を吐きつつあえて真輝さんを突き放した。たまに忘れがちだけど、この人先輩なのだ。子供みたいに唇を嘴にしていじけているところ申し訳ないが、いい大人なので僕が与する理由はない。


「あ。でも、なんかそういう書類とかでもう分かってるんじゃないですか?」


 そうだ。ここは法治国家日本である。性別が変わった時、諸々と手続きをしていたじゃないか。


「あー。成人済みだとね、いろいろ一人で完結しちゃうんだ。つまりこのこと両親は気付いていない可能性が高い。さらに言うと息子が娘になったの知って、電話の一つよこさないとかありえない」


 なるほどなるほど。確かに、それもそうかもしれない。だから真輝さんもズルズル引き伸ばしてしまったのか。


「うーん自業自得」


「返す言葉もないな……」


 真輝さんはそれだけ言うともぞもぞと炬燵から這い出て、腹筋に一切力の入っていないようなヘロヘロの声で続けた。


「それでだ。君を男と見込んで頼みがある」


「……なんすか」


 彼女は頭を床に叩きつける勢いで下げた。また少し伸びた髪の毛がぶわっと広がる。


「あの、その……一緒にきて」


 床を這う、絞り出したような声。


「ホエア?」


「……実家」


「はぁあああああ」


 本日のクソデカため息いただきました。

 しかし、この人はこれで遠慮するような人間じゃない。


「あと、誠くんの車で行けると嬉しいなあ、なんて」


「……厚かましいにもほどがある」


「いや、タダとは言わないから! 飯代酒代高速代ガス代、全部私が出すからさ! 時間もここから二時間ちょっとだし……」


「……いや、もういいっす。わかりましたよ、行きます行きます……」


「う、うわぁい。やったー……」


 彼女は頭を下げたまま、五体投地の姿勢に移行する。


「なにやってんすか」


「土下寝」


 僕は何も言わずに、ドンキで買ったスウェットに包まれた尻をはたいた。




 ****




 十二月三〇日、年末特有の静かだけどなんか忙しない、ソワソワしたような空気。つられて背筋の伸びるような冷気の満ちる朝、僕は車を取りに自分のアパートに戻ってきていた。

 親のお下がりのオンボロ軽自動車のドアを解錠して乗り込むと、素早くエンジンを始動する。この時期の車内なんて外と大差ない。窓に霜が降りていたりはしていないが、ハンドルはキンキンに冷えているし、シートもなかなかちべたい。

 僕はマウンテンパーカーの襟元に顔を埋めるとスマホを取り出した。このオンボロ車にはカーナビなんて高尚なものは付いていないが、正直今はスマホがあれば不自由しない時代だ。僕は用品店で買ったホルダーにスマホをセットすると、シガーソケットからとった電源と、オーディオに接続する用のコードを接続した。


「冷た」


 そろそろ出ようと思ってハンドルを握ったら、まだまだ全然冷たいままだ。僕はエアコンのツマミを温度・風量ともにマックスにしてギアをドライブに入れた。





「……おまたせ」


 眠いのか、今だに踏ん切りがつかないのか釈然としない顔をした真輝さんが助手席に乗り込む。ボルドー色のニット帽(頭頂にはポンポンが付いてるやつ)に、ブランドや色こそ違うけど、僕のとよく似たマウンテンパーカーを着た彼女は、小さなため息を吐くと、「どっせい」の掛け声付きでボストンバッグを後部座席へ放り投げた。


「真輝さんお覚悟はいいか」


「……ういー」


 相変わらず気落ちしている彼女を横目に、僕は再び車を発進させた。


「とりあえず高速乗る前にコンビニ行きましょ」


「うい」




 歩道を歩く人の多くがキャリーケースを引いていることで、いよいよ年の瀬を迎えたことを実感しつつ車を走らせる。彼らはこのまま電車やバス、もしくは飛行機なんかで故郷へ帰るんだろう。いや、もしかしたら別の土地からこの街へ帰ってきたのかもしれない。

 そんな、取り留めのないことを考えていると、高速に乗る前に寄ろうと思っていたコンビニに到着した。軽食とか、コーヒーを買っておきたい。ちょうど空いていた一台分の駐車場に車を停め、サイドブレーキをギィっと引いて真輝さんに下車を促す。


「さぶっ……」

「せっかく車温まってきたのにちょっと勿体無いですよね」

「あぁね」


 朝から極端に静かな彼女は、僕の軽口にも気の抜けた返事しか寄越さない。

 ペラペラのドアを閉めれば、安っぽい音が彼女の心境を代弁しているようだった。



 僕が目当ての缶コーヒーや菓子パンを手に店内をぐるっと回ると、真輝さんは飲料用冷蔵庫の前で何か考え込んでいた。


「どしたんすか」

 ちなみに、バッチリお酒コーナーの目の前である。

「誠くん」

「はい」


 彼女は命乞いをするような面持ちでビールを指差す。


「飲んでいい?」

「……はぁ。いいっすよ、潰れない程度なら」

「やったぜ」

 彼女は、今日初の満面の笑みを浮かべて喜びを表した。……この人、本当に酒さえ飲ませておけばそれだけでいいんじゃないのかな? 僕は細かいことを考えるのをやめた。


 そして、いそいそと車に戻るなり彼女は早速一本目のプルタブを起こすやいなや、「誠くん! ありがとうございます!!」と叫んだ。

「うわっこの人音量バグってる!」

 僕は律儀にツッコミつつ、やっぱり結構ナーバスになっているんだなと察した。真輝さんは追い詰められたり弱っていると、突拍子も無いことを叫んだり無駄に元気に振る舞う癖がある。


「大丈夫っすよ。なんとかなりますって」


 冬の空気のせいか、殊勝にも僕は彼女を慰めるように呟いてギアをリターンに入れた。


「……うい」


 真輝さんもいつもより勢いが続かない。僕は車道に車を滑り込ませると、気持ち優しめにアクセルを踏み込んだ。




 しばらくたって、僕らは高速道路の上。僕の愛車は快適装備の少ない最低グレードで、スピードを出すとエンジンがかなり頑張っている音をたてる。


 流れる景色を眺めながら、缶を口元へ運ぶ真輝さん。

 運転席側の窓を少し開けて、加熱式のたばこをふかす僕。


 お互いにちょっと気を張っているのか、会話は少ない。唸りを上げるエンジン音とタイヤが拾うノイズがいつもより大きく聞こえる。


 カーステレオからは、真輝さんお気に入りの洋楽のバンドが流れている。確か高校時代に友人から教えてもらったとか。かなりテンポが速くて調子のいい曲ばかりが流れていた。

 外にいれば眩しいだけの冬の太陽も、ウインドウ越しならぼんやりと暖かい。僕は細いハンドルを握った左の親指でリズムを取りつつ真輝さんに話しかけた。


「真輝さん」

「んー?」

「どんな感じで説明するとか、決めてるんすか?」

「いや、特に何も」

「……ウッソでしょ」

「もう家に頭から突っ込むしかないなぁ」

「真輝さん降ろしたら僕速攻で帰りますから」

「えぇー、一緒に死のうよ」

「僕が出てきたら余計に話が拗れるでしょうが」

「しどい!」


 吹っ切れたように小さく叫んだ真輝さんが、缶の残りを一気に飲みきったのを視界の端に捉えた。パーカーを脱いでゆったりとしたニット姿になった彼女が、大きく伸びをして「まあやるしかないか!」と自分を鼓舞していた。





 **





 どうしてこうなった……どうしてこうなった!? と踊り出さない僕を誰か褒めて欲しい。

 僕は今、真輝さんのご実家の居間の炬燵で正座をしている。なにせ向かいに彼女のお父さんがいるのだ。痩せ型だけど人の良さそうな白髪混じりの、ジェントルマン的な雰囲気のお父さんが、腕を組んで困惑した表情のまま固まっている。


「あったかいお茶どうぞぉ。あとこれ、お口に合えばいいんだけど」

「あっ、スミマセン、おかまいなく……」


 真輝さんのお母さんが温かいお茶と羊羹を差し出してくれた。僕はぎくしゃくとお礼を述べて、左に座った真輝さんを横目で窺う。

 久方ぶりの帰省のはずの彼女は黒いスキニーに包まれた片膝を立てて、ここ最近見た中で最も男らしい座り方をしている。なんでやねん。

 ちなみに、家の前に車を停めたタイミングでお父さんが家の外にたばこを吸いに出てきたものだから、悪い方向に吹っ切れた真輝さんにそのまま連行されたわけである。一応家に上がる時には、大学の後輩と紹介された。


 そして炬燵の上には診断書やら免許証やらなにやら、真輝さん本人だと証明するものが並べられている。


「ううん。本当に、真輝なんだな……?」

「嘘偽りなくお二人の元息子でございます」


 慇懃に言い返す真輝さんに対して、眼鏡を外して眉間を揉むお父さん。

 いや、ここまで引っ張った挙句僕を巻き込んでややこしくした張本人がなんで一番態度でかいんだよ。


 僕が背中に冷や汗をかきまくっていると、姿が見えなかったお母さんが戻ってきて古びたアルバムを広げた。


「もうお父さん。この生意気な感じ、小さい頃の真輝そっくりじゃない、忘れたの?」

 そう言いながら指差す写真には、今と同じ場所、同じ座り方をしている少年時代の真輝さんが写っていた。


(おお、意外と女顔だったんだ)


 面影を強く感じる写真に素直に感心して現在の本人を見やると、ふてくされた顔を少し赤くして斜め上を見上げていた。


 ううん、確かに、と相槌を打つお父さんと和やかなお母さんとを見る限り、なんとかなりそうだと僕は胸をなでおろした。まあ、じゃあ君はなんの為にいるんだという話だけど。


「ごめんなさいね、あんまり突然だったからお父さんもお母さんも驚いちゃって。それと、真輝。今まで気が付かなくてごめんね」


「え、何が?」


「あなたが、そういう体と心の不一致を抱えてたなんて、私たちちっとも気付けなくて……」


 そう言って、沈痛な面持ちになる真輝さんのご両親。切り替えが早くて理解もある素晴らしいご両親なのに、なんで真輝さんはこんな酒クズになってしまったんだろう。そしてなんか、話がえらい方向に進んでいるぞ?


「んんん? 何に気付かなかったって?」


「真輝、ずいぶんと綺麗になったじゃない。その……手術とか、大変だったんじゃない?」


「手術? なんのこと?」


 あ、これ食い違いが起きてるな。どうやらお母さんはリアリストのようだ。真輝さんのこと、お薬や外科手術で女性になったと勘違いしていらっしゃる。


「あ、ごめんね。いくら家族でも、プライベートなことだもんね……」


 ポカンとする真輝さんと、勝手に納得して話を進めて行くお母さん。そしてお父さんの方は真剣な顔で虚空を見つめている。あーもうめちゃくちゃだよ……。


「真輝さん、真輝さん」

 僕は堪らず、小声で真輝さんに耳打ちした。

「ん?」

「これ勘違いされてますよ。もともと真輝さんの心が女性で、性適合手術を受けたとかそんな感じに」


「はあ!?」


 真輝さんが完全に理解したのか、素っ頓狂な声をあげた。そしてそれで魂が戻ってきたのか、お父さんがビクリとして我に返る。


「いやいや、これ読んだ?」

 真輝さんが広げた診断書をバンバンと叩く。

「なんか今、急に性別が変わるのが稀によくあるらしくて、私はたまたまたそうなっちゃっただけ! 今の今まで女になりたかったとか全然ないから!」

「で、でも真輝、あなた今、自分の事って。それに洋服もちゃんとしてるし、メイクもしてるじゃない……」

「そ、それは、年相応の身だしなみというか……! ああもうままならないな!」


 いや、まあ。ややこしいことこの上ないし、ままならないのもよくわかる。そもそも、僕らやその周りが適応しすぎてるだけなのかもしれない。というか、僕この場にいていいんか? 叶う事ならワープして帰りたい……。


「とりあえず、こうなったのは事故みたいなもんだし、今はそれで納得してこうしてんの! 手術とかそういうんじゃないから、わかった!?」


 あーん修羅場。どうすんだよどうすんだよ。今なら手汗で溺れられるね。もうほんと呼吸ができなくて死にそう。


「え、ええ、じゃあ、真輝は本当に女の子になったっていうの?」

 お母さん大丈夫ですか、顔真っ青ですよ。

「マジマジ超マジ。毎月生理もきてるしおっぱいも本物だから! あと私こちらの誠くんとお付き合いしてます! 紹介が遅くなりましたッ!!」

 真輝さんが手加減なしに核爆弾を投下すると、ハイ、お母さん卒倒してしまいました。


「「お母さん!?」」


 仙庭父娘がユニゾンで駆け寄る。僕もそうしたかったけど、足が痺れててその場に転んでしまった。

 ……なんだこれ。




 **




 どうしてこうなった、セカンドシーズン。


 なんか、流れというかなんというか、そういうのでご飯とお酒をいただいておりますイン仙庭家。というかお父さん、ジェントルな感じだったのにめっちゃ酒飲むし笑い方が真輝さんに若干似てる。さすが親子といったところか。

 ちなみにご両親共々公務員らしく、お父さんは市の農林土木課に勤めていて、お母さんは中学の国語教師らしい。なんでこのお二人から真輝さんが生まれたんだマジで。突然変異かな? まあ、こうやってお話聞くと本当に見た目だけで特にグレてたりしたことはないらしいけど。

 本人はめちゃくちゃに恥ずかしがっていたけれど、昔の話なんかもしてもらった。真輝さんはあまり話したがらないが、彼女は中学高校と卓球部だったと以前聞いたことがある。実際に写真を見せてもらったが、ラケットを持ってはにかんでいる純朴そうな少年と今のピアスバチバチな真輝さんが同一人物とはなかなか思えない。世の中わからないものだ、性別が変わってしまったことは別として。


「いやあ誠君、すばらしい飲みっぷりだね! ワハハ!」

「あ、ありがとうございます。いつも真輝さんに鍛えられてまして……あはは……」


 グラスに注がれるビールを飲んでお返しで注いで愛想笑いを繰り返すマシーンになった僕の目の前で、お父さんが上機嫌にビールを飲みまくる。そんな僕の左隣では真輝さんとお母さんが近況を話し合っている。


 ——この家族、適応能力カンストしてるなあ。


 カンストしているというか、表に出さないというか。実際に真輝さんは、努めて不安とかを表に出さないように振舞っていたし、そういうところが親子で似ていてもおかしくない。


「あはは、お、お父さんちょっとペース早くないですか? お水とか大丈夫ですか?」

 これが新入生とかだった場合、席から即引き剝がしてる勢いだ。僕は流石に心配になって、水の入ったグラスを差し出した。


「おお、ありがとう。……いやはや、正直ねえ、私も理解がほとんど追いついていないんだよ」


 一杯の水を飲んだお父さんは、据わった目をして力なく笑う。核爆弾の片割れである僕が言えた立場じゃないけど、頭が追いつかないのもしょうがない。彼はグラスに残っていたビールを一息で飲みきると、あつい息を吐いてテーブルの反対側に視線を送った。


 そこでは、真輝さんとお母さんが何かスマホを覗き込んできゃいきゃいやっていた。お昼は卒倒してしまったお母さんだけど、やっぱりこういう切り替えは女性の方が早いらしい。お互い、いい感じに酔っ払っているのか中々に赤裸々な会話が聞こえてくる。

 ……というか確実に真輝さんの肝臓はご両親から受け継いだものだな。この家族グラスの空くペースが尋常じゃない。


 僕が愛想笑いを浮かべたまま、矢継ぎ早に注がれるのを避けるためチビチビとビールに口をつけていると、向かいのお父さんがどっしりと低い声で言葉を続けた。


「月並みだけど、人生何があるか分からないものだね。一人息子が一人娘になるなんて、思いもしなかったよ」


 お父さんはそう静かに呟くと、手にしたままのグラスを傾けるので、僕は何も言わずに新しいビールを注いだ。

 当たり前だけど、ご両親はそれこそ真輝さんが生まれた時から真輝さんを知っているのだ。真輝さんが女性になって帰って来たときの衝撃といったら、僕が受けたものなんか足元にも及ばないと思う。それでも、この方たちはしっかりと彼女のことを受け入れつつある。真輝さんも、すっかり変わってしまった今の自分が受け入れられるか、不安で仕方なかったはずだ。


 あとは、時間が全部解決してくれるだろう。僕は、強かな家族の関係を目の当たりにして、胸がじんわりと暖かくなるのを感じた。


「だからこういう時は飲むに限るね! どうせ考えても無駄なんだからな! ワハハ!!」


 こういうタイミングで暴発するのも遺伝かな?


「アッハイ。そうですね……」


「誠くん、親父の秘蔵のウイスキー飲もうぜ! なになに、響の二十一年か!」


 そこに戦略核な真輝さんが乱入。手には何やら高級そうな瓶。


「ちょちょちょっと、真輝、それはやめなさい……」


 一気に泣きそうになるお父様。


「どうせいつか息子になるんだからいいでしょ! な、誠くん!」


 真輝さんが僕の肩を抱くようにバシバシと叩く。


「ふええ」




 **




 真輝さんの部屋、高校時代のジャージを貸してもらった僕は、ベッドの隣に敷いてもらった布団にあぐらをかいて彼女のことを眺めている。飲んだら乗るなという事で、一晩泊めてもらう事になったのだ。よくよく思い返せば、僕へ執拗に夕食を進め、飲まそうとしてきたのは他ならぬ真輝さん本人だったような……。


「ハメられたかな?」


「んー?」


 守りたいこの笑顔。まるで「計画通り」と顔に書いてあるみたいだぁ。


「女になった衝撃を誠くんで上書きする作戦、大成功」


 ちくしょうそんなとこだと思ってたよ。


 お風呂を済ませた彼女は、持参したパジャマ代わりのスウェットに着替えて、憑き物の取れたような顔で就寝前のストレッチをしている。


「よーしぼちぼち寝るか。電気消すぞー?」


 最後に軽い背伸びをした真輝さんが、そのままの流れで照明のリモコンを手に取り言った。


「ん。了解です」

「ポチッとな。いやあ今日もお酒いっぱい飲んだので私は幸せですー」

「僕はめっちゃ変な酔い方しそうでしたよ……」


 蓄光塗料の緑っぽい薄明かりの中、上機嫌でベッドに潜り込む真輝さん。彼女は僕の苦言には特に反応もせず頭まで掛け布団をかぶると、盛り上がったシルエットが「布団冷てー」と愚痴をこぼした。


 なんかすっげえ疲れたなあ。僕は鼻から小さく息を吐く。変に緊張していたのか、ひどく肩が凝っていた。


「誠くん」


 僕も布団に入ろうとしたとき、真輝さんが僕を呼ぶ声が聞こえた。


「はい?」


 ベッドの方を向けば、真輝さんは頭まで被った布団の中でいたずらっぽく微笑み、掛け布団を片腕で持ち上げていた。

 暗がりの中で、細めた瞳だけが妙にはっきりと輝いて見える。


「今更私一人で寝かせるのかよ」


 甘ったるい囁き声が僕の鼓膜を震わす。

 ちょっとそれはずるいと思うんだ僕は。


「んんんんんっ」


 僕は思いっきり目を閉じて、湧き上がる衝動を理性でフルボッコにした。初めて訪れた彼女の実家で事に及ぶとか流石にね? 僕にも分別くらいある。……メダカ程度くらいは。


「あははなんだそれ。変な顔しやがって」


 恐る恐る目を開ければ、布団の中、毛布をかき寄せた真輝さんが蠱惑的に微笑んでいる。


「い、いいんすか?」


 哀れ僕の理性、衝動から一発カウンターを頂戴した。僕も手のひらクルクルですよ。


「エッチなことはお預けだけどな。……おいで」

「ふええイケメェン……」


 メコンの明日はどっちだ!? 女ケ沢先生の来世にご期待ください! センパイさんそういうところズルイ! なんだかなあ……。

 ま! 行きますけど! 眼鏡キャストオフ!!


 ベッドの奥に少し詰めた真輝さんはそのまま僕を招き入れた。まだ冷たい部分の多い布団に、彼女の体温の名残を感じる。


「おー誠くん来た来た。なんだまた変な顔して?」


 すると頭一つ分低い位置から、揶揄うような声音が響く。


「つ、疲れてんすよ、いろいろ……」


「うん。今日はありがとな。……君がいて助かったよ、ほんと」


 彼女は照れ臭そうにそう呟くと、僕の手に指を絡めてきた。


 ——僕の手の中に収まるような、小さくて、細く、それでいて柔らかな手。


 小さくなってしまった身体で背負わされた様々な重荷を偲ぶと、どうしようもなくこの温もりが愛おしくてしょうがなくなって、彼女を抱き寄せた。


「んへえ」


 彼女はくすぐったそうに、しかしどこか満たされたような声をあげて、ころころと笑う。

 息を吸い込むと、慣れない家の匂いと、心の落ち着く香りがした。





「誠くんから俺の匂いする……」


「もぉーなんで今そういうこと言うかなあ」


「ガハハ!」





 ****





「実家ってやばくないっすか?」


「やばいなー」


「言い方悪いっすけど何もしなくてもご飯が出てくるんですよ」


「出るなー」


「あとお風呂が広いんすよ」


「家にもよるけど広いなー」


「ただ地元めっちゃ寒かったっす」


「ほえー」


「あんまり雪は降らないんですけど風が強いんすよねぇ」


「んふふ」


「……どうしたんすか急に」


 並んで歩いていた真輝さんが、辛抱たまらないといった感じで笑い出した。なんか僕変なこと言っただろうか。今は特に笑いどころ無かったと思うんですけど。


「誠くん寂しかったん? わざわざ駅まで迎えに来てさ、さっきからずっと喋ってる」


「あ……いやぁ……まあ」


「素直じゃねえなあ」


 ボストンバッグを僕に預けて身軽になった真輝さんが、僕の脇腹を肘でグリグリしてくる。


「痛い痛い痛い」


「この欲しがり屋さんめ、このこのぉ」


「よっしゃ荷物捨てたろ!」


「ちょ、お前やめろ、やめて!」


 僕らはじゃれ合いながらアパートへ歩みを進める。一応まだお正月だから、少しくらい浮かれているのも大目に見て欲しい。


「そういやいつもの店いつから営業してたっけ」


「さっき前通ったらもう開いてましたよ」


 僕がそう言うと、彼女はそれはそれは満足げに頷いて口を開いた。


「それじゃ、いっちょ飲み始めといきますか」


「あぁーいいっすねえ」


 そうと決まればダラダラしてられない。あと、お正月だからね、飲まなきゃ失礼でしょう。何に対して失礼なのかは各々の判断に任せます。やっべテンション上がってきたな。


 そんな僕を眺めていた真輝さんが、またクスリと笑った。


「どうしたんすか? 早く行きましょうよ」


「んー、なんでも。ま、改めまして、今年もよろしくお願いいたします」


 彼女は急に僕の前に回り込んで、深々と頭を下げた。


「あ、ハイ。こ、こちらこそ、よろしくお願いします……」


 僕も善良な日本人のDNAには逆らえず、お辞儀を返さざるを得ない。そして、僕が顔をあげると、彼女は少年みたいな笑顔で手を叩いた。


「よっしゃダッシュ!」


「うえっちょっ!?」


 年が明けたばかりの、まだ新しい陽光に照らされた弾む息は白い。

 少し先をゆく彼女がくるりと振り返えれば、鼻先と頬に朱が差している。

 冷たい空気をたっぷり吸った肺が痛い。


「ハリーハリーハリー!」


「アッハハハ! ちょっと待ってくださいよ!」


 彼女が僕の手を取って急かす。

 手袋越しに伝わる温もりと柔らかさ。

 なんだか無性に嬉しくて、僕たちは自然と駆け出していた。

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