ガラス窓を拭く女

北風 嵐

第1話 

しめ子は窓ガラスを拭くのが幼い時から好きであった。

学校の期末の大掃除は、嬉しく張り切ったもので、そこのとこ、友達もわかっていて

「しめちゃん、廊下でないほう、全部残しといたからね」と言ってくれる。


しめ子の家はかつて神戸の山の手にあって、洋館建てだった。窓には緑色のガラリがあって、窓は左右ではなく、上下に開いた。

その窓から神戸の街が見下ろせた。家並の向こうに海、夕焼け時に港に泊まる船のマストが林立したシルエットを見せるときなどはうっとりして、息を吸うのも忘れてしまうぐらいであった。月夜はまた違う趣を見せた。


洋館建てと言っても、祖父が壊れそうな家を安く買った。

おかげで、父親は修理、修繕に追われ、家の食事は貧しかった。

窓がたくさんあって、当番はしめ子に決まっていた。

そんなことで、ガラス窓を拭くのが好きになったのかもしれない。


もう一つ、しめ子の好きなものに、スケッチがあった。メリケンパークに行ってはよく船を描いた。その絵を褒めてくれたのが夫である。

その夫が失業した。しめ子は働きに出た。せっかくだから、好きなガラス拭きを仕事にしたいと思った。

高いビルをゴンドラで拭いている人を見上げては、憧れていた。

「ダメダメ、女はでけんよ」と言われたが、しめ子は粘って採用された。


ガラスに雲が映る。その雲を拭く。雲が流れる。綺麗になった。まるで空中で仕事をしているようであった。

しめ子はたいそう気に入り、夫の再就職が決まっても仕事を続けた。


オフイスの中が見える。キビキビとしたオフイスレデイたち。

課長席に頭を下げる平社員。夫もあのように頭を下げるのかと思ったり…。

社長さん、社長室で一人お弁当、何だか寂しそう。

社員食堂を見ていると、こちらまでお腹が空いてくる。さっさと済ましておにぎり弁当食べたくなってくる。

清掃中はマスクをしている。けっこうホコリだし、やっぱり女。だからしめ子を女と思う者はいない。最も中から見る人は物みたいに無視しているけれど…。


最近の超高層マンションは、オフィスビルのように、ベランダがないものが多くなった。鉢植えや、ちょっとした物を落としても危険だからだろうか?そのようなマンションも仕事になってきた。

上の方の階は見られていないと思うのだろうか、陽射しがないときは、ブラインドやカーテンしてないところが多い。

「もうちょっと、キレイにしたら。高いマンションなのに」とか、住んでる人の性格までわかってしまう。


あるとき、しめ子は夫と似た人を見た。綺麗な女性と一緒だった。まさかと思っていたら、窓側に置かれた上着は夫の物であった。しめ子はゴンドラから落ちるのではないかと思う程驚いた。降りてからも、心臓がパクパクしていた。

夫にはその話は切り出せなかった。


上から、人が落ちてきた。飛び降りである。しめ子の横を落ちていった。

一瞬目があった。夫だとわかった。なんでだろう、夫婦だから…一瞬の直感であった。

以前、夫は萩原朔太郎の散文詩を例にして、「高いビルから飛び降りるのは怖くない。ただ、落下の途中、一瞬、すべきでなかったと思うのが怖いのだ」とか言っていた。しめ子は、詩人は変なこと考えるものだとそのとき思ったものだ。


夫の目は怖がっていなかった。夫の自殺理由は、女性にマンションを買ってやるために、会社の金に手を付けたということであった。


しめ子は今もガラス窓を拭く仕事を続けている。ガラスに雲が映り流れていく。しめ子を女性と見る人はいない。


            了



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ガラス窓を拭く女 北風 嵐 @masaru2355

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る