エリカの園~魂を解き放つ扉~

八百十三

エリカの園

「あーもーやだっっっ!!」


 東京都新宿区、神楽坂。

 早稲田通りから一本奥に入った、昔ながらの街並みを残す路地を、スーツに身を包んだ女性が拳を振り上げながら声を張り上げ歩いていた。

 顔がだいぶ赤い。飯田橋の方かどこかで、仕事帰りのビールでも呷ってきたのかもしれない。

 振り上げた拳をぶんぶんと振り回す、彼女の赤ら顔は憤怒の色に満ちている。決して酒のせいというわけではないのだろう。


「あンのクソ上司!!今日も今日でネチネチと小言はうるさいし、会議から帰ってこなくて仕事を止めるし、飲み会の席で堂々とセクハラしてくるし!!

 なーにが『相野あいのさんは垢抜けてなくて仕事が出来ないところが可愛いねぇ~』だ!!還れ!!毛根軒並み塵に還ってハゲ散らかせ!!」


 そう、人気の少ない裏路地で彼女――相野あいの 園子そのこは吼えた、人目も憚らずに大声で吼えた。

 ちらちらとすれ違うサラリーマンやおじいさんが何事かとそちらを向いてはそそくさと去っていくのを気にも留めずに、園子はずんずんと裏路地を歩いていく。

 と。


「もーやだほんと、こんな人生……あれっ?」


 園子は唐突に声を潜め、振り上げた拳を下ろして立ち止まった。

 路地の先、突然にスーツを着たサラリーマンが姿を現したのだ。なんだか路地に面した脇道から出てきたようにも見える。

 そしてそのサラリーマンがこちらに向かって歩いて来るのだが、何というか、見るからにやる気と活力が漲っている表情をしている。

 園子に気を留めることなくこちらに歩を進めるサラリーマンに、思わず園子は道を譲った。スーツ姿のその男性の背中を見送ると、恐る恐る彼が向かってきた方向へと視線を向けた。


「なんだろうあれ……あそこって何かあったっけ?」


 園子は眉を寄せながら首を傾げた。

 実際、この路地はしょっちゅう通っている。今日みたいに酔っぱらいながら通ることだってざらにある。だって家までの帰り道だから。

 しかし、この路地のあそこの場所に店などあった記憶はない。事実今も看板とかは出ていない。ただ、どこに繋がるでもない細い脇道が、風景に溶け込むようにしてあるだけだ。

 先程まで遠慮なく吐いていた気炎を収めて、足音静かに先程のサラリーマンが出てきたところに向かう。

 やはりそこには人ひとりが通れるくらいの幅の、コンクリートブロックが両脇に積まれた薄暗い道がある。

 その突き当りには、古めかしく年季の入った木製の扉があるばかり。看板も、表札も出ていない。黒くくすんだ大ぶりの蝶番と、同じくくすんだ色合いのノブが付いているだけの、何の変哲もない扉だ。

 視界に入ったところで気に留められることも無い、気に留めたところで触れようとする気も起きない、神楽坂の裏路地という風景に凄まじいまでに溶け込んだ扉だ。

 そんな何でもない、今までずっと何でもないと思っていたはずのその扉が。

 何故か今は、殊更に私の関心を引いていた。


「新しい隠れ家的なお店でもオープンしたのかな……?行ってみよっと」


 吸い寄せられるように、引き込まれるように、園子は路地の脇道へと入っていった。短い脇道を進めば、50センチメートルも歩かないうちにその扉が目の前にやってくる。


「(ま、嫌な気分をすっきりさせられれば、肉でも酒でもなんでもいい……)」


 そう思って、扉の向こうの空間に思案を巡らせながら、ドアノブを掴む園子。

 その手に僅かに、力が篭もった瞬間。

 まるでビル風でも吹くかのような勢いで、園子の後方から突風が吹きつけてきた。

 風に煽られた勢いでぐらりと傾いだ身体が、開かれようとしていたドアをぐっと押す。


「やっ……!?」


 小さく叫び声をあげた園子がドアの内側へと転がり込むと。

 ノブを握る者のいなくなった扉が、まるで園子を内の空間に飲み込んだことなどなかったのように、小さく軋む音を立てて一人でに閉じた。




 気が付くと園子は、顔や手の下にふさふさした感触を感じた。

 それはまるで、公園の芝生の上に寝転がった時のような感覚で。意識が鮮明になると同時に、草の匂いが鼻をくすぐってくるのも分かる。

 手のひらを自分の方に引き寄せると、腕や手首に草が擦れて、ちょっとくすぐったい。

 と、そこで。何かに気が付いた園子は腕を止めた。


「……ん?」


 そのままうっすらと目を開けた園子は、自分の視界に映る情報を整理するのにしばしの時間を要した。

 自分の目線の高さに広がる、青々とした下草や色とりどりの花が咲き乱れる草原。

 草原の向こうに広がる近代的な街並み。

 白い雲が風に流されていく抜けるような青い空。

 その風景の中にぽつぽつと存在を認められる、犬や猫、鳥といった小動物から、虎やライオンや狼、鷹にフクロウ。はたまた三つ首のドラゴンにグリフォンといった幻獣たち。

 それだけならまだしも、自分の視界に一等大きく映っている、雪のような白色にスカイブルーの縞が入ったもふもふした物体と、同じ色で同じ模様の入った視界の下側で主張している何か。


 おかしい。扉を潜る前の神楽坂は夜も夜、すっかり暗くなって月が高く登る時間だったはずだ。

 そもそもこんな広大な草原が、神楽坂のどこにあったというのか。

 加えてあの猛獣たちに幻獣たちはどういうことだ。それ以前に自分の身体も明らかに人間のそれではない毛皮に覆われている。

 混乱と困惑に思考が追い付かなくなりながら、がばっと身体を起こした園子が、自分の身体に視線を走らせる。

 彼女は完全に、まるで生まれた時からそうだったかのように、白い毛皮の虎獣人へとその姿を変化させていた。


「えっ、なんっ、なにこれ!?」


 短い口吻に鋭い牙の生え揃った口を開いて思わず声を漏らすと、不意に天から声が降ってきた。


「ようこそ迷える人の子よ、ここは『エリカの園』。迷える魂を癒すための場所」

「えっ?誰……って、『エリカの園』?」


 声の出所を探らんと、身体を起こして短い耳をピンっと立てながらきょろきょろとあちこちを見回す園子。だが声の主らしい人の姿はおろか、動物の姿すら彼女の周囲には無い。

 エリカの園。その名前に聞き覚えはない。

 もしかしてあれか、今流行りのVR空間とかそういうやつだろうか。扉の中に転がり込んだ拍子に気絶して、知らぬ間にヘッドマウントディスプレイを取り付けられたとか。

 しかしそれなら先程の、草が身体に触れる触感はどういうことだろう。そう思って園子は自分の手首に視線を向ける。仕事用の腕時計を付けていたはずだが手首にそのステンレスの輝きは無く、代わりにミサンガのような色鮮やかなビーズアクセサリーが、自分の両の手首で光っていた。

 事実、起き上がった拍子に腰から生えている長い尻尾が草に触れているのだが、その尻尾が下草に埋もれている感触が、園子には確かに伝わっていた。これが拡張現実ならどれほどハイレベルなものだというのか。

 天からの声は数拍、間を置くと再び園子に話しかけてくる。どうやら周りにいる生き物たちにはその声は聞こえず、彼女にだけ声が届いているらしい。


「『エリカの園』は魂を肉体という枷から解き放つ場所です。踏み入った人間の肉体は地上で保存され、魂だけがこちら側にやってくる……その際、その魂の本来の姿・・・・へと形を変えます。

 弱き獣になる者もいます。強大な力を有する魔獣になる者もいます。貴女のように、知性を持ったヒトになる者もいます。

 そうして、ありのままの姿を曝け出し、人間社会で魂に溜まった汚れや疲れを癒す場所――それがこの『エリカの園』」

「魂の、本来の姿……」


 天からの声による説明を反芻しながら、園子は自分の身体に視線を落とした。

 白い毛皮を持つ女性の虎獣人だ。それなりに形のいい胸は背中側で縛った生成りの綿布で覆い隠し、腰には同じ素材の腰巻を付けている。両手首と左足首にはビーズ製のミサンガ。耳にもビーズ製のピアスがつけられているようだ。

 野性的でシンプルだが、女性らしい装いだ。スタイルもほどほどに良いのがちょっと嬉しくなる。

 乳白色をした両手の爪は肉食獣らしく尖っていて、ナイフのように鋭い。手のひらにはピンク色の肉球が備わっていて、ぷにぷにと柔らかい。

 そんな自分の姿を再確認したところで、園子は空を見上げた。眩い太陽が、自分を、世界を煌々と照らしている。

 目を細めつつ、白い毛皮に覆われ指が太くなった左手を目の前に翳すようにしながら、園子は口を開いた。


「私は、ずっとこのままなんですか?」

「いいえ、今の貴女の姿は、人間という肉体の器から離れた魂が形を取っているだけ。

 『エリカの園』から離れれば、貴女の魂は再び人間の器に戻り、人間としての人生を歩み始めます」


 天の声の抽象的な言葉に少しだけ目を細めて、園子は思考を巡らせた。

 今のこの姿は、この「エリカの園」とやらの中にいる間だけのもの。ここから出れば、元通りの人間に戻るということらしい。


「ここから出ることは出来るんですか?」

「魂の穢れが取り払われれば、自然と魂が身体に戻ります。

 どれだけこの園で時間を過ごしても、外界では1時間しか経過しません……時間の流れが、外とは異なるのです」


 その話を聞いて、園子は理解した。

 先程あそこの路地から出てきたサラリーマンも、この「エリカの園」にいたのだ。そうして魂の洗濯を済ませていたのだ。

 そうであれば、あれだけ活力に満ち溢れていたのも分かる。穢れが取り払われるまでの間は、この世界で過ごせるのだ。会社を一日休むのとは訳が違う。

 一気に表情を明るくした園子が、嬉々とした声色で天上へと問いかける。


「ここでは、何が出来るんですかっ?」

「貴女の望むことなら、なんでも。

 この草原で自然のままの生活を営んでもいいです。街に行ってヒトらしい生活を営んでもいいです。山に登り、過酷な環境に身を置いてもいいです。

 飢えも、お金も、心配することはありません。貴女が望めば、いくらでも用意されます。

 ただし先程お伝えした通り、魂の穢れが取り払われれば――すなわち貴女の心が満たされれば、その時がこの園を離れる時です。

 どうぞ、心をしっかりと満たして、外界にお帰り下さい……」


 天の声は空気に溶けるように小さくなって、最後の方など微かにしか聞こえない程度になって、やがて聞こえなくなった。

 目を真ん丸に見開いた園子が、徐に自分の開いた手のひらを見つめる。


「望めば、いくらでも用意される……?ハハッ、そーんな都合のいいことあるわけ……」


 そう、口角を持ち上げながら言うも。頭の中では妄想が留まることはなく。


「(そーいえばこないだ雑誌で見た飯田橋の北京ダック美味しそうだったなぁ、今日こそあれ食べて帰ろうと思ってたのに、おのれクソ上司……)」


 こんな天国のような空間なのに、何故かあの厭味ったらしくセクハラ上等な頭の薄くなった憎らしい課長の顔が浮かんで、園子が微妙にむっとした気持ちになると。

 ぼわん、という音と共に、目の前にこんがりと皮目が焼かれた巨大な肉が現れた。

 ジュウジュウと音を立てた肉は明らかに焼き立てだ、煙も立っている。ほんのりと漂う肉の焦げた匂いが、まさしく食欲をそそった。

 思わず、ごくりと唾を飲み込む園子、だったのだが。


「これ……何の肉?」


 彼女は訝し気に首を傾げた。

 北京ダックにしてはあんまりにも巨大だ。アヒルどころか豚の丸焼きレベルのサイズである。それに折りたたまれた手足も随分と太い。明らかにアヒルの肉ではない。

 しかし、美味しそうなのだ。正体がどうあれこの上なく美味しそうなのだ。

 恐る恐る、折りたたまれた前肢に手を伸ばす。軽く引っ張ると簡単に肘関節が外れ、中の骨が露になった。

 千切れた肉は柔らかそうで、閉じ込められた肉汁がぽたぽたと滴っている。断面から立ち上る湯気と一緒に、甘い脂の香りが鼻を突いた。

 もう辛抱たまらない。園子はむしり取った前脚の肉に鋭い牙を立てた。

 と。


「んまっっ!?」


 美味しい。

 予想を通り越して非常に美味しい。

 肉の脂はしつこくないのにまったりとした甘さがあり、肉質も柔らかさを残しながらしっかりと火が通っている。

 園子は思わず残った腕の肉にかぶりついた。それこそ貪るように。

 そうして手首のあたりまでの肉を食らい終えて、彼女はようやくそれ・・に気が付いた。


「え、これ……!?」


 肉を食らって露になった骨の形が、非常に見覚えがある形をしている。更に言うなれば、左手で掴んでいる焼けてぶっくりと膨れ上がったも。

 思わず屈みこんで、肉塊の頭をぐいと持ち上げて顔を覗き込む。へちゃむくれて焼け焦げて、髪も全部抜けて元の面影なんてちっとも無いが、この特徴的な鼻の形。間違いない。


「課長……!?」


 そう、相野園子の直属の上司、課長の西村だ。

 今日の昼間に散々叱責してきて、今夜の飲み会でセクハラをかましてきた、あのクソ上司だ。

 それが全身の毛という毛を処理されて、蹲った形になって、全身をこんがり焼かれて美味しい丸焼きと化している。

 思わず、手首から先が残ったままの肉を取り落とす。どさっという音と共に、草地の上に骨と肉が転がった。

 食べてしまった。丸焼きにされた、直属の上司を。

 しかし、そう自覚した園子の口元から、たらりと涎が垂れる。

 上司の肉は随分と美味しかった。美味しかったのだ。そしてこれが上司だというのなら、これほどにストレスを解消できる方法もない。なにしろ上司を物理的に食らえるというのだから。

 園子の口角は、自然と持ち上がって口が弧を描いていた。改めて、肉塊の前でぱんと指の太くなった両手を合わせる。


「課長……いただきますっ!」


 そこからは早かった。

 腕を引き千切っては骨までをしゃぶり、足を捥いでは太ももの引き締まった肉質に舌鼓を打ち、でっぷりとした柔らかい腹を食い破ってはよく火の通ったホルモンに食らいつき。

 あばらの下から手を突っ込んで心臓を引っこ抜いた時には、それこそ天にも昇るような心地よさを感じたものだ。

 そうしてどんどんその肉塊を喰らっていき、数時間をかけて最終的に骨と頭のみが転がるだけにした園子は、パンパンに膨れたお腹を太陽に晒すようにして仰向けに寝転がった。

 両手は肘まで血にまみれ、口元から胸までも、白い毛皮が赤く染まっている。足元に転がって来た焦げ茶色に焼けた丸頭を蹴っ飛ばすと、ごろんと転がっていった。


「あー……ごちそうさま……」


 腹いっぱいに肉を食べた満腹感と、肉を丸ごと一頭分を食らいつくしてやったという陶酔感に酔いしれながら、園子の心は満たされていた。

 食らおうと思えば、何であろうと食らえるのが分かったからだ。

 そう、自分の本性は正しく獣。

 本来の自分はセクハラに屈するようなか弱い人間の女ではない。鋭い牙と爪を持つ、獰猛な肉食獣なのだ。

 ブクブクに肥え太ったセクハラ上司など、檻の中に放り込まれた家畜もいいところである。

 その事実に気づいた今、へこへこと上司に媚び諂っているのがバカバカしく思えてくる。


「はっはは……なーんだ、やれば出来るんじゃん、私……」


 そんな、心の底から湧き上がってくる満足感に満たされるのを感じながら。

 全身で陽光を浴びる身体がぽかぽかと温かくなるのを感じながら。

 園子はゆっくりと、微睡むように目を閉じた。




 目を薄っすらと開くと、目の前に広がるのは夜空だった。

 空き地にマットレスが敷かれているだけの、寝床にも何にもなっていないような空間に横たわっていることを認識した園子が、ゆっくりと身を起こす。

 視界で存在を主張するマズルはない。両手両足の鋭い爪も、全身を覆うスカイブルーの縞が入った毛皮も無い。

 ただ、スーツに身を包んだ人間の女が、そこにいるだけだ。

 立ち上がってぱんっと軽くスーツを叩き、埃を落とす。ショルダーバッグを手に取りながら、左手首につけた腕時計に目をやると、確かにちょうどこの路地に入ってから1時間。

 都合のいい夢だったのかもしれない。しかし夢だとはどうしても思えない。

 だって。


「(こんなに晴れやかな気分になったの、久しぶり……)」


 園子の心はどこまでも、それこそ「エリカの園」の青空のように晴れやかだった。

 もう、セクハラ上司に頭を悩ますことも、仕事に忙殺されて心を殺すことも無い。

 もしまた生きるのに疲れるようなことがあれば、ここに来ればいいのだ。

 自分の中に確かに宿る、白い毛皮の獰猛な虎獣人の女性を感じながら、園子は空き地の端に据えられた古めかしい木製の扉を、ゆっくりと開いた。




「おはようございまーす」

「おはようございます」


 翌日。

 園子はいつものように勤め先の会社に出勤していた。

 昨夜の「エリカの園」での一件以来、どうにも気持ちが高揚して仕方なかったのだが、それをぐっと堪えて社員と挨拶を交わす。

 自分のデスクにショルダーバッグを入れて、ちらりと課長のデスクに視線を向けると。

 いた。肥え太って、へちゃむくれて不快な顔立ちの西村課長が。

 しかし何というか、非常にげっそりとしている。元気がないというか、覇気がないというか。ずっと視線を落としておどおどとしている。


「あの、西村課長、なんか様子が変ですけど何かあったんですか?」


 園子は声を潜めて、隣のデスクに座る先輩に声をかけた。身体を傾け、顔を近づける。

 すると先輩もひっそりと、顔を近づけて口を開く。その表情は何とも、小気味の良い笑みをしていた。


「それが課長ね、なんか昨晩ひっどい夢を見たとかなんとかで、全然寝付けなかったんですって。真っ白な虎に生きたまま喰われたとか……バカみたいじゃない?」

「へーえ……?」


 先輩のその言葉に、園子の口角も自然と吊り上がる。

 なるほど。心の中でそう呟く。

 もしかしたら「エリカの園」で私が食らい尽くした肉塊は、西村課長の変わり果てた姿だったのかもしれない。

 あそこのおかげか、単なる偶然かは別にしても、自分の心が強くなるとここまで余裕を持って生きていられるのか。

 素晴らしいことだ。

 ともあれ、園子は心の中でほくそ笑みながら席を立つ。課長や部長に朝のお茶を淹れるのを、毎日要求されているからだ。前時代的な風習だと思うが、今朝はそれも苦にならない。

 給湯室に行き、急須にお茶の葉を入れて熱湯を注ぐ。いつものように、沸かしたての熱々の熱湯だ。

 程よく蒸らしてから茶碗を取り、西村を含む課長の分、部長の分、と、園子はお茶を淹れていく。

 そうしてお茶を用意すると、園子は満面の笑顔でフロアに踏み出した。

 西村の分にだけ雑巾の絞り汁を入れてやろうかという思考が頭をよぎったが、さっさと追い払う。そんなことをする・・・・・・・・必要はどこにもない・・・・・・・・・


「お茶が入りました」

「ありがとう」


 まずは部長のもとに、淹れたてのお茶を運ぶ園子だ。

 壮年のイケオジな部長が笑顔で応対してくれることが予てよりの癒しだったが、今日はそれだけではない。


「西村課長、お茶が入りましたよ」

「ぃっっ……!?あ、あぁ」


 隣の島、西村が座るデスクに近づいて茶碗を差し出すと。

 西村ははっきりと、園子に対して動揺と恐怖の表情を一瞬だけ見せた。

 にっこりと笑顔を返す園子であるが。

 薄っすら開かれて西村を見つめるその瞳は、彼女の魂の姿である、肉食獣の瞳の輝きそのものであり。

 西村の身体がガクガクと小さく震えだすのを尻目に、園子は他の課長に茶を出すべく、彼のデスクを離れていった。


「相野さん、課長に何かしたの?」


 先程彼女が声をかけた隣の席の先輩が、不思議そうに問いかけてくる。

 それに対して、彼女はにっこりと笑顔を見せると。


「いいえ?なんにも」


 そう朗らかに告げて再び歩き出すのだった。




 エリカの園。

 肉体から解き放たれた魂が、その魂の望むままに振る舞う場所。

 心の奥底に溜まった欲望を開放し、自由になる場所。

 人生に疲れた時、心が悲鳴を上げている時、理不尽な扱いに泣きたくなる時。

 その扉は神楽坂の裏路地で、あなたを待っていることだろう。

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