第2話 ほろびと再生

 静かな、夢の中で、ニーナは足先からじんわりととろけるような心地を味わっていた。

 灯った熱はどうしようもなく熱い。とけてしまうようだと、意識を溶かしながら彼女は思う。熱の発信源はニーナ自身ではない。触れてくる誰かのてのひらだ。

 本来体温の低いニーナの全身を、優しい手つきが愛撫していた。

 ゆっくりととかしていくように触れてくるのは、鋭い爪を宿した指先だ。一瞬でも爪を立てられれば怪我をすることだろう。けれどもニーナはその爪を、おそろしいとは思わなかった。

 むしろ、気持ちがいい。

 心地が良くて、もっと、とねだるように体温に擦り寄ると、やさしい指先が頰に落とされた。時折かすめる危ないはずのひんやりとした爪もたまらなくて、心をゆるしてしまいそうになる。

 ——どうしてわたしのゆめにでてくるの。不意に、声が、口から漏れた。

 ほそいほそい、声だ。

 誰の声だと耳を疑ったけれど、なんのことはない……この夢はニーナのいつもの夢なのだから、声の持ち主はニーナの他に選択肢はないのだった。

 問いに返事はなかった。

 ただためらうように愛撫が一度止まった。やめてしまうのかと目を開けて相手をうかがうと、間近でまっくろな目と視線が合った。しばらく見つめあって、まもなくそろそろとまたてのひらが動き出す。

 ——ねえなんで、あんたは、わたしの中からいなくなっちゃったの。

 前の言葉とは打って変わったなれなれしい口調でニーナは口にして、子供のようにどうしてと言いながら、相手を追い詰める。

 声がかすかに濡れていた。

 あつい指が目の端を撫でていく。指の腹についた涙を見て、私は泣いているのかと、ニーナは自分のことなのに他人事のように驚いた。

 手のひらの動きが、目を見開いたニーナの気持ちをなだめるように、変わる。一度開けたまぶたが、ゆっくりと重くなる。

「死んだんじゃない」

 たくさんの沈黙の後に耳に飛び込んだのは、やさしい声だった。

 大丈夫、すべてうまくいく、しんだんじゃない、とくり返す言葉は、まるで子守唄のようだった。耳から滑り込んできて、思考回路をどろどろに溶かしていく。

「君を置いていかないよ。私はいつだって、君のなかに。ずっと、一緒だ」

 ——ほんとうに? すぐに彼女は聞き返していた。

 あまい言葉だった。そう言われる理由もわからないのに、ニーナはどうしてだかひどくなつかしくて悲しくて、うれしくて、仕方がなかった。

 ゆるみきった全身を中身まで、一通り撫でられた後、とん、とくるぶしの辺りを確かめるように突かれて、かすかに四肢がしびれた。頭を突き刺す痛みが生まれ、徐々に大きくなっていく。

 宙に浮いていた意識を、いたみが急速に現実へ押し上げる。

 この夢から覚めたくない! 切実にそう、願うのに、体が待ってくれなかった。

 最後に視界の端に映ったのは、まっしろで透明感のある、あわい——あわい、色だ。

 この色を知っている、とニーナは思う。

 知っているだけで理解ができない。照らし合わせる知識がない。

 どこかにあるはずの記録がすぐに手に届く範囲にないことが、ひどく、もどかしかった。

 私の、だれか。その声を呼べないことは、不幸だ。



 朝日が差し込むようにしてニーナの目を容赦なく焼いてくる。頭の痛みはあざやかだった。生きていることを必死に訴えかけてくる力だ。体は生きているなんて自覚もせずに生きているのに、痛みを感じる時だけはいやに痛切に、現実を訴えかけてくる。

 それにしたって変な夢だった、とニーナは頭痛をいたわるように寝返りを打ちながら思う。

 先程まで見ていたものは、どうしようもなく変な夢だった。へんに色鮮やかで、覚めたくないと感じてしまうような夢だ。こんなにも脳が痺れるような心地は久しぶりだった。まるで、誰かに恋をしているような。

 恋。

 そんなものに、振り回されるような青臭い記憶はひとつもないはずだけれど。

 はなやかな夢でみたものは、小説だとか人の話だとかでよく聞くような、そんな感情によく似ていた、気がする。

 いい加減支度をするために起き上がったのは三回目の寝返りをしてからだった。頭痛は治まっている。よかった、と無感動にニーナは考える。体健康管理ができていないと他人に言われるのは屈辱的だからだ。

 いかに平穏に一日を過ごすか、そればかりを考えている。

 起き上がってシャワーを浴びる。全身に染み付いた死の匂いを振り払ってそそくさと風呂場を出ると、冷たい空気が肌を撫でた。昨日までとは全然違う、冬の空気だった。

 まさか、と思いタオルを一枚巻いただけでカーテンを開け放つと、外は真っ白な雪で覆われていた。

「え?」

 昨日まであんなに暖かかったのに。

 何が起きているのかと、タオル一枚をまとったままテレビをつける。

 電源のついた画面には、季節外れの大寒波、各地が大雪に見舞われて交通網が麻痺、と信じられない文字が並んでいた。三月も終わりが近づいている。その中で、東京都の中心部で雪が降るほど気温が下がるなんて。

「もう四月も目の前だっていうのに、どういうこと?」

「それ、ふしぎな箱ね。どっかとつながってるの? しかもあたしたちみたいなこどもがひとつもないわ」

「あんた起きてたのね」

「今、おっきな声でどういうこと? って言ったでしょ。それで目がさめたわ。どうもこうも、原因はヤットよ。それからあたし」

 疑問に対する返事は後ろから来た。

 起き上がったツヅリが猫のように大きな伸びをする。

「ヤットはあたしの国、ホクラクの神獣よ。巫子みこのあたしがここに来て、こんだけ雪がふって、それが変だっていうんなら、ヤットはやっぱりここにいるわ」

 長い髪に派手な寝癖をつけてにっこりと嬉しそうに笑う少女にニーナは頭を抱えた。

 ホクラクなんて国の名前は聞いたことがないし、シンジュウ、とはなんだ。

「ちょっと意味がわからない。ひとつずつ説明して」

 早めに起きたからそれぐらいの時間はあるはずだ。

 それにしたって出勤できるかは不明だけれども。

 テレビからはひっきりなしに出社する手段がないことを伝えてくる。焦ったように外出を控える旨を伝える声を聞き流しながら、待ってましたと言わんばかりにツヅリが説明をする。

 彼女が住んでいる国はホクラクと言って、一年中冬の国であること。四季を司る国は真ん中のただひとつだけで、ニーナが住んでいるこの世界のようにテレビやそんなものはないということ。ホクラクと同じような国は他に三つあって、それぞれに《神の遣い》と呼ばれる獣がおり、子供たちが巫子として使えていること。

 ツヅリはホクラクの巫子であり、神獣ヤットに使える身であること。

 大人は子供たちの小間使いであること。

 ツヅリの住む世界について。

 すべての知識を吸い込んで、ニーナは眉をしかめた。そんなこと、現実であるはずがない。

 けれどベッドから降りてニーナの側に駆け寄った彼女は現実にここにいて。口にするのだ、彼女の持つ要望を。金色の目を光らせて。

「《シロクマのニーナ》、あたしの話はうそじゃあないわ。あなたのことを知ってるのも、すべてほんとよ。あたしは神獣をさがしに来たの」

「……昨日から学習してないみたいだから言うけど、大人をからかうのもいい加減にしてよね」

「あたしにはからかうなんて時間もないの。早くしないと、国がほろびるのよ」

 もう既に神獣が国を出て一年も経ってしまった、とツヅリが静かに口にする。

「ヤットが残した力はもって二年よ。かなり弱ってきてる」

「妄想もいい加減にして。ホクラクなんて国、この世界でそもそも聞いたこともない」

「目にしないと信じないというの?」

 大人ってやっぱりかわいそうなことね、と冷たく言われた言葉に目の前が真っ赤になった。

 胸ぐらを掴んで引き上げた体は昨日と変わらずひどく軽くて、軽いからこそ、ニーナは思うまま目線を合わせて彼女を睨みつける。

「殺すなら、それでもいいわ」

 乱暴に扱われているというのに、ツヅリは冷静だった。

 子供らしからぬ艶やかな笑みで、彼女は続ける。

「どうする? このままあたしをほおり投げてみる? 窓の外へ。今ならすぐに死ぬわ。そうしたらこの国はこれからずっと冬のまま、ずっと雪はやまない。次の季節もめぐってこない。すべてはこおり、死ぬ。あたしの国みたいに。あなたはその責任を負えるというのね?」

 金色の目は暴力にたじろがなかった。大人からふるわれる暴力がなんの解決にもならないことを知っている。

 この強さだ、とニーナは思う。

 この強さはニーナの知るこの年頃の少女にはないものだ。

 その目の中に、昔の自分を見た気がしてどうしようもなくなってくる。

「しょうこが欲しいのならば、かんたんなものくらいなら見せられる」

 首を支点に吊り下げられたまま、ツヅリが窓から見える立ち往生した池上線の銀色の電車を指差す。

 車両が、唐突に真っ白く変貌した。凍ったのだ、と気がついたのは線路上の雪かきをし終えた駅員らしき人間が扉を開けられず四苦八苦していたからだ。首をかしげる演技に嘘はないように見えた。異常に気がついた、付近で雪かきをしていた数人が集まり、扉に手をかける。その何人もが成人男性だったが——いくつもの腕と指をかけてしても、扉は少しも動かなかった。

 どんな仕掛けをしたのかは検討もつかないけれど、ツヅリが指差したものが目の前で凍った、それだけで十分な衝撃だった。

「もっとほしいなら次はあの人をこおらせましょうか? その箱の中の人でもいいわ」

「いえ、もういい」

「本当に?」

「本当に! だから、もういい」

 力なく下ろしたニーナの顔を見て、ツヅリが指を折り曲げる動作をした。途端に元の色を戻した電車にニーナは続けて目を見張る。

「あたしの言葉にうそはないわ。ヤットを見つけられなければこの世界はこのまま。あなたも困るでしょ? だからね、ニーナ。あなたの力をかして欲しいの」

 あたしはこの世界のことを知らない、あなたの思い当たる場所を調べて、と口にした少女に今度は抵抗することなく、ニーナは一度頷いた。



 手頃な冬服をクローゼットから掘り起こして身につけたニーナは、暖房を点け、髪を乾かす時間を惜しんでタオルを頭から被りテーブルの上のノートパソコンに向き合っていた。

 ホッキョクグマがツヅリの言う通り、ぬいぐるみではなく、絵でもなく、おとぎ話でもないとするならば。

 動物がいて違和感のない場所として思い浮かぶのは、動物園だ。

 けれども動物園を真っ先に候補に挙げたニーナの考えをツヅリは切り捨てた。いわく、ヤットは見世物に近寄るような生き物ではない、とのことだ。

「頭のいいひとなの。自分からそんなドウブツエンとかいう、獣が管理された場所には飛び込まないわ」

「……じゃあ他にどんなとこがあるっていうの」

「それはあたしにも分からないけど……ねえ、おねがい。あたしにはあなただけがたよりなの」

 ツヅリはニーナが急ぎ近所の家から借りてきた子供用の洋服に身を包んでいた。安っぽい使い古されたセーターとパンツだ。裏起毛の靴下に包まれた足をぶらぶらと遊ばせながら、スマートフォンと睨み合うニーナの目の前で、のんびりと本棚に置いていたアルバムをめくっている。その余裕さに腹を立てながらニーナは再びインターネットの検索画面にキーワードを打ち込んだ。

 ホッキョクグマ、本、美術、絵。

 動物園以外ならなんだってありだろう、と目星をつけて半ば祈るような気持ちで検索し探していく。

 検索結果として表示された数の多さに目眩がした。ホッキョクグマの情報は、世の中に、溢れかえっている。

 ねえもう少し、なんとかならないの、という言葉をニーナは飲み込んだ。

 今ニーナの肩には日常がかかっている。

 ツヅリだって見知らぬ土地に来て、ニーナが頼りだという、その言葉に嘘はなさそうだったから。

 会社には既に休む旨は伝えていた。

 電話口に出た同僚は仕方がなさそうに、今日は仕方がないと嘆息していた。こんな雪だもの、不運だね、明日には止むといい——誰しもが明日には元通りになることを願っている。元通りの、平穏な日々に戻ることを。

 振り続ける雪は既にマンションの一階部分を埋め尽くしていた。同じマンションに住む何人もの男性が雪かきに駆り出されている。慣れない手つきで雪をどかす姿は、哀れなほどだった。腰が引けている人間が雪に埋まって悲鳴をあげる声が聞こえていた。その、すべてを、解決する手はずを持っているのが、この目の前の少女だと誰が想像がつくだろう。

「ニーナがはじめにシロクマとかかわりのあったとこはどこ?」

 ぽつり、とツヅリが言う。

「上野動物園」

「そっか」

 ドウブツエンって獣が見世物の場所でしょ? なら違うわ、と首を振るツヅリは再びアルバムをめくり始めた。

 その質問は今の状況にかかわりがあるのか、とニーナは焦りから眉をしかめた。探しているのは現在で、ニーナの昔話など関係がないだろうに。

 分かりやすい場所に潜り込むほどヤットは頭が悪くない、と言ったのは彼女だ、そう間違いなくツヅリ自身がそう言った……なのに今の質問はなんだ。

 そもそも疎いからといって自分から調べることもせず、すべて受け身なのはどうしてなのか。

 苛立ちを一度落ち着けるためにニーナは席を立った。

 換気扇を起動して滅多に吸わないたばこに火をつけて煙を吸い込む。ゆっくりと吸い込まれていく煙を見つめながら、その問いの違和感を拭い去れずにいる。

 探す前に、私はなにかを見落としている、気がする。

「ねえ、なんであんた私のこと知ってたの?」

 灰を空き缶に落としながらニーナは背中越しに問いかける。

「え? それは、ゆうめいだからで……」

「それともう一つ、なんで私の使う帰り道にいたの?」

 あの邂逅が、もし、もしもだけれど。

 仕組まれたものだとしたら。

 馬鹿らしい考えかもしれないけれど、見捨ててはおけない可能性だった。少なくても雪に閉じ込められた部屋でインターネットを駆使して闇雲に探すよりはいいかもしれない。

「え? ええ? わかんない……あたしはホクラクでヤットをさがしてたの。そしたら地面がわれて、そこに落ちた。んで、なんかあったかくなってきて、もっとあったかい方へ歩いて行ったら、あそこにたどりついて……」

「私以外にあんたに気がつかなかったの?」

「あたしがおぼえてるかぎりでは、あなた以外にあそこに来た人はいなかったわ」

「そう」

 あの道はニーナ以外にまったく人間が通らない道というわけではない。

 程よく人が通り、ましてやそこにあんな変な光景がくり広げられていたら手を貸さない人間はいない土地柄だ。

 ありえないことが起こっている。

 これが現実だと言うのなら、ひとつひとつに向き合わなければならない。

 あるべくして二人が出会ったというのなら。

 じ、と音を立ててたばこの火が指先に近づく。

 残りを空き缶の飲み口に落として水を入れた。

「《シロクマのニーナ》私のこと、会ってすぐそう呼んだわね」

 彼女はニーナのことを有名だ、と口にした。ならば、ツヅリの国、ホクラクにはニーナの名前がなにかしらの知識として伝わっている可能性があり。

 ニーナは、今回のことにまったく無関係な人間ではないのではないのだろうか。

「うん、そう、言ったけど……」

「あんたの国に伝わってる私の話をして」

 振り返りそう言うと、不思議そうな顔をしてツヅリが慣れた様子でそらんじた。

【遠く異国の国、四季が巡る小さな国で、ホクラクの兵たちは創造主によって生み出され、そして、それは他の国でも同じように、営みが紡がれている。

 凍土の国ホクラクの創造主は数あれど、彼女には敵うまい。その名を《シロクマのニーナ》素晴らしき力を持った少女である。

 彼女の生み出したはじめの獣は神となり、世界の鳥の神子みこの下、付き従うものとなった。膨大な力を持った神獣ヤット、白髪の巫子を従え咆吼ほうこうをとどろかす。

 ああゆめゆめ忘れるなかれ同胞はらからよ、ましろの塔は抗うことを好まない。凍土の国で神獣に従い生きてゆけ】

 うたうような声に、揺らぎはなかった。

 何度も言い聞かせられてきたのだろう。親から子供へ語り継いできたのだろう。

 きっとそれは子守歌のように子供達に伝えられてきた。

「ホクラクのこどもならだれでも知ってるおはなしよ」

 落ち着き払って言葉を締めたツヅリへ近づくと、震える指で、ニーナは彼女の開いていたアルバムに手を伸ばす。

「それが冗談でないとするならば、私のはじめの作品は、叔父の家にある」

 ニーナが指差した写真は叔父の部屋で撮られた一枚だ。ニーナと叔父が二人で写っている、その後ろで額に収められた絵がある。鉛筆しか使用していない、荒々しいタッチで描かれたニーナの処女作。

 馬鹿な思いつきを言っている自覚はある。

 しぼり出したニーナの声に、ツヅリは困惑を見せた。

「まさか、あたしがここにきたのってひきよせられたの? あなたに?」

「そのまさか、かもしれない。彼がいなくなる前に、変化はあった?」

「そういえばなんだかぼーっとしてる時間が長かったような……こう、たしかめるように、何度も手をにぎってたわ」

「どんな格好で?」

「この絵みたいに、こうよ」

 そう言って、ツヅリが宙を掴むような動作を、した。

 指先がなにかをつまむような、仕草。それは、ニーナにとっては覚えがあるもので。

「急がなきゃ」

 唐突に、嫌な予感が頭をかすめてニーナは勢いよく部屋の中を歩き回る。外は大雪だ。厚手のコートとマフラーを二人分用意した。子供であっても小柄のニーナのコートならばなんとか身につけられるはずだ。

「え、なに? なんで?」

「答えてる時間がない」

「あたしには、答えてもらうギムがある!」

「じゃあ言うけど!」

 ニーナは髪に残った水滴をタオルで拭き取りながら彼女に答える。

「昨日私の叔父の通夜だった。今日は葬式、午後から遺体が火葬される」

「それが、なんだっていうの?」

「あんたのところに伝わってる伝説。あれが本当ならば、ヤットのおおもとは私が一番はじめに描いた絵。その絵は大切に叔父が部屋に飾っていた。それこそ『僕が死んだら棺に入れて欲しい』と言うぐらいには」

「まさか」

「そうそのまさか」

 ツヅリの中でもすべてがつながったようだった。

 言葉を失った彼女へなんといえばいいのか分からなくて、ニーナは引きつった笑みを浮かべる。

「殺されるわよ、あんたのヤット」



 小さな足にニーナのスニーカーの紐をきつく結んで二人で家を出た時点で午前十時を過ぎていた。火葬場まではどんなに急いでも在来線で片道二時間はかかる。新幹線を使っても一時間、遺体が骨にされるまで、予定通りならばあと四十分、どんな手段を使っても間に合いそうにはない。しかも外はあいにくの大雪だ。歩くことも一苦労なのにどうして外出しようと思ったのか。

 目的地まで向かう手段を考えるよりも先に飛び出してきてしまった、そのことに、寒い中で後悔しないというと嘘だけれども。

 早くしなければと気が急いてしまう。早くなんとか手を打たなければ、日常に戻る唯一の術がなくなってしまう。

 焦りを顔に貼り付けたまま、怒鳴りつけたいと叫ぶ感情を飲み込んで、静かにニーナはツヅリに問いかける。

「ぼんやりしてないで今度はあんたが考えて。向かう手段はなにかないの? さっきやったみたいに」

 あんたも必死なら努力する姿勢を見せなさいよ、とニーナが付け加えると、唇を噛み締めてツヅリが彼女を見上げた。

「神子からこの世界はすすんでるって聞いてたわ。どうにかできないの?」

「甘えたこと言ってんじゃないわよ。この世界はあんたに都合がいいようにできてないわ。さっきあんたがあたしを脅す際に使った魔法みたいな力も、なにもないの。あんたね、そのヤットがそんなに大切なら、文句ばかり吐いてないで誠意を見せなさいよ」

 ニーナの言葉に、傷つき迷うようにツヅリはその強い目を揺らした、けれど。

 迷いは一瞬だった。

「そうよね」

 雪が舞い上がる。

 吹雪が視界を真っ白に染めて、色を奪っていく。強烈な冷たさだった。

 吹き付ける風にニーナは目を閉じて、次開けた瞬間には扉の前に浮遊する白熊が一頭、頭を垂れていた。

 ツヅリの目線に従って心得たと言わんばかりに姿勢を低くするそれに、ツヅリは率先して跨る。一拍遅れてようやくニーナは理解した。

 これが、ツヅリの見せた目的地に向かうための手段で、覚悟なのだと。

「いそいで」

 催促されて跨った体はひどく冷たく、指が食い込むほどにもろかった。座り心地は新雪に座ったようにやわらかだ。雪でできているのかと目を丸くしたニーナと、ツヅリを乗せて白熊が廊下から外へ勢いよく舞い上がる。不思議なことに白熊の体はニーナの力で崩れるほどもろいのに、動きは力強く、空気を割いてゆうゆうと空を上がっていく。

「これ! 大丈夫なの?!」

「だいじょうぶよ、あたしをなめないで」

 吹雪の下で見るツヅリの肌は透き通るように白く、その唇はあかあかと燃えている。髪の毛は目の前の光景と相反するように黒々と艶やかに光っていた。髪色が昨夜見たような灰色ではなかった、ことに引っかかりを覚えたけれど。それを抜きにしても彼女はひどくうつくしかった。

 その横顔のうつくしさに見とれて言葉を失ったニーナの心を知らず、ツヅリは鋭く指笛を吹くと、ニーナに道を聞いた。慌てて彼女が差し出したスマートフォンにツヅリは驚き、絶えず動き続ける現在地と目的地の仕組みを確認すると、音程の違う指笛で方向を指示する。

 眼下の景色がみるみる内に遠くなり、充分な高さを保つと駆け出すように白熊は加速した。

 冷たい風が頰をしたたかに叩く。

 まっしろな雲の中、現実との境があいまいになる。

 瞬きをするたびに視界がぼやけ、いつしかニーナは深い夢の中へ取り込まれていった。



 無数の、針のような星が空を覆っていた。

 まばたきの度に数を増やすそれは、互いにくっついては離れ、いつだって無邪気に遊んでいる。星の笑い声は毎晩ひどくやかましく響いていたが、苛立ちを上回るほどのうつくしさを彼らは持っていたから、心底腹を立てる人間は誰一人としていなかった。

 ホクラクの人間であれば、夜のうつくしさに心ほどかれない者はいないだろう。

 他国からの移住を夢見るものや気まぐれに訪ねてきた民もまた、この国の夜は格別だと口にする。

 いつだってここの夜は特別にうつくしかった。

 ただし吹雪や嵐がないときに限って、だが。

 こんなにも星は綺麗で、ひとつひとつが思うままにうたっている、その下で。

 まっしろな髪の少女は、深い雪を全身で踏みつけて、探し物をしていた。

 探しているのはつい半日ほど前に消えてしまった、彼女の半身だった。いや、半身というにも足りない——彼は彼女の全てだった。この国において、彼以上の力はいなかったし、彼がいなければ少女の今の立ち位置はなかった。

 彼は神獣であり。

 少女はこの冬の国、ホクラクの巫子だった。

 この、四季折々がひとつずつ領土を持ち、水面下でしのぎを削る世界で、彼女は神獣に選ばれた。それゆえに、世界を統べる鳥の神子の下で国同士、互いの抑止力となる、存在になった。そのことを窮屈だとか重圧を感じているとか、そうは思ってはいない。ただの貧しい孤児院で床に這いつくばって落ちたパンのかすを食べていた耳の不自由な少女が、国一番の力を持ったのだ。不思議だった。ただただ少女にとっては不思議だった。

 選ばれた理由について聞けば神獣は笑った。——君の目がとてもきれいで。それは、愛の告白だった。恋に溶かされたまま、夢うつつに大きな建物に連れてこられて、少女の戸惑いは生活する環境の変化の下ですぐに溶かされて消えた。

 聞こえなかった耳が神獣から与えられた魔力でふつうの人間以上に。身につけていたうす汚れていた布が、まっしろな肌触りの良いものへ。パンのかすが焼きたてのやわらかくて温かいパンへ。冷たい雪をはだしでおそるおそる踏み出さなくてもいい。聞こえない耳で周囲を伺いながら薪集めをしなくてもいいのだ。

 あいしてる。はじめて言った言葉は、砂糖みたいにあまくて、最高だと、少女は思った。

 心はいつも、満たされていた。

 こんなにも心が満たされることは不幸ではない、ということを、はじめて少女は知った。

 だから手放したくない、とも思うし、もしこれが神獣の選択で、神のお導きならば仕方がない、とも思っていた。あたたかい神獣の体に常に寄り添いながら、まるで夢のような、地に足のついていない、おぼろげな幸せだと、何度も彼女は思っていた。そう考えていた罰が下ったのかもしれない。

 その証拠に、神は今、少女に助けの手を差し出さない。

 幸せを持っていたという事実すら、夢だったのではないかと思えてくる。

 皮肉だと、小さく少女が笑うとすぐに寒気が布をかいくぐって体内に侵入してきた。奥歯を噛み締めて、寒気を吐き出す。ホクラクで一番の命を落とす原因がこの寒さだ。頭で分かっているからには、彼らに隙を見せてはならないと進みながら思考する。

 すでに防寒具に包まれていた手足が寒さに負けてかじかんできていた。指先の感覚がにぶく、外気との境界があやふやで、息をするのすら、一苦労だ。

 まとっていた服はすでに体を守る意味を成していなかった。体温で溶け出した雪が水となり、静かに布地に浸透してゆっくりと少女の体温を奪っていた。気つけの酒は置いてきてしまった。早く動くには身軽であることが一番だったから。

 しかし、いくら焦っていたとはいえ、簡単な防寒具だけで着の身着のままで出てきたのはさすがに考えなしだったかもしれない。焦りに顔をしかめながら、自身に残った魔力で寒さを遮断して、なお彼女は進む。

 神獣を取り戻すために、前へ、進め。一歩でも遠く、彼の足跡が見えるうちは。

 今夜、吹雪がやってきていないのが唯一の幸運だった。

 神獣の残した足跡は彼の魔法でじんわりと光を放っている。

 光るうちは、進まなければならない。

 辿れるうちは、だけど、ねえ。

 進みながら彼女は小さな疑問を口にする。

「ねえどうして」

 声を、向ける先は誰もいなかったけれど。

 ひたすら前に、進みながら。

「しあわせを、かみさまはうばったのかしら」

 小さすぎる声は深雪に吸い込まれて打ち消される。

 少女は歩き続けている。

 その先に、求めるものがあると信じる、それが唯一の彼女のよすがだった。

 さようならも言わないなんて、ヤット、あなたをゆるさない。



 ニーナが気がついたときには辺りはその様相をがらりと変えていた。

 雲の切れ間から覗く光景が背の高いビル街から一面の田園へ変化している。

 びょうが額をしたたかに打つ衝撃に、のけぞりながらニーナは白熊に指を食い込ませる。

 先ほどまで飲み込まれていた夢は、ツヅリの記憶だろうとニーナは思う。彼女がなくしたヤット。ホクラク、そのうつくしさと這いつくばって生きてきた記憶。

 あまりにも鮮明すぎるそれは、説明されるよりも心に直接響いた。

 彼女を、彼と再会させねばならない。

 少女と混じり合った記憶に、不思議と不快感はなかった。普段だったら顔をしかめていたかもしれないけれど。

 ぼんやりとしている間に落ちなくてよかった、とニーナは思う。ここで白熊から落ちて時間を無駄にしたくなんてなかった。ツヅリが誠意を見せたのだから。間に合って! 間に合ってよ! と心中で叫ぶ。

 指笛が、うた、のように、連なっていく。

 風、と、雪を、割く旋律は、敵に向けて斬りかかる武器のようだった。

 ズボンに包まれた足がひんやりと白熊の水を吸い取って冷たくかじかんでくる。

「ねえ、溶けてない?」

「これは雪だしとけるわよ。でも、とけきる前に、つくわ。かんじるのよ、まちがいない。ヤットは行く先にいる」

 自信満々に言い放ったツヅリの言葉通り、空を駆ける白熊の体は間もなくして昨日見た光景を映し出した。二時間かかる距離が一時間にも満たないだなんて。

 ニーナの悲鳴を残して徐々に高度が下がっていく。目指すは火葬場の裏手にある、職員用の駐車場だった。

 着地はゆるやかだった。

 慣れた様子で凍った地面に降り立ったツヅリに続いてニーナも足をつける。火葬場も一面の雪景色だった。かろうじて人と車が通るところのみは、雪かきがされている。

 白熊に接していた服はすべて重く濡れていた。白熊は文字通り身を削って二人をここまで運んだのだ、と寒さに凍えながらニーナは思う。ともすれば、なんという……献身的な魔法だろう。

「ありがとうね」

 一言ツヅリが白熊の額に顔を寄せて告げると、おおおん、と静かに一言だけ細く泣いて白熊が砕けた。途端に浮き上がった髪がまた、黒々としたものに変わる。はじめて会った時のような灰色はもうなかった。

 先ほど夢で見た白は、はじめからなかったかのように。

「行こう」

 砕けた体に目もくれず、雪道に慣れた人間の歩き方で小さな体が一歩ずつたしかに歩きはじめる。その後ろ姿が不意にかすんでニーナは自らの目を擦った。凍ったまつげが手の甲をわずかに引っかいた。気のせいなら、いいのだけれど。そう思いながら彼女の後を追う。

 ホールの中は暖かかった。

 喪服ではない二人組に不審そうな顔をした出迎えの職員に、ニーナは故人である叔父の名前を告げる。

「親族のものです。やはり最後の別れをしたいと思い……」

 ニーナの説明が終わる前にツヅリが駆け出していた。

 ぎょっとして慌てて頭を下げるとニーナも後に続く。小さな体が駆け寄ったのは左側の大扉だ。

 中に入った瞬間、ごおごおと炎が大きく上がっている、音がした。

 いくつか並んだ扉の中の、既に稼働が始まっているところへ迷わず駆け寄るとツヅリは小さな悲鳴を漏らす。

「ヤット!」

「ちょっと! 危ない!」

 なんでこんなにはじまるのが早いの、と小さな体を抑えながら追いついてきた職員に問えば、早めに告別式が終わって空きがあったので早くご遺体を付されることとなりました——と説明があった。目の前が真っ暗になる。納棺の際に思い出の品をすべて納めたことだろう。

 その中には、きっと、探していたヤットの絵も。

「やだ! ヤット!!」

「ダメだって!」

「でも! でも!」

 骨と皮だけの小さな体が嵐のように暴れ狂う。細くて小さな四肢に体を殴られながらニーナは彼女を抑え込む。

「ねえ、だめなの、あんた、そのヤットじゃなきゃだめなの?!」

「そん、なの!」

 体が宙に浮いた感触があって、床に、叩きつけられた。

 視界に星が舞って、せつな、星空が広がる。点滅する目と頭を懸命にニーナは叩き起こした。頭がぐらぐらと頼りなく揺れる。

 今——なにをされた?

 ツヅリに体を投げ飛ばされたと理解するまでに時間はいらなかった。

 気持ち悪さと痛みをこらえて顔を上げたその先には、凛と立つひとつの後ろ姿がある。

「あたりまえよ! 彼じゃなきゃ」

 吐き捨てるように言い切った彼女が虚空に両手を突き出す。その、指先から、銀の糸が伸びて。遺体を付している炉の扉に太い綱となって絡みついた。尋常ではない力で捻られた炉は赤々とした色を見せつけながら、ぱっくりと口を開く。

 熱が一気に押し寄せ、あつさで肌が焼ける、鼻腔の奥をつくえぐみのある臭いが波のように迫る。

「ツヅリ!」

 危険を感じて読んだ名前は、驚いたように振り返った少女に間違いなく届いたようだった。

 その、くちびるが、ごめんねと刻んだのはニーナの気のせいだろうか。

 止めるために駆け寄ってこようとする職員は入り口から近づけずに、あまりのあつさに入り口付近で躊躇しているようだった。ツヅリにとっては好機だ。彼女は巧みに銀の糸をしならせると、熱にそれが溶けることも構わず、奥から鉄板を引きずり出した。その上に乗っているのは、叔父の遺体だ。そして覆い被さるようにいたのは、体を半身溶かした透けたホッキョクグマ。彼が覆い被さっているお陰か、叔父の遺体は棺が焼けてもいまだうつくしく、眠っているような、昨夜見たそのままを保っている。

「ヤット!」

 振り返った彼が、ヤットだとすぐに分かった。

『どうして、力を使い切ってまで……ツヅリ』

 呻くように言ったヤットの声を聞いて、今朝見た夢が弾けるようにニーナの中に広がった。彼は夢の中と同じ声で、同じまなざしだった。溶けかけたその体もまた、夢見た通り、大きくてうつくしい。きっと彼は、優しく、官能的な触れ方をすることだろう。

 ああそうか、とニーナは床に倒れ伏しながら、思う。

 はじめて描いた一枚は私の恋。

 私の執念のかたまり。

 だからこそ、彼はニーナが熱を上げた、あのホッキョクグマそのものになったのかと、考えてしまう。

 ヤットに、ツヅリと同じように手を伸ばしたくなってしまう。はじめてホッキョクグマに恋に落ちたように、このまま私も彼の元へ、死んででも彼と一緒に飛び込みたい、とさえ。

「どうしてって! ばかなこと言わないで。愛してるからよ! あたしのヤット!!」

 もっとも湧き上がった熱は、ツヅリがニーナよりも先に飛び込んでいったことにより急速に冷めたけれど。

 あかあかとした情景の中で、ニーナはツヅリとヤットがしっかりと抱き合って、溶けてしまったのを見た。

 後に残ったのはかすかな水たまりと、そして。

 二人の幸せそうな顔と、自らの奥深くに根付いたはしたない熱、それだけだった。



 それからどうやって叔母の家にたどり着いたのかはわからない。ただ呆然と床に座り込んだニーナの横で、叔母が懸命に頭を下げたまま上げなかったことを覚えている。

 昼間ニーナがツヅリとともに仕出かしたことは消防車を呼ぶ騒ぎになった、ということだけは頭に言葉として届いた。

 不思議なことに一緒にいたツヅリのことは、駆けつけた警察官にも深くは聞かれなかった。

 その場に居合わせた職員たちも、蒸気でよく見えなくて覚えていないの一点張りだった。そう対応したのは大人の都合だったのかもしれない。深い事情についてはニーナは知らなかった。人一人が消えてしまうなんてありえない、と考えた結果みんなが彼女を誰もいなかったように扱った。その結果今回のことは、装置のトラブルに大人が巻き込まれたという、おかしな話で片がついてしまった。

 ひと騒ぎあったが、叔父の遺体はその後無事に火葬され、目の前には鉄板に打ち上げられた骨があった。その内の小さなひとかけらを、火傷すると分かっていながらニーナはそっとハンカチに挟むと自らの厚手のコートのポケットに滑り込ませる。誰もニーナの行動を見てはいなかった。他の骨は淡々と儀式的に白い骨壷に納められ、あっという間に、叔父であったものはこの世から失くなってしまった。

 叔母は骨壷と共に、今夜一晩を過ごすという。

 ニーナは元住んでいた部屋に布団を敷く場所がないと、叔父の部屋に通された。

 自分がやったことはもちろん覚えているんでしょうね、としつこく言われた言葉に頷きはしたが、実感はなかった。ただ、心だけが遠くに行って、戻ってこない。聞き流されていることには気がついていたのだろう。終いには叔母は反応の薄いニーナを叱りつけることを諦め、寝室に引っ込んでいった。

 あの人は今夜も飽きずに泣くのだろうか、とニーナは思う。

 その涙をひとつぐらいこちらに分けて欲しかった。だって、こんなにも、いろんなことが起こって胸がいたいのに、すぐに涙が出てこない。

 叔父の部屋の壁一面は本に囲まれていた。生前、本をよく読む人だったからもちろんすぐに処分することなんてできずに、整理がつかないのだろう。壁には叔父が生きている時間、そのものが詰まっているような空間だった。やわらかくニーナを包んでくれる、その中で。

 惹かれるようにしてニーナは書斎机に近づくと、電気を点けて椅子に座った。

 持ち主を無くして時を止めた一本の鉛筆、それから、一枚の紙。

 これだけで十分だった。ここから、昔だって《シロクマのニーナ》は始まったのだ。

 まっさらな気持ちで彼女は紙に向き合う。

 今、ニーナが描くべきもの、は分かりきっていた。

 熱が、弾けて、体中に力が満ちる。くたびれていたはずの指先を持ち上げ、ニーナは鉛筆の柄を持った。

 そうだ今こそ、私が、産まなければならない、そう彼女は自身に言い聞かせる。

 かつてのように、いやそれ以上の熱意と執念を叩き込んで。

 物語を終わらせないためにも、大人が、子供にかえって、立ち上がるのだ。

 描くものは決まっていた。

 ホッキョクグマだ。

 描けるはずだ、とニーナはあざやかに思う。描けるはずだ描けるはずだ描けるはずだ! 描いたからこそヤットは生き、ツヅリも生きた。ふたつが恋をしたのだ。ならばここまで導いた神は私にふたたび彼らを産ませるべきだ、とニーナは強く、思った。

 じゃないと、私と彼女の出会いは無駄じゃないか、彼女は唇を噛みながら思考する。

 ふたつがああやって終わってしまうなんてゆるされるはずがない。神がゆるしても私だけがゆるさない。

 唇を噛んでいないとわめいてしまいそうだった。

 ねえツヅリ、あんたのこと好きではなかったけど、幼い子供の不幸を願うほど私はヒトデナシではないつもり——心の中で語りかけながら、今こそニーナは母になると、そう決めた。ひとつひとつ、ヤットの毛並みを描きながら、そう、決めたのだった。



 一度やめたことはすぐに元どおりにはならなかった。動きが鈍った指先で鉛筆を操る。何時間でも、それこそ一生かかったって構わないと唸りながら描き入れていく。

 鉛筆の芯はやわらかく、ともすれば折れてしまいそうだった。それを、やさしく、だましながら、まなざしを、体を、指先を、毛並みを揃えていく。ひとつだって欠けてはいけなかった。完璧なホッキョクグマを描くのだと自身に言い聞かせる。

 頰をつたった水にも気がつかず、手を動かし続ける。

 いつしかニーナは泣いていた。

 長年かけて作り上げた心の氷が溶けてしみ出た涙だった。悔しくて、かなしくて、膨れ上がったたくさんの感情が入り乱れる。その奥底にあるのは恋の熱で、怒りの炎だった。

 ヤットが、ツヅリを選んでくれてよかった、とニーナは泣きながら、今更のように思う。

 ニーナが先にあの体に飛び込んでいたら、もうこんな突飛な行動はできないはずだ。やめたことをまたやろうなんて思わなかったはずだ。

 描きながら上野動物園のホッキョクグマを思い出していた。堂々たる姿で、水に飛び込み、ニーナを厚いガラス越しに見てくれた。数秒だって数分に感じたあの感情は、迷いなく、恋だ。今なら夢の中の感情にだって名前をつけることができる。あれは、恋だった。はしたなく奥深くが、濡れるような熱だ。

 一度切り離されたことによりニーナの恋は終わってしまったけれど。

 ツヅリにはあんな終わりでいさせたくなかった。

 幸せになって欲しかった。はじめから最後まで、今ニーナを突き動かすものはその衝動だ。なにものにも犯されることはない。

 これは、私だけのものだ、とニーナは思う。

 目の光を入れては指先で拭い、毛並みを紙に擦り付けながら彼女は嗚咽する。

 この、最後の恋を、誰にだって渡しはしない。

 ニーナは今なら胸を張って世界に向けて言えるだろう。

 私は《シロクマのニーナ》、すべてのホッキョクグマの生みの親、ふたつの幸せを願ったただひとりの、女だと。



 膨大な熱かあってもやはり十年前とは同じようにいかないらしい、とニーナが感じたのはうっすらとした光に顔を焼かれてからだった。描いて、描いて描いて、気絶するようにニーナは眠っていた。

 眠りはおそらく、浅かった。

 一度離れた上でこれが限界だというのならもう仕方がないとさえ、眠った後には多少冷静に考えられるようになっていた。

 うつ伏せたまま伸びをひとつして、唸りながら身を起こす。今何時だろう、とぼんやりとしたまま考えていた。

 明け方まで描いていたはずだ。小鳥のさえずりがかすかにしたのが耳に残っている。ニーナが育ったこの家は、現在彼女が住んでいるところに比べて動物の動きが活発だった。だから、きっとそのさえずりは間違いなく朝を告げた声だろう、とあくびを噛み締めながら思う。

 ふと、日を遮るものがあることに、気がついた。

 描き込んでいた紙を、覗き込んでいる、ふたつがいる。

 ひとつは少女だった。

 まっしろな長い髪を可憐に後ろに流した少女だ。白いワンピースが陽の光を反射して、眩しかった。ツヅリよりも洗練された動作は教育が行き届いていて、完璧な人形を彷彿とさせる。唯一の違和感は彼女の眉間から伸びた小さなつのだった。つやつやとしたそれは、紙に長い影を落としている。

 存在のまばゆさにニーナが目を細めると、彼女の肩に一羽の鳥が止まったのが分かった。

 それは彼女の色に反するように深い黒色をしていて、太陽を吸い込んでも中身が見えない、夜を持っていた。

『これは見事です。《シロクマのニーナ》の伝説に偽りはありませんでしたね、トト様』

「そうね。これでホクラクはだいじょうぶ」

 ホクラク。

 聞いた覚えのある言葉に顔がひきつる。思わず目の前にある手首を掴んだニーナに、少女は驚きはしなかった。ただ静かに、ひどく凪いだ目で、こう告げた。

「《シロクマのニーナ》このたびはありがとう。かんしゃします。ツヅリもよろこぶことでしょう」

 その言葉で、彼女がツヅリと同様のものであることを悟って、緊張が解けた。

「……私は、やりきったの?」

「ええ。やりきりました」

 良かった、とニーナは机に両肘をついて祈るように自らの描いたものを見つめる。

 描いていた頃に比べれば、構図も描き込みもすべてがあまい、一枚だった。

 それでも生き生きと灯った目の色は、はじめの一枚と遜色ない、仕上がりだった。執念が、技術を上回ったのだ。

 やったのね、とニーナは心中で語りかける。かつての自分へ。産み出したものへ感謝するように。

 少女は気力を尽くしたニーナに向かって微笑みかける。

 このまま終わりになるとニーナはその微笑みを見ながら思ったし、あなたはやりきったの、だから眠って、これは夢だったの——そう言われるものだと思ったのに。

「ニーナ。あなたを、おむかえにあがりました。どうかわたしたちのゆめを、すくってください」

 夢、とは、なんだ。

「なにを、ふざけたことを言ってんの。あんたは」

 あまりの非現実さに、言い返す言葉の語尾が弱くなる。捕まえていた力を抜いて後ずさったニーナの手を、今度は少女が両手で捕まえる。

 ひそやかにきらめくその目の色は銀色。星の尾の彩りだった。

「ふざけてなどはいない。わたしはとりのみこ、ましろのとうにすまう、せかいをすべるただひとりのもとにつかえるおんな。そしてかみはここに」

 宙に差し出した少女の小さな指に、鳥が止まる。

『ボクはノーチェ。国を預かるただのひとつにして、唯一の統制プログラムです』

 そして彼がぴぃよと鳴いた途端、床が抜け、ニーナは叔父の骨のかけらを納めたコートを着たまま、まっさかさまに勢いよく落下していった。

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こどもの国 井村もづ @immmmmmura

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